今日は節分である。
鬼は、そと。 福は、うち。
諸源由来蘊蓄云々などのこむずかしいことは、よくわかるひとに一切を任せ、わたしは相変わらず、徒然なるままに任せてゆこうと思う。
わが谷中は、谷中に限らず根津や千駄木ら「谷根千」とひとからげにされている町々は、窓を開ければもうお隣さん、である。
さあ、こんなところで豆を「鬼は、そと」のかけ声と共に景気よくばらまいたらどうなるのだろうか。
わたしは幸いにも、窓先に小庭のある家で過ごしていたので、そのようなことは考えたことがなかった。
帰りの道すがら、町の路地を選んでうろうろとしてみる。
「鬼は、そと」
あちらで遠くに聞こえる。
「鬼は、そと」
違うあちらからも、聞こえる。
なるほど。 これだけ隣り合っていたら、うちで追い出した鬼は、お隣さんにひょいと上がり込んでしまう。
お隣さんが追い出したら、またそのお隣さんに上がり込んで、を繰り返しているに違いない。
鬼もこの界隈でひとりであるはずもないだろうから、きりがない。
追い出された鬼同士が、ばったり居合わせることもあるに違いない。
ばったり居合わせて、旧交を温める暇なく、ばらばらと硬い豆を好き放題に投げつけられ、、出てゆけと追い立てられる。
鬼のなかにも、要領よくこたつのなかにもぐり込んで、ぬくぬくとやり過ごす輩がいるかもしれない。
しかしそれはさしおいて。
やれあっちだ、それこっちだ、と鬼たちが床を温めるいとまなく往き来しているのを想像すると、こちらまでせわしない気持ちになってくる。
日本の鬼は、なかなか愛嬌のあるものが多い。
人間にころりと騙されてしまうものや、身の上話に大泣きしてくれるものまでいる。
ひとへに「災い」を総じて「鬼」としているが、ひとからげにされるほうにしてみれば、たまったものではない。
しかし、豆を投げつけられて参ってしまっているばかりではないかもしれない。
投げつけられて、衣服……御伽草子の通りの腰巻きひとつ、ではないかもしれない……のしわや隙間に入り込んだ豆を食して、小腹を満たすのに役立てているかもしれない。
昼に根津神社で盛大に追い出され、そして暮れてからも方々の家々からけたたましく追い出された鬼たちが、我が家に一服しに逃げ込んでくるかもしれない。
こたつがなければ座布団もない。 もてなす茶もなければ、まして酒など一滴もない。
そんな茅舎では、鬼も寄り付かないかもしれない。
寄りつかないなら、心置きなくいつでも洗濯ができるのでありがたい気もする。
もっとも、わたしは鬼がいようがいまいが、構わずに洗濯くらいはする。 あまつさえ、いたならいたで、なにかしら手伝ってはもらえないかとするだろうから、どちらにしてもあまり気にはしないだろう。
鬼は鬼でも、内田百ケン先生たる「百鬼園」先生が上がり込んでおられたら、粗茶ながら多少のおもてなしはしたいと思う。
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