| 2009年01月31日(土) |
「子犬のように、君を飼う」と「イントゥ・ザ・ワイルド」 |
今日で東京タワーも見納めである。
サラサラと肩を湿らす霧雨が、やはり前方のタワーの姿をも、ぼんやりかすれさせている。
この次からは、大森へと馴染みが変わる。 なんやかやともう四年も世話になったのだから、年月の足並みも早いものだ。
今日の話題は、「志ん生」と「志ん朝」である。
つまり、
縁台で茶飲み話の延長で「まあちょいとこんな話があってね」と「噺」を聞かせるのが、「志ん生」
であり、
高座にあがり、皆の前で落語家として「噺」を聞かせるのが、「志ん朝」
なのだろう。
わたしは、とくにこれまで落語をきちんと聞いたことはない。
作品のために少しだけ桂枝雀を調べたことがあるだけで、そのときにも、直に高座を聞きに近所の演芸場に行ってみようか、と思ったのだが、そのままになっている。
だから話の最中に「だんし」と出たときにも、てっきり「立川談志」だと思い、やがてそれは「桂談志」のことだと気がつき、ややこしいことになった。
わたしの住まう谷中や根津は、「立川談志」師匠と多生の縁がある町なのだから、仕方がない。
さて。
大石圭著「子犬のように、君を飼う」
マカオで出会った売春婦の少女と日本人中年の、純愛物語。
純愛なのか。 明日、いや今日を生きるために、未来におそらく恐ろしい結末が自分を待っていることはわかっていても、体を売り続けなければならない彼女ら。
ここから逃げ出したい、もうあの地獄には戻れない、だから、わたしをここに置いてけぼりにしないで日本で子犬のようでもいいから飼って、と願う。
男は、
耐え続けること、望みは常に思い続けるもの、だから地獄でも生きてゆける、
はずだった少女を、
耐えなくてすむこと、望みはかなえるものだということ、
という世界に、自分の一時的な幸福のために、引きずり出してしまったのである。
男はやがて日本に帰らなければならない。 それまでの間ずっと、恋人であり娘であるかのように彼女と過ごした。
彼女は、愛であってもそれはまさしく「拾われた子犬が飼い主に抱く愛」にしかすぎないに違いない。
もう、あの地獄には戻れない。 戻れるはずがない。 そんな自分にしたのは、この拾い主である男なのだから、ポイと捨てないでくれ。
純愛なのか。
少女(児童)売春の現実や深刻さやら切なさやらを、もし知りたい、知っておきたいと思うならば、梁石日著「闇の子供たち」が優れている。
映画化されたが、某国では上映禁止とされたほどの作品である。
禁止となった理由は、容易に想像がつくものと思う。 描写や表現ではないところにあるものが理由だ、ということであろう。
知らずにいることは幸せなこと、と考えることもひとつの考えだと思うにはよいかもしれない。
そして。
「イントゥ・ザ・ワイルド」
をギンレイにて。 家族にも環境にも恵まれた青年が、大学の卒業とともに一人旅にでる。
身分証もカードも焼き捨てて、己の身ひとつで見知らぬ土地を旅してゆくのだ。
やがてアラスカの地を目指し、その荒野で、ひとりで生きてみることを目的とする。
この作品は話題作でもあっただけあり、至るところに、考えさせられる場面や言葉がある。
いかに物に囲まれて生かされているか。 それに依存しているか。 断ち切れぬ存在か。
「すべてを失った」
と口にすることが、どれだけ甘ったれた考えなのか、ということである。
つまりは、この作品は「反面教師」として大きな意味をもっているように思える。
親も金も社会的なものを毛嫌いし、背を向けたはずの彼は、やがて最期にその己の愚かさに気づく。
遅すぎるほどの、現実世界への思い。
「幸福が現実になるのは、それを誰かと分かち合ったときである」
旅の間、ずっと偽名を名乗り続けた。
しかし最期のメッセージは、本名で記す。 そして彼は、最期を迎えるのである。
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