背後で、男女が声高に熱く話し合っていた。
違う。そうじゃない。それはまだわからなくていい。 それなら、ここでようやくヒントらしきものをにおわせよう。 いいね、それ、いいよ。
舞台か映画のシナリオか、ミステリのプロットを考えているようだった。
わたしは、どうしようもないほどの、わがままだ。
どれくらいどうしようがないのかというと、わたし自身でも持て余してしまうくらいである。
彼らのようにアイデアを出し合い、つなげてゆき、化学反応を起こしてゆくような、物語の作り方などできやしない。
そもそも、わたしは物語を作ったという記憶はほとんどない。
作ろうとして崩壊したことなら、幾度かある。
外的なものをビリヤードの玉のように突き、連鎖させ、ポケットに落とすようなことは、できないのである。
すべてはわたしの見えない内にある。 その諸々であったり、すべてであったりするものは、外的なものの侵入を頑なに拒んでいる。
しかし、内の深奥にあるものを浮かび上がらせるために、そのきっかけとして外的なものの力を借りることはある。
そこで肝心なのが、あくまでも「借りる」にしか及ばないことである。
外的なものはあくまでも外のものであって、内にはないものである。 さらに、内的なものではないのである。
わたし自身が見えていようがいまいが、すでにそこにあるものに、外部から手を加えることはできない。
内的な世界では、わたし自身ですら、外的な存在ですらある。
そうであるから、わたしは常に、ただ見者たらんとすることにつとめるしかないのである。
外的なものに依って化学反応を期待するのだとすれば、わたしは燃焼爆発してしまうだろうことが目に見えている。
まだ、外的なものを受けて飲み込み、それに応えるだけのものを、わたしは持っていない。
揺らぎなきものを持たない限り、外的なものをそれでよしとできるだけの支度ができていないのだ。
誰かが思いつくことを誰もが使う言葉で物語るくらいであるならば。 わたし自身の言葉で物語るほうがその結果が良しにつけ悪しきにつけ、よっぽどましである。
しかし、それはわたしが存分にわがままな思考の持ち主であって、それ以外を、否、としているのではない。
かくいうこの文調も、やはり何処の何樫の模倣、拝借といわれればそうであるのかもしれない。
|