「隙 間」

2009年03月04日(水) 誰のためでもなく

 すっかりご無沙汰であった、それはとても不届き千万なことでまことに恐縮のかぎりなのだが、篠原美也子さんのエッセイを読んだ。

 昨年のワンマンで触れなかったあたりから、そのような雰囲気はあった。

 しかし、春が来れば自然そうなるだろう、という、皮肉なまでの図星であり、そしてなにより、そのことをさも当然だと信じている願望が、わたしを支配していた。

 願望と、欲求は、違う。
 願望を満たすとき。
 それはどこか不満を含んだ、空しさのようなものを感じる。

 欲求を満たすとき。
 それは確かなカタマリとなって、わたしを次へと突き動かす。

 願望とは、どこか己の力ではないものによるところが大きい。

 求められたものに対して答えるのは、それはそれでとても大変なことでもあるが、「求められたから答えただけ」ということにもなりうる。

 いや、

「答えざるをえない」

 とも。

 誰かにクビにされることは、
 クビにしてくれる誰かがいる、
 ということである。

「誰か」であったり、
「何か」であったり、

 つまりはそれらに依っている。

 高知ケンとの会話を思い出す。

「書くだけ」の生活。

 それを生活の糧にできるほどのものは、一切、持ち合わせていない。

「書いてくれ」とは、誰からも頼まれていない。

 わたしをクビにできるのは、
 世界でたったひとり。
 わたしだけだ。

 では現実の仕事云々をなくしてしまうと、困るのは、困る。

 だがそれは一時的なものだ。

 仕事をしたいから仕事をしているのではない。
 せねばならぬからしている。

 とはいえ、元来ぐうたらなわたしは、対外的な何かがないと、社会や世間とはまったく歩調が合わなくなってしまう。

 だから、それはそれでわたしにとっては必要なものでもある。

「生きがい」

 を外的なものによるものにすることは、ままある。

 内的なものにしてしまうと、それはたちまち形を失い、いったい何だったのかわからなくなってしまう。

 わたしは内向する。

 己の影を見つめ、そこに映っているわたしと向き合う。

 篠原美也子さんは、これまでの自分の足跡は二十五センチだったという。
 わたしは、並べるのも見当違いと思ったが、これまでに書いてきたB6版のネタ帳を重ねてみた。

 十センチに届かない。

 昔の手帳のメモ用紙時代を加えれば、多少は超えるかもしれないが、まだまだその程度だった。

 誰のものでもない、己のもののために。

 誰にも責任転嫁などできない、己だけの責任で。

 まだまだ、書くだけ。


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