★悠悠自適な日記☆
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2006年05月10日(水) |
最終的に決めるのはあなただから |
人付き合いでうげっとなってしまうことがあります。それは「最終的に決めるのは○○ちゃんだから私からは何も言えない」という発言です。意外にも意外によく耳にする言葉で、でもこれらは私たちの世代ならではの言葉ではないかと思うのです。
何かを決断するとき、最終的に決定を下すのはその人本人だから、外野にいる私達は何もできない。何も意見を出すことはできない…という考えなのだそうです。
私はこの言葉にずっと疑問を抱いていました。本当にそうなのでしょうか?
最終的に決断を下すのはその人本人なのだから、せめて私は私で意見を持っていてもいいのではないでしょうか?決定権が自分ではないからといって、何も考えない、考えようとしない、考えることを放棄する、それは自由を託しているみたいで格好よく見えます。でもそれは時としてドライで冷淡な人間付き合いだなと思えてしまうことがあります。
自分の意見を持つということは、押し付けることではありません。自分はどうなのか。自分なりの思考を繰り広げる必要があるのではないでしょうか。それを自分の中に秘めておくも結構、伝えてあげるもその状況によりけりです。時にはじっと黙って話を聞いてあげることも大切だと思います。でも何より危険なのは、そこで何も意見が持てないということです。決断するのは本人だから、私はそのことについて何も考えないという、脳みそをストップさせてしまうところが、責任放棄(責任なんて最初から問われていないけれども)のようで、希薄な人間関係だなと思えてしまうのです。
でっかく例えると、「自分が意見を持ったところで今の政治は変わらないよ。」と言っているのと同じです。
自分以外のことには興味が持てず、身の回りで起きている出来事に引っかかりを持たない生き方。日常のでこぼこやトゲトゲを冷酷な目で見過ごしながら、そんな人たちが演劇やってるんだだの舞踊やってるんだだの一著前な主張をするのです。
こんなのでは議論にもなりません。大学に入って何かについて深く議論をするということが極端に減りました。それは芝居のことでも友達のことでも。何か意見を持ち出すと「最終的に決めるのは○○ちゃんだから私から何も言うことはないわ」この言葉で話は終わります。
悲しいな。誰かが売春してるとか援助交際してるとかドラッグやってるとか言っても黙って見ている人たち。それについて何かを考えや行動をしようとしない人たち。黙っていればそのことに無関係でいられます。意見を、責任を求められることはありません。
うんざり。
なんとなく生きているだけではだめです。なんとなくやっているのもだめです。特にものを生み出す人たちは、常に思想を求められているのです。今何が起こっているのか、それを見ている自分はどうなのか。ただでさい小さくてツルツルの脳ミチョの働きを止めてはならないのです。私はこの追及を忘れないで生きていきたいです。熱いって言われようが格好悪いと言われようが。
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