「隙 間」

2009年04月12日(日) まちのまつりと「未来を写した子どもたち」

せいや、さ。
せいや、さ。

部屋を出て、右か左か踏み出す足を決めあぐねていたところ、声が聞こえてきた。

夏のように、熱い。

今日は御輿の日であった。
芋甚でアイスモナカでも買い、それをつまみながら見物しようかと思いきや、芋甚は行列である。
それも当然。
目の前を御輿が通り、見物客のみならず、半纏姿の担ぎ手たちが、

せいや、さ。
せいや、さ。

と、声をあげている。

賑やかな近所である。

モナカは断念し、半纏姿の親子三人の後ろを通り過ぎる。

父に抱きかかえられた小さな女の子はぶかぶかのはちまきをしめられ、母にそれをぐいぐいと直されていた。

「まちのまつり」

である。

さて、

「巨人、大鵬、卵焼き」

およそ五十年前の子どもたちが大好きだったものです。

現代の子どもたちは、何が好きなんでしょうか。

「未来を写した子どもたち」

をギンレイにて。

インドの売春窟に生まれ暮らしている子どもたちが、写真を撮る楽しさに触れ、その中で才能が認められ、名もなく、明日もなく、夢もなかった毎日から踏み出そうとする。

世界の頭脳と注目されたりもするインドの光と陰。

光の世界で陰を見つけるのは、簡単である。
光に背を向け、己の影をみればそれで慰められる。

陰の世界で光を見つけるにはどうすればよいか。

誰かが一条でも光をもたらす以外、術はないのである。

陰の世界のものがどう足掻こうが、光を得ることはできないのである。

いや違う。
信ずれば、努力すれば光は得られる。

というのは、光の世界に住むものの己に対する慰めでしかないであろう。

与えられた光ですら、周りの手によって諦めねばならないことばかりなのが現実でもある。

出演している実際の子どもたちは、皆、妙に人生や運命を心得ているようにもみえることをいう。

国民性だろうか。
それとも、甘やかされる余裕なく、真摯に暮らしと命とを身近に見つめ合って生きてきたかどうかの差であろうか。

日本の子どもたちでも、どこか大人びたことをいうが、それには、なにひとつ、動かされるものは感じない。

所詮は受け売りの、かっこつけの皮肉にしか過ぎないのだから。

そうしてそのまま大人になり、受け売りだけの言葉しか言えなくなっていることに気づきもせずに安穏と、現実はねえ、だとか、さもわかっているかのようにつぶやく。

わたしは、さらにたちが悪い。

うそのことを、ひたすら本当のことに感じられるよう言葉を書き連ねている。

うそのことでも、そこにある感情だけは、生のものを感じるもの。

泥沼の底に湧く湧き水の一泡。

写真家が、

「幾千の説明よりも、一枚の写真」

というように、

「絵で感じとらせるしか術がないものを、言葉で描く」

ことができるように。

所詮はぬるま湯に溶けた砂糖水の世界にいるものだとしても。


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