上野不忍池を、熱々の肉饅にはふはふ唱えながら歩くのがよい。 しかしその肉饅はコンビニエンスにて購入したオーソドックスなものだから、小振りですぐに胃袋に収まってしまう。
こうなると、神楽坂「五十番」の肉饅を所望したくなる。
あれほどボリュウムがあり、かつ絶妙の味の肉饅は、なじみがあるとはいえ横濱のもののなかにもそうは見当たらないだろうと思う。
しかし、いくら絵に描こうとここは上野であり、けっして神楽坂ではないのだから「五十番」があるはずもない。
とはいえ、今手元にあるものをないがしろにして、わざわざ興を醒ます必要もないので、黙ってはふはふと唱えながら頬張ることにする。
不忍池に浮かぶ八日月に、かじり欠いた肉饅をかざし並べてみる。
湯気がもやもやと立ち上り、なんだかそれが、とても勿体ないように急に思えて、雲中に隠れるより早くかぶりつく。
あの月のように、いつまでも満ち欠けを繰り返す肉饅はないのだろうか。
もう嫌だ、御免蒙る、と口を背けても、いつまでも目の前でなくならない肉饅があったとしたなら、わたしは鍋をかぶせて見ないことにするだろう。 自分勝手と指さされようが、そうすることに間違いはない。
だから、欠けて満ちてしまう前に、すべてを平らげなくてはならない。
胃袋に収めてしまえば、やがて酸によって溶解されるのだろうから、それでやっとひと心地着くというものだ。
ひと心地着くと、そこでさらに腹が減る。 腹が減るから、さっさと帰る。 飢えと冷えは密接に関係づけられた生理現象でもある。
寒夜行……。
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