★悠悠自適な日記☆
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2005年10月07日(金) |
本当はその山を越えたい私 |
その昔、炭酸飲料が飲めなかった母は、山登りをきっかけにコカ・コーラを飲むことができるようになったらしい。山頂には何故かコカ・コーラしか売っていなくて、もうそれを飲み干さないとどうしようもない喉の渇きとしんどさと、だけど爽快な疲れと気持ちよさがそこにはあったそうだ。
山を越えるとは、そういうことらしい。
しかし私はそういうのを感じたことがない。小学5年生の時に発症した外頚骨障害の影響で、長時間における運動や、でこぼこ道が歩けない。よってそれ以降山登りは、無理して参加してもいつもリタイアか、足の痛みで泣きながら足を引きずって下山し、しばらくまともに歩けないかのどちらかだった。
「嶋子が同じグループにいると、足手まといやねん。」
陰ではこんなことを言われていたりもして、結局、私は山登りはいつも不参加、学校で自主学習(という名の図書館談話)の一員になっていた。
一部の人を除いては、私に「無理しなくていいからね」と、優しい言葉をかけてくれた。私も後に控えている公演や稽古のことを考えると、見送らざるを得なくなる。
だけど、本当は違っていて。
めっちゃ疲れて、汗だくになって、足がぎーんと痛くて、だけどそれで乗り越える山はそれだけ気持ち良いものなのだろう。飲めないはずのコーラが喉を通る瞬間はどんなものだろう。すっとそんな感覚に思い焦がれたりしている。
でもそんな気持ちはいつもどこかに葬り去られる。
「足出まといやねん。」 「無理せんときね。」
返ってくる言葉はいつもこのどちらかで。ありがたいけれど、やっぱりこのどちらかで。気遣ってはくれていて、それはとてもありがたいのだけれど、いつも心のどこかでひっかかりを感じている。不満が残る。
私の思いはどこにいったのだろう。
私の気持ちは最初からそこになかったことになる。
学校は皆で行動するところだ。次から次に課題が与えられて、それをこなすことに皆は必死になり、わき目も振らずに進んでいく。しかし私は未消化のまま素通りしていくことになる。
それは仕方のないことなのかもしれない。だけど、私は悲しい。とても悲しい。
仕方がないと諦めてしまうことは簡単。でも押し込められた私の気持ちはずっと底に沈んでいって、罪悪感のようなものに変わっていって。そいつをどうしようかなといつも考えてみる。でも、一人で解決できないことが多い。
本当は、誰か一緒に駒を進めてくれる人がほしい。私のゆっくりなペースになってしまうけれど、それでもゆっくりで、止まりながらでも、一緒に山に登ろうって声を掛けてくれる人がほしかった。諦めることは簡単だけれど、でもどうしたらできるかを一緒に提案してくれる人、望むなればそういう人が隣で肩を並べてくれたら孤独な道もかなり楽しくなるだろうなと思う。
それは、今学校にいて強く思うことで。
私の足は、手術したのに状態が芳しくない。みんな気遣って「無理せんときね。」と言ってくれる。それはありがたい。感謝してる。だけど私の「やりたい」という気持ちはどこに行くのだろう。
一緒に進んでいこうね。と言ってくれた人がいた。この人にちょっと期待した。こんな私にスピードを合わせてくれる人だ。と、勝手に思い込んだ。だけど結局それは口先だけの約束で、結局目の前に新しいチャンスが現れると、それに追いつけない私を置いて先に行ってしまう。それは、目まぐるしい時間の流れは私を待ってくれないということだ。ここも、その人も、やっぱりそうだった。時間は止まることなく進んでいて、それに適応できないのは私だけなのだ。
私なんかに構わずどんどん進んでいって、という思いと、でも逆に、いつもそういう人を見送るばかりで、そんな自分の歯がゆさに限界で、わがままだけど、私はいつも他人の成功だけを願っていられる程お人よしじゃない。
今回も、私の思いはまたなかったことになっているのだろう。 同じように「いつかまた」とした約束も、「いつか」になったらなかったことになっているのだろう。
気がつくと私は蚊帳の外にいる。
やっぱり独りらしい。 もう期待しないことにした。
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