昨年末にプリンタアを買い換えて以来、些細な物欲が鎌首をもたげていた。
とぐろを巻き、チロチロと舌を出し入れし、虎視眈々と様子をうかがっている。
デスクトップパソコンをいい加減新調し直さなければ、いやいや、外付けのハアドデスクが先だろう、いやちょいと待てノオト用のドライブが最優先だろう。
言っておくが、資金は限られている。
もし仮にデスクトップをということになったとしても、「五万円」を目処として「ご満足」とせねばならない。
では、その金額のなかで余裕でおさまり、なおかつ二台ずつ買えるかもしれない、他のものどもを買えばよいではないか、と思うだろう。
至極ごもっともではあるが、それは腑に落ちないばかりか、賦に落としたくない。
なぜなら、一品手に入れるだけで、手が埋まってしまうからだ。
わたしは蛸や烏賊ではなく、まして百足の類いのように、どれが右手か右足かわからないような、そんなこころもとないあやしげな手は持ち合わせていない。
もちろん、持ちたくもない。
そこでふと、ほんの気まぐれではあるが欲しいと思う品を変えてみた。
まずはデスクトップとほぼ同額の、テレビである。 わたしのテレビは、ブラウン管の、ずでんとしたテレビである。 デヂタル云々なぞの新参者の入り込む余地など毛頭ない、たいした貫禄である。
しかしじつは、名古屋から真友がきた際に聞いてみたのである。
「このテレビを買い換える必要はあるかしら」 「ない」
さすが真友である。 わたしがおそらく、深層意識のなかで出しているだろう回答を、ずばりと、たなごころを指すまでもなく返してくる。
そんなことがあったので、そうそうにテレビを欲しいと思うのをやめた。
次はノートパソコンのための、使い勝手をよくする機器の類いで、考えてみた。
持ち運び専用なので、ドライヴの類いがついていない。 だからソフトを新しく入れたいときに不便である。
音楽もかけられない。
パソコンに限らず、部屋に音楽を流すなど、喫茶室でもないのだから、まず音楽を流すことなどない。
動画も、観ない。
すべてがロボットダンスのようでよいならば観てもかまわないが、わたしはあいにく、ダンス学生ではない。
そうこうしているうちに、はたしてそれらが欲しいのか、必要なのか、分別がわからなくなってきた。
分別は労力を要する。
それは面倒くさい。 「欲しい」というのは、つまりはわたしのなかでにおける「欲求」や「願望」の類いである。
欲求の類いなどは、じきに果てて、あったのかなかったのかわからなくなるような、あやしげなものである。
やがてなくなるならば、はじめからないのと大して変わりはない。
であれば「必要」かどうかを考える。
考える必要はなかった。
そもそもが「必要」であるならば、考える必要も、そのいとまもなく、早々に手元にあるようでなければならない。
いまわたしの手元にないのであれば、それは「不必要」であるということだ。
寝ても覚めても、ではないが、ひと月ちかくこのようなことを考えていたなんて、大したものである。
「怠けることにも体力が要る」
と百ケン先生はいっていた。
労力をかけることを疎んじるわたしは、なるほどよくしたものだと思った。
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