内田百ケン著「第二阿房列車」
「阿房列車」分冊版の二巻目である。 百ケン先生は、やはりいい。
「……汽車が走ったから遠くまでゆき、そしてまたこっちへ走ったから、それに乗った私が帰ってきただけのことで、面白い話の種なんかない。 そもそも、話が面白いなぞというのが余計なことであって、何でもないことに越したことはない」
そんなことを、堂々とその紀行文である作中にいってのけてしまう。
たしかに、これといった珍事、感動が書き述べられているわけではない。 何とか線の何時発に乗り、どこそこへ向かった、だとか、旅館で一献設けた、だとかの、「どこ」かであることの必要性をほとんど感じさせないことばかりが描かれている。
しかし、読まされてしまう。
途中下車をする気にはならないまま、ついつい気がつくと終点、または乗り換え駅にまで、我が身が運ばれてしまっているのである。
目的地はあるが、 目的はない。 だから、予定もない。
阿房列車の所以である。
「みんながみるものをみて、なにが面白いのか」
だから観光地には行かぬ。 温泉地に行っても温泉に入らぬ。 しかし、風呂が温泉なら、わざわざ入らないてもないので、風呂には入る。
このような面白味のある人間になりたいものである。
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