| 2009年06月27日(土) |
影、闇、虚無。そして有の証明 |
自分の影の、その縁どりの際のところの「うす影」が、だんだんに幅広くなろうとうちふるえている。
「うす影」は、影とそうでないところの境目であり、それはなるべく境界然としてなるべく細くあってもらわねば困るのである。
境目が曖昧模糊となってゆくと、それに乗じて茫と漠が拡大してゆき、中身が判然としなくなってゆくのである。
とっぷりと暮れきった帰りの道すがら、辿る灯りの下を通り過ぎるたびに、影は伸びたり縮んだり、追い越したり引き下がったりを飽くることなく繰り返す。
場合によっては、二匹も三匹も同時にけしかけてきたりもするのだから、いちいち相手にしていたらキリがない。
キリがないのだが、なかば茫と漠が滲み出して判然としていないのだから、キリリと引き締めて統制するには及ばないところがあり、うす影はそれを抜け目なくつついて、さらにほころばせようとしてくる。
ほころびを取り繕おうにも、波縫いに毛の生えた程度しか裁縫術を持ってはおらず、とてもではないが抗しきれないのである。
縫い目の粗いところからそろりと漏れ出して、暗闇に、ぷつり、ぷつり、とわずかずつだが確実に絡み盗られてゆく。
盗られたものは、もう取り返しようがないものばかりである。
思索であったり直感であったり、意識であったり記憶であったり、そしてそれらの境目であったりする。
わたしがわたしの境目を完全になくす、なくしているとき、それはあくまでも自らの意思によるものであったり、わたしの延長上にある、あくまでもわたしというフィルター、ファインダーを通した「内側の外界」との境目であり、わたしの内側なのだから当然そこにわたしがないのであり、少なくとも、「ない」と思っている。
そんなこと、つまり「境目をなくす」ことなど、物語を書いているときや、予測なしに描かれてしまっているときになど、頻繁に起きていること、起こしている、或いは起きてしまっていることなので、迷惑や、まして戸惑いといった類いのものを覚えることはない。
しかし、わたしによるものではないが、紛れもないわたしの内から滲み出てくるわたしの茫漠とした影となると、また別の話である。
影というより、それはもはや闇である。
いや。 闇であればまだよい。
闇であれば、まだ「見えるはずのものが見えない」という存在を証明しようとする根拠のようなものがある。 それすらも無い、いっそ潔いほどの「無」である。
いや「虚無」である。
虚無は常に背中合わせでぴたりと張り付いている。 だから振り向くことはしない。振り向かずとも、背から光を受ければ、正面にうす影となってちらちらと様子を窺う姿がみられるのである。
面白い。
無が無の有を主張しているのである。
いや違う。
有であるからこそ、ことさら無の存在が際立つのである。
つまりは日々、有るということである。
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