「隙 間」

2009年08月09日(日) 吉本隆明論、進化と分化と進歩の我論

街はすっかり、お盆休みの様相を呈している。

谷中霊園から千駄木駅へと続く「三崎坂」は大行列であった。
日暮里からの電車内では、もはや見慣れた「ポケモン・スタンプラリー」に東奔西走する親子姿。

親もまた子の頃に、繰り返していたのだろう。



鹿島茂著「吉本隆明1968」

団塊の世代、では一部崇拝され、信奉された思想家・吉本隆明氏の論を著者がわかりやすく論じ直したものである。

吉本隆明とは誰か、団塊の世代より若い者たちには、

作家・吉本ばななの父

といえば、ふうん、と思う者がいるかもしれない。

ずばり言おう。

スターリニズム、とか、プチ・ブルジョア、とか、プロレタリア、とか、よく知らない者にとっては、ちんぷんかんぷんな代物である。

わたしは、その類いにすっかり含まれている。

ちんぷんかんぷんなりに頭に残ったのは、高村光太郎にまつわる小話ばかりであった。

高村光太郎といえば「智恵子抄」であるが、彼はあの「地獄の門」の「考える人」の作者であるロダンの弟子であったこと。
そして、妻である智恵子さんに対する愛妻家である、ということ。

しかし愛妻家もどうやら方向を間違えたものであった。

ということである。

妻である智恵子に「性のユートピア」を見出していた。

そのような姿勢で、毎日同じ屋根の下で寝起きから仕事中から、見つめられ、求められていたら、妻側からみればたまらないのは当然であろう。

妻は女であると同時に、男と同じ「人間」なのである。



真面目な話もしておこう。

「分類化されることは、それが衰退をはじめたからこそなせることである」

といった類いのことが書かれていた。

昨今「ジャパニメーション」などと、日本の漫画・アニメが世界的に認められ、「アニメの殿堂」やら政界までも騒がしている。

つまり、これに当てはめれば、既に日本の漫画・アニメは、

「隆盛の時期は過ぎた」

とも考えられる。

思い当たることはないだろうか。

復刻、焼き直しの首のすげ替えばかりの作品、等々。

週刊漫画雑誌などをパラパラと眺めてみると、二十年以上前と大して物語の中身は変わっていない。
絵柄も、当時の作者のアシスタントだったり影響を受けたのであろう見慣れたもの。

変わった作風、と目についたものは、だいたいが台湾だとか海外の若手作者の実験的なものだったりする。

マーケットとして、やはり我々ベビーブーム世代を取りこぼすことはできない。

パチンコやらの娯楽遊戯に、次々と当時の漫画が題材にされている。

音楽業界もまた然り。
バンド再結成やら、ベスト盤やら、まぎれもない。

ゲーム業界もまた、さらに激しく同じである。

つまりこれらは、ある程度の衰退の時期をとうに迎えている、といえるのではなかろうか。

常に進化を遂げてゆくことは、甚だ困難なことである。

過去から現在を踏まえて、その先へゆかねばならない。

しかし現在、手を変え品を変え、目先だけが変わることにかまけているだけではないだろうか。

それは「進化」ではない。
ただの「分化」であり、前になど一歩も進んではいないのではないだろうか。

たかが数十年の進歩は、進化ではない。
であるから、進化していないことを憂うこともまた詮無いことなのかもしれないが、作り出すことができる、それを支えることができる世代の者として、思うところはあってもらいたい。

分化・進歩の先の、その一歩を。


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