「隙 間」

2009年02月04日(水) 不要なもの

 昨年末にプリンタアを買い換えて以来、些細な物欲が鎌首をもたげていた。

 とぐろを巻き、チロチロと舌を出し入れし、虎視眈々と様子をうかがっている。

 デスクトップパソコンをいい加減新調し直さなければ、いやいや、外付けのハアドデスクが先だろう、いやちょいと待てノオト用のドライブが最優先だろう。

 言っておくが、資金は限られている。

 もし仮にデスクトップをということになったとしても、「五万円」を目処として「ご満足」とせねばならない。

 では、その金額のなかで余裕でおさまり、なおかつ二台ずつ買えるかもしれない、他のものどもを買えばよいではないか、と思うだろう。

 至極ごもっともではあるが、それは腑に落ちないばかりか、賦に落としたくない。

 なぜなら、一品手に入れるだけで、手が埋まってしまうからだ。

 わたしは蛸や烏賊ではなく、まして百足の類いのように、どれが右手か右足かわからないような、そんなこころもとないあやしげな手は持ち合わせていない。

 もちろん、持ちたくもない。

 そこでふと、ほんの気まぐれではあるが欲しいと思う品を変えてみた。

 まずはデスクトップとほぼ同額の、テレビである。
 わたしのテレビは、ブラウン管の、ずでんとしたテレビである。
デヂタル云々なぞの新参者の入り込む余地など毛頭ない、たいした貫禄である。

 しかしじつは、名古屋から真友がきた際に聞いてみたのである。

「このテレビを買い換える必要はあるかしら」
「ない」

 さすが真友である。
 わたしがおそらく、深層意識のなかで出しているだろう回答を、ずばりと、たなごころを指すまでもなく返してくる。

 そんなことがあったので、そうそうにテレビを欲しいと思うのをやめた。

 次はノートパソコンのための、使い勝手をよくする機器の類いで、考えてみた。

 持ち運び専用なので、ドライヴの類いがついていない。
 だからソフトを新しく入れたいときに不便である。

 音楽もかけられない。

 パソコンに限らず、部屋に音楽を流すなど、喫茶室でもないのだから、まず音楽を流すことなどない。

 動画も、観ない。

 すべてがロボットダンスのようでよいならば観てもかまわないが、わたしはあいにく、ダンス学生ではない。

 そうこうしているうちに、はたしてそれらが欲しいのか、必要なのか、分別がわからなくなってきた。

 分別は労力を要する。

 それは面倒くさい。
「欲しい」というのは、つまりはわたしのなかでにおける「欲求」や「願望」の類いである。

 欲求の類いなどは、じきに果てて、あったのかなかったのかわからなくなるような、あやしげなものである。

 やがてなくなるならば、はじめからないのと大して変わりはない。

 であれば「必要」かどうかを考える。

 考える必要はなかった。

 そもそもが「必要」であるならば、考える必要も、そのいとまもなく、早々に手元にあるようでなければならない。

 いまわたしの手元にないのであれば、それは「不必要」であるということだ。

 寝ても覚めても、ではないが、ひと月ちかくこのようなことを考えていたなんて、大したものである。

「怠けることにも体力が要る」

 と百ケン先生はいっていた。

 労力をかけることを疎んじるわたしは、なるほどよくしたものだと思った。


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