「隙 間」

2009年01月06日(火) ゆめうつつの記

 正月の間にみた、夢ではなく、妄想のようなものだろう。
 しかし、あまりにも現実味あふれた感覚だったので、ここに記してみる。

 百ケン先生がいた。
 百ケン先生とわかるのに、顔がはっきりしない。なのになぜ百ケン先生だとわかったのかというと、漱石先生のことを思うとたちどころに、むずがゆそうで居心地が悪いような、そうして居住まいを正すような、そんなふうに振る舞うからだ。

 しかし、百ケン先生は何も話さない。

 ただぼうっと縁側の外を眺め、もしやノラの帰りを待っているのか、はたまたそれとは関係なく、酒肴をどこでありつこうか考えているのかもしれない。

 わたしはそこに、形をもっているのかいないのかわからない。

 わたしが言葉を口にすることなく先生の居住まいに影響を及ぼすことや、先生が全くといってよいほどわたしに無頓着な様子から、形をもっていないほうがありうるのかもしれない。

 いや、阿房列車におけるヒマラヤ山系氏のように、相手の存在を歯牙にもかけない態度をとることは、先生には息をするに等しいことでもあるので、たしかではないかもしれない。

 ひとつ、忘れていた。

 もしかすると、先生は借金するための目的とその相手をどうするか思案しているのかもしれなかった。

「芥川は……」

 先生がぼそりとこぼした。
 どうやら借金の思案ではなかったようだ。先生が芥川氏に借金を申し出るわけがない。

 では、名が売れた芥川氏に対するぼやきだろうか。いや、それも違うような気がする。
 歯に衣着せぬ弁舌の持ち主ではあるが、妬みや嫉みからその舌をふるうようなことはない。

 芥川氏の人気が云々というよりも、氏の細い面持ちが妙に気になって思い出し、思わず氏の名前をこぼしてしまったに違いない。

「まるで……のようじゃないか」

 何のようだといったのか、聞き取ることができなかった。
 まったく聞こえなかったのなら気にすることもない。なぜなら聞こえなかったのだから。

 しかし、わずかでも聞こえてしまったのだから、残りが気になる。

 もう一度こぼしてはくれないかと、耳を澄まし息をこらして待つ。

 同じことを二度ぼやくなど、そうあるはずがなく、こらしたまま、わたしは薄れてゆく。

 そうして、はっと目をしばたいたら、わたしはここに形をもって歩いていた。

 三四郎池が塀の向こうの遠くに佇む脇を抜けてきたから、それのせいなのかもしれない。

 いつも通る道だというのに、特別なこともあるものだと思った。


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