すっかりご無沙汰であった、それはとても不届き千万なことでまことに恐縮のかぎりなのだが、篠原美也子さんのエッセイを読んだ。
昨年のワンマンで触れなかったあたりから、そのような雰囲気はあった。
しかし、春が来れば自然そうなるだろう、という、皮肉なまでの図星であり、そしてなにより、そのことをさも当然だと信じている願望が、わたしを支配していた。
願望と、欲求は、違う。 願望を満たすとき。 それはどこか不満を含んだ、空しさのようなものを感じる。
欲求を満たすとき。 それは確かなカタマリとなって、わたしを次へと突き動かす。
願望とは、どこか己の力ではないものによるところが大きい。
求められたものに対して答えるのは、それはそれでとても大変なことでもあるが、「求められたから答えただけ」ということにもなりうる。
いや、
「答えざるをえない」
とも。
誰かにクビにされることは、 クビにしてくれる誰かがいる、 ということである。
「誰か」であったり、 「何か」であったり、
つまりはそれらに依っている。
高知ケンとの会話を思い出す。
「書くだけ」の生活。
それを生活の糧にできるほどのものは、一切、持ち合わせていない。
「書いてくれ」とは、誰からも頼まれていない。
わたしをクビにできるのは、 世界でたったひとり。 わたしだけだ。
では現実の仕事云々をなくしてしまうと、困るのは、困る。
だがそれは一時的なものだ。
仕事をしたいから仕事をしているのではない。 せねばならぬからしている。
とはいえ、元来ぐうたらなわたしは、対外的な何かがないと、社会や世間とはまったく歩調が合わなくなってしまう。
だから、それはそれでわたしにとっては必要なものでもある。
「生きがい」
を外的なものによるものにすることは、ままある。
内的なものにしてしまうと、それはたちまち形を失い、いったい何だったのかわからなくなってしまう。
わたしは内向する。
己の影を見つめ、そこに映っているわたしと向き合う。
篠原美也子さんは、これまでの自分の足跡は二十五センチだったという。 わたしは、並べるのも見当違いと思ったが、これまでに書いてきたB6版のネタ帳を重ねてみた。
十センチに届かない。
昔の手帳のメモ用紙時代を加えれば、多少は超えるかもしれないが、まだまだその程度だった。
誰のものでもない、己のもののために。
誰にも責任転嫁などできない、己だけの責任で。
まだまだ、書くだけ。
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