夏目漱石著「吾輩は猫である」
今さらながら、そして、恥ずかしながら、漱石先生著作のわたしの初めての作品である。感想はまだ無い。
無いというのもまた申し訳ないので、思うところを述べてゆこう。 それが感想ではないか、と思われるかもしれないが、感想とは作品に対して思うところを述べることであって、これはそういった類いの思うところではない。
どうやら、先生、この先生とは内田百ケン先生のことであり、先生の先生である夏目漱石先生を「大先生」とすることにするが、先生の先生である大先生にして先生もまたあり、という影響を受けただろうところが、感じられた。
しかし、先生は先生である。
内田百ケン先生に似たる人物はふたりといない。
当たり前のことをこれ以上、偉そうに吹聴しても愚なだけであるのでこれでやめにしておこう。 やめねばそのまま骨の頂きまで達してしまう。
さてこれは不思議なことであるのだが、大先生の「吾輩は猫である」を拝読しだしたのは、ついぞ最近のことで、先にも述べた通り、初めて、中身を目にしたのである。
しかし、目にするより以前から、本文のようなかきくどい文章を書き連ねてきたのだが、まったくもって、本作の文体と似通ったものであったことに思い知らされたのである。
吾輩、いやわたしは、元来影響を受けたと思わないほど影響を受けやすい、まるで芯の無さそうな輩でもある。
受けるというのは、与えられて初めて受けることができるのだが、与えられた覚えが、まったく、ない。
つまりは、百ケン先生のなら覚えがありすぎるほどあるので、それにわたし元来の回りくどさが付加され、拍車をかけ、横車をひいたわだちが、たまたまぴたりと合わさってしまったかのようである。
ならばわたしも「大先生」のように、「先生」のようになれるのかというと、それはまた、まったく別問題づあり次元からして違うのである。
それはとんとわきまえているつもりである。
似ているかといえば、偏屈で頑固であること、金に困らない生活をしているわけではけっしてないこと、くらいである。
これではいかんともしがたい。
しかし。
吾輩は、吾輩である。
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