いつものごとく不忍池の弁天様の御脇を抜けて帰ろうと歩いていたのである。
上野の山のすそのにある三つ叉を左手に選ぶとその道になり、右手を選ぶと北への玄関であるJR上野駅へと続く。山の下は京成の上野駅が埋伏している。
もちろんわたしは左手を迷うことなく選び、夜道をつらつらと歩いていたのである。
夜のこの時分に人気はなく、鳥獣の鳴き声か弁天様の三味線の鳴る気配が漂いきそうなくらいの暗夜行路。
夜道にしっとりと馴染んだ背広姿の男が、二三歩先で立ち止まり、くるりと振り向いたのである。
あのう、すみません。 はあ、なんでしょう。 上野駅は、どちらでしょう。
男は、困り顔にひとなつっこい苦笑いを浮かばせた。まるで夏休みを朝から晩まで砂浜で過ごした小学生のように真っ黒に日焼けした顔で、こんがり焼き上げたライ麦パンのようでもあった。 パンは朝に食すものと決めかかっているわたしにすれば、それはおよびでないのだが、向こうからやってきたのだから、むざむざ断る理由はない。
それなら、この山を越えた向こう側、ですよ。 ええっ、向こう側っ。
鬱蒼と繁った山の木々を仰いで、男は悲鳴にも似た声をあげた。
この先の山を越える道をゆくか、あすこまで戻ってトンネルをくぐって京成の前を通り抜けるか、どちらかです。 あらぁ、反対側かっ。じゃ、戻ります。 戻りますか。 ええ、そんなら、おおきにっ。
ひどく体躯のいい男が、にかっと真っ白な歯を見せて頭を下げた。 夜道に場違いなほど白く、しかし、それに似合った闊達な大きな声の大阪弁に、わたしは目をぱちくりとして、戸惑ってしまっていた。
ほんま、おおきにっ。 いえいえ、そんなそんな。
明るい道に向かって消えてゆく。
上野といえば、もはやいまさらと思われるかもしれないが、重ね重ね北の玄関口である。 そこに、あの風貌で、あの声で、関西弁である。
ここは、
江戸上野か伊賀上野か、 東叡山か比叡山か、 不忍池か琵琶湖か。
似せてつくったのだから、判別があやしくなる。
頭のなかに、いつまでも「ほんま、おおきにっ」が鳴り響いていたのである。
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