| 2009年07月11日(土) |
「ベーコン」と「そして私たちは愛に帰る」 |
井上荒野著「ベーコン」
食べ物にからめてなる十編の短編集。 井上荒野作品らしさ、が、若干物足りない印象をうけた。
なんとなく、である。
物語、とはいわない。 思い出、というものを、目の前にした食べ物それぞれに、ひとつでいい、誰かに話せるだろうか。
たとえば――。
トーストは六枚切りか八枚切りかで言い争った、とか。
目玉焼きにソースや醤油をかけるひとがいることを知ってショックを受けたことがある、とか。
アイスコーヒーは最初から甘いものだと思っていた、とか。
どんなに有名で高級で美味しい店のシチューよりも、我が家で食べるシチューが一番、とか。
「母さん(妻)の料理がいちばんだなあ」
などと、重松さんの作品のなかで使われるようなそんな言葉を、使っているだろうか。
「食育」の含んでいる様々な意味のひとつを、たいそうではなく、他愛のないところから考えてみたい。
もっともわたしの場合、その相手がいないのだから、もっぱら妄想において、なのだが。
さて。
「そして、私たちは愛に帰る」
をギンレイにて。
ドイツとトルコをまたいで、トルコ人の抱える知られざる様々な社会・人権問題を扱った作品。
ドイツに移民として住み着いていったトルコ人たち。 そして、トルコ国内のあまり知られていない格差問題。
たとえば。
学校に通っているのは、裕福な家庭の子供だけ、なのらしい。 学校数が足りない。 私立校の学費は、普通の労働者の月収とほぼ同じ。
そんな国には、はたからは見えていないだろう。
見えているのは、せいぜいが「びよん」と伸びるアイスだったり、「とんで」イスタンブールという都市名だけだったり、する。
この作品。
三組の親子の、それぞれの微妙なすれ違いと交差の運命。
運命とは、なかなかどうしてなんともし難いものである。
切り開くもの、とはいうが、切り開くには相当の「モノ」が要る。
切り開くことができず、失い、そして残された帰るところこそが、愛、だった。
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