「隙 間」

2009年05月03日(日) 浅草三定アンヂェラスと「おくりびと」

 さて今日は、真友が奥さんと幼き息子を連れて浅草にくるとのことで……。

 昼前に「よければ是非一緒に」とのお誘いのメールももらって……。
 もらって……返事したのが昼をとうに過ぎていて(汗)

 着信履歴があって(焦)

 二度寝してました。

 寝起きのテレビに、「山手線全駅で丼を食べる」との番組がやっていて、もやもやと、

「天丼食いたい」

 欲望が湧いてきて。
 友に連絡もせず浅草に向かいました。
 台東区コミュニティバス「めぐりん」に初乗車です。

 バス停で、バスの現在位置がわかるQRコードがあったので携帯で読み取ったそのとき。

「£%#&*@§☆」

 耳元で不意に声がっ。

 はうっ、驚き振り向くと、外国人の男性がその様子をのぞき込んでいたのです。

「びっくりしたぁ」

 日本語で、つっこんでしまいました。ところが返ってきたのは

「£%#&*@§☆」

 という言葉と、ニヤリと茶目っ気のある微笑み。
 さらに、後ろにいた息子を手招きし、一緒にのぞかせようと。

 英語ぢゃ、ない。
 フランス語だ。

 彼のフレンチの奥さんは後ろの縁台に腰掛けて、娘と話しながらわたしに向かって、サングラス越しに、にこやかな笑顔を向けています。

 フランス語は「ジュテーム」「メルシー」「トレビアン」くらいしか知りません。

 高校の教師が、フランス人女性に必要な枕言葉はこれだ、と教えられたものです。

 ろくな知識じゃありません(笑)

 いいか、たったこれだけの言葉でも、感情と愛を込めて繰り返していれば、「つたない言葉でなんて真剣に愛を語ろうとしてくれるのだろう」と思ってくれる。
 だから、あとは頑張るだけだ。

 男子校の野郎どもに、なんてロクでもない、アツいことを教えてるのでしょう(笑)

 そんなこんなで「東西めぐりん」で浅草にたどり着き、老舗天麩羅屋のひとつ「三定」へ。

 天丼を頼み、そこでようやく友に連絡を。

 ざざっと丼を平らげ、雷門前で合流です。

 江戸っ子は、食うのが早いものです。
 三代暮らしてはいませんが、わたしの本籍は台東区三ノ輪です。
 現住所は台東区谷中です。

 幼き息子を肩車した友が、雷門の脇からやってきました。
 奥さんもいっしょです。

 友は完全に疲れ果てた顔です。

 そりゃあ、この人混みのなかをずっと肩車して歩き回れば、そうなります。

 川端康成、池波正太郎、手塚治虫らが愛した喫茶「アンヂェラス」でひと時をすごしました。

 息子さん用に頼んだバニラアイスが運ばれてきて驚きました。

 もうもうとドライアイスのスモークがこぼれだしていたのです。

「ケーキ入刀」

 と聞こえてきそうなほど……汗

 しかし、子どもの成長は早いものです。
 二階席だったのだけれど、ちょうど見下ろしたところがケーキケースや会計のカウンターで、

「おーい、おーい」

 と、店の人に手を振り振り声をかけるのです。

 ……そこが女性店員ばかりだったからかしらん? と思ったのは、わたしの気のせいでしょう(笑)

 とかく次に会ったとき、その友の幼き息子が、わたしの名前を呼んでくれるか楽しみです。

 さて、友と別れた後。

「おくりびと」

 をギンレイにて。
 そうです、「おくりびと」です。
 ギンレイのメンバーになっていて、「これは後々ギンレイでかかるだろう」という見当をつけるのが、なかなかシビレるところでもあるのです。

 日本のアカデミー賞は総ざらい作品でしたし、海外でもその評価は……もう述べる必要はありません。



 わたしはやはり、「あまのじゃく」なのでしょう。



 騒ぐほど、感動作品じゃあ、ありません。

 題材がすべて、です。

 そして、役者さんたちの、演技力。

 作中には、なにひとつ、ドラマはありません。
 題材自体がドラマのすべて、なのだから、淡々と日常のように物語は進んでゆきます。

 それが、

 名作たる所以

 なのでしょう。

 つまり、すべてが、余白だらけなのです。
 その余白にこそ、観る側の感情や想像や記憶が、つのってゆくのです。

 日本独特の死生観

 が、あります。
 それは日常にとけ込んでいるからこそ、気づきません。
 気づかないからこそ、余計なドラマは必要ないのです。

 余計なドラマがないから、各々のドラマがそこに描かれるのです。

 素晴らしい作品です。

 本木雅弘さんがこの物語を映画化させようとしたところが、素晴らしいです。

 滝田洋次郎監督も、流石です。



「穢らわしいっ」

 と、妻の広末涼子さんが夫の本木雅弘さんの手を振り払う場面があります。

 民俗学的に、「死」イコール「穢れ」であり、また同時に「聖」でもあるようです。

 相反するものを同一のものに内包させ、使い分けるのです。

 たとえば、

 月経中の女性は「穢れ」として神聖な儀式や場では避けられるのだけれど、出産となると「神々しい」ものと受け取られます。
 これはもちろん、古来の視覚的解釈からきている偏った思想なのかもしれません。

「血」イコール「穢れ」
 というところからなのでしょう。

 しかし、

 その「穢れ」のなかから「生命」生まれだされるのだから、「穢れ」イコール「聖性」となり、さらに飛躍させると、

「穢れ」がなくては「聖性」など有り得ない

 という思想や風習へと繋がってゆくこともあるのです。

 男尊女卑のそもそもの根源だ、とされるかもしれません。

「穢れ」に対して、「怖れ」や「畏れ」を同時に抱いているのです。
 つまり「聖」に対する「畏れ」からはじまっているのです。



 きれいにされた遺体でも「穢らわしい」と思うのは、生きているものが踏み込むことのできない「神聖な世界」に属しているものに対する「畏れ」からなのでしょう。

 それは決して、

「気持ち悪い」

 といった類いのものではないはずなのです。



 そうありたいはずなのに、道端で見かけた動物らの死骸を、せめて脇に、と手を伸ばすことをためらってしまったりします。

 勝手なものです。


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