夢見る汗牛充棟
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『弱き虫けらどもの哀歌』
その日、ミュフォーン市はどうしょうもない位暑かった。 海からの風は、やみくもに強く吹き荒ぶが、濡れたように湿り気を帯びていて、身体にまとわりつくようで何の足しにもなりはしない。 夜になっても依然として、暑さは収まらず人々を苛つかせた。 そんな、ある日のことである。
既に、陽がとっぷりと暮れてしまってから男は、勤務先のミュフォーン造船所を後にした。男は40代半ばといったところか。残業を終えてようやく帰途についたところのようだ。首筋などとんとん叩いて抜かりなく疲れている己をアピールしつつとっくに人通りの絶えた東大通りを中心街に向かって歩き出す。 何故歩くのか? 聞くな!!馬車代浮かして飲む。これは、親父の涙ぐましい知恵だ。 カツーン。カツーン。カツーン。カツーン。 1人で歩く夜の石畳というやつは、足音をめったやたらと響かせる。そして、不安な気持ちを呼び起こすものだ。 男は、決して臆病な性質ではなかったが、なんとなく急かされるように歩調を速めた。
カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。
カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。カツ。……ヒタ。
「………?」
己のものではない足音が混ざった。 (おお!こんな辺鄙な場所で馬鹿みたいに繁華街めざして馬鹿みたいにてくてく歩いているのは、私だけではなかった!…同志よ!) 一瞬、男はひたすらに嬉しかった。 が、しかし。 カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。 カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。カツ。ヒタ。 カツカツ。ヒタヒタ。カツカツ。ヒタヒタ。カツカツ。ヒタヒタ。 カツカツカツ。ヒタヒタヒタ。……………(10分経過)
これは、恐い。とっても、恐い。
どこの誰だか知らないけれど、そいつが人気の絶えた夜の大通り、己のすぐ真後ろ(だと思う)をずーーーっと、延々と、無言で歩いてくるのである。 刃物をもった、強盗だったらどうしよう。人には言えない嗜好をもった危険な人だったらどうしよう。いまにも、私はどうにかされてしまったりするんじゃないのか?恐ろしい…。 男は、振り返りたくて仕方がなかったが、本当の通り魔だったらどうしていいかわからないし、ただの通行人だったら、それに脅えた自分が悔しすぎる。
ちくしょう!けしからんっ!!誰だ!私の後ろに誰がいるんだ!!
カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ
男は耐え切れずに走り出した。
カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ
男は40数年の人生の中で、これほど必死に走った事はなかっただろう。
ヒタヒタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ
足音がいきなり速度を増した。やはり、足音の主が男を追いかけているのは疑いがないようだった。
ヒタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ……。
「だ、誰だっ!」 男は、立ち止まって怒鳴った。 「あんたは一体どういう理由があって私の後をつけてくる!?」 くるり。 相手を見極めようと振り返った男の前には、やはり1人の男が立っていた。 「…………」 夏だというのに黒いマントをはためかせ、その下には黄色い長袖ハイネックのシャツ。黒いレザーのぴったりしたパンツ、同じく黒のロングブーツ。仕上げに被った黒い覆面は、両目と鼻と口の三箇所にOの字に穴があいている。 なんとも、危険な香りのする日常的な姿ではないか。 「……………」 「………………」 男と、覆面男の視線がかち合った。ふういっ。 男は、視線をそらした。(それはそうだろう)
「さあてと……すっかり、遅くなっちゃったなぁ…」 無理矢理なまでにさりげなく男は、その場を立ち去ろうとする。 わしっ。その肩を覆面男が掴んだ。 「ひっ」 「待てい」 硬直してしまう男。 「お前は、ミュフォーン造船所の者だな。隠しても無駄だ。お前が正門から出てくるところを俺は見ていた」 「だからどうだというんだ!?」 覆面男はふむ、と頷いた。 「やはり、そうか。ならば、お前個人に恨みはないが、俺はミュフォーン造船所の連中全てが憎い!幹が憎けりゃ葉っぱも憎い!よって、お前を成敗する。覚悟せいっ!!」 「ま、ままままま待てっ!何のことだかさっぱりわからん!何かの間違いだ。そうだろう!?」 覆面男に胸倉を掴み上げられながら男が叫ぶ。覆面の奥の目が、狂おしくギラリと光ったようだった。
「暑い…。またこの季節がやって来た。…この暑さがな、俺に命ずるんだ。お前をしばき倒せとなぁ…」 「そ、そんなぁ…。無茶苦茶だ」 「無茶苦茶か。ふ。確かに。……ならば、聞く。お前は、夏の賞与は貰ったか?」 「か、金がほしいのか?今回は2割ほどカットされたからあまり、余裕はないんだが…」 「2割カットだ?…ふふふふ…ふふ」 覆面男は、地を這うような声で笑った。 「この、けーき悪くて、来年までミュフォーン造船所はもつのか?とかなんとか囁かれている中でも、やはり…もらうもんはきっちり貰っていやがったか」 「ししししししょ賞与は生活給の一部だぁ!当然我々には貰う権利があるんだぁ!!」
ぴく。
覆面男の肩が震えた。 「やはりお前は成敗だ。もう変わらん」 覆面男はそう告げた。低い低い声が覆面男の本気を象徴していた。 「ミュフォーン造船所。諸悪の根源。この俺の憤りは火山より烈しく、恨みは底無し沼よりも深い!その身をもって思い知るがいい。行くぞっ!!」 「わ、私はしがない雇われ管理職だぁ!私には何の権限もないんだぁ」
「やかましいわっ!」
たあっ。 覆面男が跳躍する。 大きく何かを振りかぶりそして、男に向かって振り下ろした。 「天誅!!」 「ひぃぃぃぃぃっ」
ぺしっ。
いやに軽い音が男の頭頂部で炸裂した。覆面男がマントの下から取り出したハエタタキが、寸分の狂いもなく男の頭の真っ芯をとらえたのだ。ちなみに、竹でできている。
「ぐぅわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
頭を抱えて断末魔の呻きをあげつつ男は、石畳に転がった。 「ふ」 その様子を覆面男は、冷ややかに見下ろした。 「…あるところに小さな下請け業者さんがおりました。下請け業者さんは仕事をし、そして働いた分の金を貰いに行きました。そんな下請けさんに元請さんはいいました。『今回棚上げね』……下請けさんは思いました。そんなに大変だったのか…けれど、けれど…風の噂で下請けさんは聞きました。あの日の午前に賞与を払い、午後に万歳していたことを…そして…くっ」 覆面男は、こみ上げてくる烈しいものを押さえ込むかのように歯軋りをした。 「その日を境に、下請けさんちの辞書からは、賞与という単語が消滅したのです。 …そして、一年の月日が流れました。……どうだ?楽しいフェアリーテイルだろ?心が洗われるようだなぁ。くっくくくく…」
赤い月は、中空に浮かび、石畳の上の異様な男たちを仄かに照らしだしていた。 もはや笑い声だか、泣き声だか判然としないそれは、夏のねっとりとした闇の中へ散り散りになってゆくのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おわってやがる(笑)
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