大森で、さまよってしまいました。
こんな本、渡しちゃ怒られちゃうかしらん。まあ、さらっと流し読んじゃってよ、とイ氏が挨拶もなしに、わたしに本を差し出したのです。
駒場で大学生時代、彼がヘルメットをかぶってたころ、僕は反対側にいたりしたんだけどね、とあたたかな苦笑いで鼻の頭を掻いていました。
さて、と話題を村上春樹氏の新作に水を向けようとしてみると、へえ、何て作品なの、とイ氏も知らなかったらしく、パソコンの画面をこちらに向けます。
ええと、村上、はるき、新刊、で出てくるかな。 おっ、これかな。
ふたりがんくび並べて、ググった画面をのぞき込みます。 トピックだけの画面で、うひゃあっ、すごいばか売れじゃないっ、とバンザイの格好でのけぞります。
いや、ほんとに凄い売れ行きらしいですよ。 上巻読んでから下巻買いにいったら売り切れで手に入らない、なんてくらいらしいですから。 へえ、そりゃあ何万部も初日で売れたみたいだから、そうなるはずだよ。スゴいねえぇ。
互いに一拍おいてから、 図書館に入荷したら、 文庫本になったら、
読もうかしらん。
と、頷き合ったのです。 あ、そうそう、とお借りしていた本をお返しして、またそれについてぼやぼやと感想を並べあい、さらさらと書付をすませ、はいそれじゃあ、と、あっという間に時間が経ってしまっていたのです。
ではでは失礼して、またこれをお借りしてゆきます、と室をでて、カウンターで清算待ちしていると、そういえばさ、とイ氏がふらりと再登場したのです。
るうあん、行ってみた?
るうあん、ルーアン、グインなんてイ氏が知っているはずは、と振り返り思い返してみたのです。
ああ、と手を打ち、
ここの裏のほうに、なかなかいい喫茶店が、あるんだよ。今度のぞいてご覧なさいな。
そうです。 大森のなかなか好い感じの喫茶店を、ちょいと、といってもふた月ほど前に、教えてもらっていたのです。
もちろん、すでにのぞいてありました。 なかなか、「本格的な喫茶店」でした。
ここの「本格的」という言葉は、こしきゆかしき「喫茶店」にかかっています。
イ氏曰わく、よぼよぼの爺さんがカウンターでゴリゴリとやっている、「王道」の「喫茶店」。
「カフェじゃなくてさあ、ほら、なんていったっけ、こういうまるいガラスの器の、がでてくる」
クリームソーダですか、いやパフェじゃないかしら、カウンター向こうの女子たちが首をひねります。 わたしも、じゃあサンデーですか、というと、
「ちがう、フルーツポンチだ」
イ氏はつっかえがとれたようなすっきりした顔になり、慌てていいつくろいます。
「フルーツポンチ、なんて若い女の子の前でいっても、おやじなだけだねえ」
くしゃりと顔を赤らめて照れています。
いやいや、フルーツポンチは、小学校の家庭科で習ったりしますから、とわたしは白玉だったかしらん、とのあやしい記憶を掘り返してみました。 そうそう、うんうん、とカウンター向こうの若い女の子たちも頷いてくれてました。
イ氏は気を取り直してくれたようで、室に帰ってゆく背中は少しだけ、ちょこんと丸くなるだけですんだようでした。
そんな話をしたせいでしょうか。 時間も夜の八時を回り、すっかり空腹だったせいでしょうか。
帰りの大森駅の改札に向かう途中、駅ビルのアトレを通り抜けてゆくのですが、そこは飲食のフロアなのです。
イートインではなく、ショップがぐるりとフロアに肩を並べ、ひしめき、輪になっておいでおいでをしているのです。
ベーカリーのカレーパンをショーケース越しに舌なめずりをしてすますだけならよかったのですが、外の路上をしとしとと濡らしてゆく雨のように、じんわりとわたしのなかにも染み渡ってゆくものがあったようです。
あ、あすこにはごでぃば、もろぞふ、ふろ、だいこくもあるるぅ。
ほかにも老舗の様々な店がエヘンと咳払いをしています。
ひとつひとつを丹念に、目を細めて、八の字を描きながら眺めて回ります。
タルトが、とてもとても魅力的な、まるでルビーを敷き詰めたような輝きを放っていたり。 ハムが、あやしくもムチムチとした身をてらてらとひかっていたり。 モンブランが、うねうねむにむにとかしこまって鎮座ましましていたり。
ふと気がつくと、おのおのが店仕舞いの支度をすっかりはじめていたのです。
わたしはそこでまた、あらたに気がついてしまいました。
改札につながる通路は、いったいどこに。
大して広いわけでもないフロアを小一時間もかけてさまよっていたので、すっかり時間と広さと位置の定規が合わなくなっていました。
ひとは、妄想だけでもそこそこ腹を満たす幸せを味わえます。
しかしわたしは、すっかりつかの間の幸せを堪能してしまいました。
妄想からさめたら、きっとどうなってしまうのでしょうか。 青い電車に揺られながら、うすら寒さにふるえていました。
|