内田百ケン著「第三阿房列車」
「阿房列車」分冊化最終巻である。 今回は、なんと「房総阿房列車」編が含まれており、まさかとわかっていながら、わずかだが期待してしまうときがあった。
やはり、我が故郷の津田沼駅なぞ、名が出るはずがなかった。
いたしかたない。 さほど重要な分岐点でもなし、時代がひと昔違うのだ。
阿房列車は、いい。
何、という目的も、用事も持たずに、行った先で観光地を駆けずり回ることもなしに、行って、行ったのだから帰る。
ただそれだけなのだ。
仮に行った先で、目的もなくタクシーに乗り、運転手が連れていった名所旧跡の地に着いたとしても、中には入らない。
ひとのそんなところにお邪魔したところで、何ひとつ面白くない。
かくいうわたしも、
「せっかくここまできたのだから」
という一念で中にお邪魔するにはするが、門前ですっかり面倒くさくなり、やはり
「せっかくここまできたのだから」
と自分に言い聞かせることが多い。
わたしのたまにする「阿房独り旅」は、そう自分を言い聞かすために、あれもこれもと予定を詰め込もうとするてらいがある。
そうせねば、行っただけで万事が済み、ぼうっとして帰りの汽車なりを待つだけになってしまうだろう。
今宵は雲も晴れ、見事な眉月が空低く浮かんでいる。
銀座で用を済ました帰りを上野で下車し、ぐるりと上野の山を回って帰ってみる。
芸大の音楽生であろう女子が、背丈を超える楽器ケエスを乗せた車を引いている。
車はガラガラと騒がしく森に響き渡り、わたしの靴音とちぐはぐなハアモニをあげている。
この深更の時分に、大学の門の中へと消えていった。
大荷物の楽器を置くだけであることを、無関係の立場でありながら、そっと祈ってしまう。
無関係だからこそ、の「阿房」のなすことであるには違いないのだ。
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