| 2009年02月14日(土) |
「トウキョウソナタ」と「沖で待つ」 |
「トウキョウソナタ」
をギンレイにて。 黒澤清監督、香川照之、小泉今日子出演、カンヌ「ある視点」審査員賞受賞作品。
リストラされたことをいえない父親。 ドーナツを焼いても誰にも食べてもらえない母親。 日本を家族を守りたいと米軍に入隊する兄。 こっそりピアノ教室に通い始める弟。
それぞれが、家族の誰にも伝えられない秘密を抱えて、毎日を過ごしてゆく。
この作品は、共感というより、共震とでもいった感のものを覚えさせられる。
「俺たち、ゆっくり沈んでゆく船に取り残されたみたいだよな」
「救命ボートもない。口元まで水は迫っている。だけど潜って逃げ出してみる度胸もない」
同じリストラにあった友人がつぶやく。 彼は、言わずにい続けた妻とガス心中という、違う海の底に沈んでいってしまった。
「誰か、わたしを引っ張り上げて」
ソファでうたた寝してしまい、帰宅した夫に起こされ、夫はさっさと部屋に居なくなってしまった後、虚空に両手を伸ばす。
「やり直したい、やり直したい。どうしたら、やり直せるんだ」
深夜、全力でひとり疾走する夫。
「わたしはこの先へいったら、やり直せるんでしょうか」
桟橋で海に向かってつぶやく妻。
誰もいないリビング。
朝日が、やがて家族に降り注ぎはじめる。
香川照之さんと小泉今日子さんのそれぞれが、まさにはまっていた。
さて。
イト山秋子著「沖で待つ」
芥川賞作家の受賞作品。 なかなかどうして、等身大の言葉で、微笑ましく読んでしまった。
「イッツ・オンリー・トーク」を映画「やわらかい生活」で観たのち、劇場のチラシで「逃亡くそたわけ――21歳の夏」をつまみとり、原作者がイト山秋子だということを知らずにいた。
どちらの原作も、まだ読んではいない。 読んだのは「袋小路の男」くらいである。
等身大の言葉といっても、なかなかむずかしい。
小説とは、声の言葉を文字の言葉に置き換える世界である。
わかりやすいところでいえば、女性の言葉
「わたしがやるわ」
の語尾の「わ」など、現実の女性の日常会話で、ほぼ使わないだろう。しかし、文字の世界では日常的に使われていた。
近頃、それもまた使われている世界が少なくなってきている。
話し言葉の進出である。
携帯電話のメールによって、絵文字というまた新しい進出者が現れた。
そして。
言葉は、
本質を伝えるものではなく、 本質を包み隠すものとして、
多用される。
絵文字に、個人の、個人的な意味を表すことはできない。 同じ絵文字を、大多数の人が使っているのだから、それに個人的な意味など埋没してしまう。
それを承知の上で、それを逆手にとって、うまく使っているのだろう。
相手に圧力をかけることなく、伝える。
絵文字にせよ顔文字にせよ、ときにそれは、相手の個人的な感情や表情や意味などを、大衆の一般的な無個性のひとくくりの、記号と化してしまう。
だから、便利なのだろう。
ハートに、
「わたしは皆と同じような気持ちで好きです」
として意味をもたせるのは、むずかしい。
「わたしはわたしだけの気持ちで、あなたが好きです」
というハートの絵文字は、きっと現れることはないだろう。
まあ、そんなものとは、わたしは無縁である。
まさに「杞憂」である。
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