★悠悠自適な日記☆
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2005年10月03日(月) 数的悲痛

 今日、友達から『星の王子さま』を借りました。悩める私に少しでも希望になればと貸してくれた本です。そして、小学生の頃からずっと読もうと思っていたのにも関わらず読まず終いだった本でもあります。帰りの電車の中でずっと読んでいました。

 私は語り手が話すのと同じスピードでしか物語を読めないので、まだ最後までは読めていないのですが、読んでいる途中で気になった言葉がひとつあります。それは…

 『大人は何でも数字で判断をする。』

 という言葉です。

 今日、身体育成の授業で、足を痛めてしまいました。手術をした箇所が、本当はもうとっくに治っていてもいいはずなのに、いつにたっても鈍い痛みがとれないで心配していました。それでも運動許可が出ていたので、思い切って跳んだり跳ねたりしていたら…やっぱり痛いのです。その痛みはだんだん酷くなっているようで、授業が終わる頃には跳んだり跳ねたりはおろか、歩くのですら少し困難なほどでした。

 私の足は本当に治るのか。それが物凄く心配になってきたため、とりあえず母に連絡して、明日が主治医の出勤日なので、病院に連れて行ってもらえないか頼んでみることにしました。

 稽古が終わってから帰ると、毎日日付変更ギリギリに帰ることになります。今日は足が痛いため駅まで迎えに来てもらいましたが、問題はそこからです。

 明日、レントゲンを撮ると医療費がどうのこうの、医者の言うことを信用するからどうのこうの、病院までの時間がどうのこうの、ガソリン代がどうのこうの、病院でもらった薬代がどうのこうの、(医療費がかかるから)あんたのせいで家族がどれだけ苦しむかどうのこうの、挙句の果てには帰ってくるのが遅いせいで中途半端にお皿が5枚洗えない、お風呂の電気がどうのこうの…そんな言葉を並べ立てられてしまいます。

 ケチとかではなく、きっと、お金が大事であることを伝えようとしているのだと思います。

 だけど痛いのは私です。家族は金銭的に痛い思いをするのかもしれないけど、この、足が、本当に痛いのは、私なのです。

 でも、父も母も、私の痛みとかにはさして話題にも触れず、医者がどうだとか、せっかく手術したのに手術代がどうだとか、そんな話ばかりです。誰も私の足の傷口を見ようともしません。両親なりに心配はしてくれているのでしょうが、あまりにも私のことを見ないで、自分達の中だけで話をし、自己完結してしまうので、私のことなのに、私の足の痛みなのに、だんだんとまるで他人事のように思えてきます。「私はここにいなくてもいいんだな。」そう思えます。

 冗談抜きで、この家にいると、死にたくなるのです。
 「死んだよ」って言っても、気付いてもらえないんじゃないかと思うのです。

 私が死んだという事実よりも、私がそこにいないという実態よりも、父母にとっては葬儀にかかる金額の方がリアルで現実的な問題なのではないかと思うのです。本当に。

 いつも家に帰ると絶望的な気持ちになります。家族の中で孤独を感じるくらいならいっそのこと誰も話し掛けてくれなくて良いと思ってしまいます。

 それでもいつも優しさという淡い期待を抱いて家に帰ってしまうのです。そしていつも後で後悔するのです。どうして帰ってきたのだろうと。


 数で解決したがる父と母。本当は数ではなく、私に触れて欲しいのに。

 期待をすると叶わなかった時に悲しい思いをするから、それなら最初から期待しないことにしよう。

 そうやって何かを諦めた今日という一日。


嶋子 |MAILHomePage

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