「隙 間」

2009年06月13日(土) 「わが教え子、ヒトラー」と暇を耐え忍ぶ

「わが教え子、ヒトラー」

をギンレイにて。

ヒトラーの演説指導者として収容所から突如連れてこられた元ユダヤ人俳優のグリュンバウム教授。
彼が、たったの五日間ではあるが、教え子として前にした男は、ただの孤独な男だった。

実話に基づいた物語、だそうである。

ユーモラスでウィットな作品であった。
そこかしこに皮肉が散りばめられ、御輿に担がれたものは、しょせん飾りであらねばならない。飾りたりえなくなれば、それをなんとかせねばならなず、ならなくばすげ替える以外にないのである。

真実の演出

なかなかの言葉である。

現代社会では、およそほとんどがこれを意識して日々暮らしている。

就活婚活などこれらにはじまる対人関係に関する演出のノウハウが、天気予報並みに流されている。
頭皮をめくってみると、おそらく皆が似たような出版社や放送局、著名人らの名前が、マーカーでひかれて書き連ねられていることだろう。

皆が同じことをやったとしたら、それは個性ではなくなる。
それは本末転倒の話で、実際には、演出はあくまでも演出。演出は本来の個性や主張があってこそのもの。
だから、自分を磨くこと、知ること、伝えたいこと、を、ご自分でいかにして見つけるかが大事なんです。
それを忘れないでくださいね。

との、関係者の発言もある。

演出もひと通り世間を一周して、素直に演出に驚き感動し、受け止めるようになっているのかもしれない。

演出を演出として恥ずかしげもなく演出してみせることは、素晴らしいことなのかもしれない。

しかしわたしは、丁重にご辞退申し上げよう。

恥ずかしくて、とてもではないが、想像すらできない。

さて。



暇である。



額面通りに受け取ってはならない。
暇であるということは、余裕がないということでもある。

余裕がないので、なにかやるべきところをなにもやる意識が向かない。
その結果、暇である、というところにゆきついてしまうのである。

それならやるべきことをやるべし。

との知慮遠望なるご意見をのたもうことなかれ。
ボタンひとつ押せばよいだけのものでさえ、押すどころか指をのばすことすらせずに、暇である、とのたまっているのである。

ねじまき鳥すら、鳴きはせぬ。

目が覚め、昼を回り、神保町へと向かう。
ぐいんの最新刊発売日であり、巻末に著者である栗本さんの訃報にかんする早川文庫からの何樫かが書いてあるかと思ったのだが、本人のいつも通りのあとがきがあるだけであった。

向こう三巻ぶんほどの原稿はあるらしいとの噂であったが、どうなるのだろう。

不安をまぎらわすために、ライスカレー「まんてん」にて胃袋をかわりに満たす。

わがこころのカレーである。

うむ、若干満たされたような気がする。
しかし、不完全である。
コンビニに寄り、ジャイアントコーンとフライドチキンを買った。

しゃくしゃくとかじったが、満たされない。

腹がくちくなるだけであった。

寝たい。
寝てはならぬ。

なるほど、そこのところの問題が積もり重なっていたようである。

こればかりは、もうどうしようもない。
うまく効いてないようなら、お手上げの日々を耐え忍ぶのみである。


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