「隙 間」

2008年12月10日(水) せわしなく思うことにて候

 最近、歩き方がどうにもせわしない。

 ネギをみじんに刻むかのように、カツカツカツ、と、歩幅もこまかく、肩に力を込めて、歩いている。

 身体を芯から震わせる寒気のせいだけではない。

 寒気のせいであるならば、それ相応の歩き方というものが、雪国を知ってはおらぬが、わたしなりにある。

 歩き方がせわしないと、頭のほうもせわしなくなる。

 せわしないからといって、処理能力が各段に速くなるかといえばさしてそうでもないのである。
 二十日鼠がカラカラとクルマを回しているように、一歩も進まないのであるから困ったものである。

 ぜんたい困るのは得意ではないので、それをどうにかしようとする。

 手っ取り早いのは、歩くのをやめてみることだ。
 歩くのをやめれば、惰性でしばらくはせわしなさが続くが、やがては勢いをなくし、そろそろととまろうとするのが世の摂理というものである。

 摂理などと大層な言葉を用いたが、これは誰もが既知のことであるので、なにを鷹揚なもったいぶった物言いをなさる、と非難されないでいただきたい。

 旧営団地下鉄丸の内線のように、ぐるりと遠回りしてしまっているようなので、新規開通した副都心線のように、横を縦にして進めよう。

 歩くのをやめてしまったら一歩も進まないのは、これもやはり一目瞭然のことわりであるので、進まないといつまでも帰れないのは、もちろん困る。

 目的地が明らかであるから、そこへとまっしぐらに、余計なわき目もふらず、身体が勝手に突き進んでしまうのだ。

 だいたい、目的だの約束事だの、先のことを今決めてしまうのは、よろしくない。

 帰ったら、晩ご飯はすき焼きにしよう、と松坂のよく霜の降ったのやら杏仁のようにぷるぷるしたのを買いあさって帰ったところで、鼻腔とみぞおちをたまらなく刺激するカリー粉の香りに、うむそちらがよかろう、と翻意してしまわない保証など、どこにもないのだ。

 だから、どうせ放っといても身体は正しく帰り道をたどろうとするのだからそれにまかせ、だいたいのことだけにのみ、わたし自身を向ける。

 だいたいは、だいたいである。

 だいたいというのも、なかなか正しいもので、正確ではないが概ね間違いではなかったりする。

 ひとの道というものも、だいたいが似たようなものである。

 走ろうが、闊達に歩こうが、ぼやぼやと歩こうが、たどり着くところはだいたいが、同じようなところである。繰り返し何度も見ることが出来ぬのなら、路傍の石つぶてを蹴っ飛ばしながら、あっちへとこっちへと、角の思うがままもなかなかよいのものであろう。


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