「隙 間」

2009年02月26日(木) 「家族の言い訳」と、うそばなし

 森浩美著「家族の言い訳」

 この著者、わたしの世代にとって、じつはとてもなじみがある方だと、読後の著者紹介で知った。

 作詞家でもあったのである。

 田原俊彦「抱きしめてTONIHT」
 酒井法子「夢冒険」
 森川由加里「SHOW ME」
 ブラックビスケッツ「スタミナ」「タイミング」
 SMAP「青いイナズマ」「SHAKE」「ダイナマイト」

 などの作詞を手がけた方である。

 さて、「言い訳」である。

 生意気な口をきくことになるが、勘弁願いたい。

 著者自身、「いつかは書きたいと思いつつも、小説から逃げてきた」といっている。

 小説家の書いた「小説」になりきれていない感というものを否めないように思える。

 設定に依って読ませている。

 これが、たとえばドラマであれば、演者の力に依って魅力的になってゆき、引き込まれてゆく。

 そういった複合的な要素ありき、の世界のもののように思えた。

 悪いのではない。

 使えるものをすべて使ってさらに良いものにする、ということが活ききれていないのである。

 紙の上では、山崎努も本木雅弘も樹木希林も宮沢りえも、演じない。
 効果音も音楽も、ない。
 カット割りで視覚的に印象づけることも、勢いをもたせることも、できない。

 できるのは、文字を用いて言葉にしてゆくだけ、である。

 歌い手、演者の魅力を引き出す。
 もしくは、彼らが逆に引き出す。

 これは、ひとりではできない、さらに、並みの力ではできないことだが、小説というより脚本色に毛色が寄っているように思える。

 しかし、物語の各要素は、なかなかいい。

 いっそ死のうと幼子を連れて列車に乗ったが、熱を出した幼子の介抱に必死になる母。

 惨めったらしさが嫌で疎遠になった母と息子の、その本心と本人同士の再会をさせる息子の妻。

 短編で他にも各話あるのだが、いかんせん、ご都合主義の臭いを隠しきれない。

 小説とは、川上弘美いわく「うそばなし」であって、ご都合主義のかたまりである。
 しかし、それをそれとしてそうと感じさせないか、それを逆手にとるか、どちらかなのである。

 どちらにもなりきれていないのは、残念であった。

 わたしは、どうであろう。

 かつてドラマのキャストイメージを聞かれて、困ってしまった。

 それならオーディションに立ち会わせい、とも思ったが、今やあやふやな状態である。

 腕が振れなくなって、
 ボールの行方は霞んで……。

 ボールひとつ外れたように思えても、球審の右手が上がるのを、ただ息をのんで待つだけである。


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