★悠悠自適な日記☆
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2006年05月09日(火) 寂しさの中で生きている

 先日、初めて母と飲みに行きました。そこで、先日上演したプラズマみかんの公演の感想を聞かせてもらいました。母は演劇については全くの無知で、私の打つ公演を見ても、それは子供が運動会や学芸会に出ているのと同じ感覚でしか見ていません。私が舞台に立って、台詞を喋っていればそれで満足とでもいうような。吉本新喜劇みたいなギャグが入っていればそれが面白いというような。

 しかし、そんな母から今回はちょっと意外な感想を聞いてしまいました。

 それは、私の作る作品にはやたら「寂しい」だの「悲しい」だのをテーマとして描いてくるということであると。あんたは戯曲の中で寂しい悲しいをよく描くけど、母さんはあんたを寂しくさせるような育て方をした覚えはないけれど、あんたはそんなにも寂しさの世界の中で生きてきたのかと(苦笑)

 私は両親から寂しい生活を強いられたと感じたことは一度もありません。

 そんなことではなく、この世の中のめぐり合わせが喜怒哀楽の中のどれから始まったのかということを考えたとき、私は哀(悲しい・寂しい)以外には考えられないと思うことから始まっているのです。

・寂しいから恋人が欲しい。
・寂しいからお金が欲しい。
・寂しいから名誉が欲しい。
・寂しいから友達が欲しい。
・寂しいからメールをしたい。
・寂しいから電話をする。
・寂しいから命を生む。
・寂しいから命を奪う。

 寂しいはやがて喜怒愛(哀が変化して愛)楽に形を変えるかもしれないけど、本来は寂しさのカタチをしているのではないかと。たまたまそういう視点から世界を見ていると。

 私は軽く笑いながら、母の育て方が寂しかったのではないということを主張しながら、それでも私自身が日々の生活の中で何らかの寂しさを抱いているからこそそれが滲み出てくるのかなと。母の育て方は寂しくなかったけれども、生きていて寂しいと思うことは山ほどあるのよ。でもそれは私だけではなくて、多かれ少なかれ、世界中の人が感じていることなのよ。

 そんなことを考えながらポテトを注文すると、ポテトの中からカラカラに揚がったデカイ虫(ポテトと一緒に油の中に入ったと思われる)が出てきてビックリ!!虫も寂しかったのかしらん。


嶋子 |MAILHomePage

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