| 2009年01月25日(日) |
「落下の王国」と谷中雑談 |
「落下の王国」
をギンレイにて。
色々な意味で衝撃的であり幻想的であった作品「ザ・セル」のターセム監督作品。 やはりその世界は生かされ、さらに万人に受け入れやすくなっていた。 「アリス・イン・タイドランド」や「パンズ・ラビリンス」のファンタジー色をグッと抑え、心理世界に塗り替えたように思えた。
スタントマンのロイは恋人にふられ、そして撮影中の事故で足を怪我をして入院していた。 自暴自棄の絶望に落ち込んでいたロイは、そこで同じく入院していた五歳の少女アレクサンドリアと出会う。 ロイは、調剤室から自分が自殺するための薬をアレクサンドリアに取ってきてもらおうと手なづけるために、「愛と復讐の叙事詩」の物語を即興で聞かせ語りはじめる。 その物語はやがて、ロイひとりが作り出した絶望的な物語ではなく、アレクサンドリアとのふたりで作り上げてゆく希望のある物語となってゆく。
「ニューシネマ・パラダイス」のようでもある。
「ボンジョールノ! プリンチペッタ!」
こんな台詞が頭に蘇った。 第二次世界大戦下のイタリアで、ユダヤ系父娘が、娘に戦争の酷さを見せまいと、「これはみんなでやるかくれんぼだ。一等賞をとらなくちゃだめだからね」と最後まで言い聞かせていた感動の物語「ライフ・イズ・ビューティフル」の少女と同じで、かわいいとはまさにこのことだ、と思わされる。
ロケ地で数多くの世界中の世界遺産の地を用い、想像の世界というものの在り方のひとつを考えさせられるものでもあった。
話者の力。
でもあろう。
難しい話ではない。 衝撃的な話でもない。
十分に楽しめる作品だと思う。
さて。
近所に、自転車で鞄の移動販売にきている女性がいる。 平日はわからないが、土日休日はこの界隈を回っているようである。 手製ののぼりに「かばん屋えいえもん」と書き、古着のどてらにニット帽を被っている。
かばん屋といっても、手提げ鞄、ポウチ、根付けなどの小物までハンドメイドのものがずらりと並ぶ。
よく見かけるので、一方的にだが、親近感を覚えてしまう。
覚えてしまっているので、ふと目が合うと思わず会釈をしてしまった。 別の婦人と話をしていた彼女は、つかの間きょとんとし、慌ててかえしてきた。
うむ。 これはいかん。 気をつけなければならない。
以前にも、新規開店してから数回訪れたことのある程度だった近所の古書喫茶店があり、そこの若主人に店の外を通った際にガラス越しに目が合い、また同じようにして、きょとんとされたことがあった。 きょとんとしても、すぐ返す。
それはそれで悪くないものである。
不忍池のベンチで、外国人の婦人が地元の老紳士と世間話をしていた。 見た目はまさに「マム」といった風貌で、貫禄と愛嬌がたくさん詰まっているようだった。 その「マム」の口から流れ出す会話の言葉遣いは、目を閉じればただの地元上野のおっ母さん、であった。
それもまた、悪くない。
そして帰りの夜道で、わたしの横の足元を併走する黒い影があった。 黒猫である。 やがて、にゃあにやあと鳴き始め、わたしがふと足を止めると足を止め、すり寄ってきた。
そして足元を、股の下をくぐりながら八の字を描くように、ぐるぐると回りだす。
歩き始めると、歩いている股の下を、やはり器用に八の字を描くようにくぐりながらついてくる。 そうなると、こちらの歩くペエスが好きなようにはいかなくなる。
いつまでたっても猫はやめようとしないのである。
やがて足元ばかりを見て歩いているわけにもいかないので、ふと前方を確認しようと顔を上げたとき、
にゃうんっ
と鳴き声が前方に向かって飛んでいった。 二、三歩先に黒猫が着地し、脇に跳びすさるのが見えた。
足を止め、しばし見つめ合う。
ネコや、だいじょうぶか。
駆け寄ろうとしたが、これで必要以上にかまってしまっては、百ケン先生になってしまう。
ネコはだいじょうぶなようだ。
みゃあみゃあと鳴き声をあげたまま、わたしが駆け寄るのを待っているようだった。
いかん。
わたしは肩をそびやかし、背を向け、歩いてゆく。 離れるほどに、鳴き声は大きくなってゆく。
ネコや、許しておくれ。かまうわけにはいかないのだ。
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