| 2009年07月24日(金) |
「ペダルの向こうへ」学んだこと |
池永陽著「ペダルの向こうへ」
あらすじをざっと話そう。 洋介は、自動車事故で妻と息子の右足を失った。 妻の運転する息子を乗せた車が、トラックと正面衝突したのである。
右足の膝から下が義足となった息子は、学校に通うどころか、心すら誰とも通わせることのない日々を送っていたのだが、父親である洋介がある日、息子の隆にもちかける。
「母さんの故郷に、宮古島に、母さんの遺骨を連れてゆこう。ふたりの足で」
東京の福生から沖縄の宮古島まで、ふたりで、自転車で行こう、というものだった。
事故があった日、本来なら洋介が妻に運転を頼まれたのだった。 接待ゴルフだと断り、別の女性とホテルで過ごしていたのだった。
旅の途中、「事故があって以来、もう終わりにしたはずだ」というのに、その女性から「どうしても会って話をしたい」と連絡が何度もかかってくる。
宮古島に入ったら。
とうとう、聞き入れることになるのだが、条件がひとつだけ、あった。
息子も、同席させること。
運命の日まで、親子はそれぞれの思いや、出会いや、別れを踏み越えながら、ペダルを踏みしめて西日本を宮古島へと向かってゆく。
そして運命の日が、訪れたのであった。
かつて著者の「コンビニ・ララバイ」の解説に、
重松清と浅田次郎を足して割ったような
と評されていた作家であり、何作かわたしも読んだところで、なるほど、と思った作家であった。
しかし。
本作は、どうにも同じ作家だとは、思えなかったのである。
ご都合主義の押しつけに、鼻白む。
説明文のような会話。 理由、根拠、結果の押しつけ。
余白が、ないのである。
不幸な設定、状況、人物が、どうだ、と次々に現れる。
それは小説なのだから、当たり前である。
そこに、いちいちを箇条書きのように、原因や理由と過程と結果をつらつらと並べられたら、どうであろう。
それもまだ、小説であるから、ある。
それを本文に、直接的に……。
興醒めにしかなっていないのである。
あーあ……。
というのが、率直な感想である。
不倫相手だった女性が言う。
不幸のなかに、私も入れて欲しい。 自分だけが背負って、私には何もさせない、罪滅ぼしもさせない、なんて。
おいおい。 なんかもっと違う台詞があるだろう。 不幸に加わって、マイムマイムでも踊って、それだけで終わり、ですか。
前に向かう気配もない。 どん底に落ちようとする意志の強さも、感じられない。
散々、である。
ペダルの向こうは、いくらこいでもただのデジタル画像が流れているだけの、無味乾燥なものだったのである。
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