★悠悠自適な日記☆
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「努力」「忍耐」「根性」この3つの言葉が大好きな人がいます。何事に対しても努力すること、耐えること、根性を出すことに意味があり、楽することを否定する人間です。
私は先日、徒歩10分で行ける駅に、自転車を使って行こうとしました。自転車なら3分で行くことができ、時間の短縮になると思ったからです。すると、ある人にこんなことを言われてしまいました。「たかだか10分の道のりを何故あなたは歩くことをしないのか。近頃の人間はすぐ楽をしようとするからダメになるんだ。」と。駅に自転車で行くだけで何でそこまでボロんちょに言われないといけないのかと私は腹を立てましたが、適当に流してその場を回避しました。
私からすれば、その人は「苦労マゾ」です。努力や苦労することが美しく、楽をしている私は悪い人間なのです。こういう人に限って「昔はああだった…」「私達が子供の頃はねぇ…」が口癖です。苦労した思い出が美しく、愛しくてたまらないのでしょう。
私は努力とか忍耐とか根性を強制的に押し付けられるのは嫌です。できることなら苦労なんてしたくないです。そもそも、産業革命以降人々は物質的豊かさを追求して、精神的ゆとりを得ようとしてきたではありませんか。その結果が今なわけです。人々は思い通りの、いや、それ以上の物質的豊かさを手に入れることができたではありませんか。(精神的ゆとりという項目に関してはいろいろ問題が山積みですが。)それを築いてきたのは昔の人間で、私達はそれを受け継ぎました。なのに何故今更楽をすることは罪であるかのような意識を私達に植え込もうとするのでしょうか。
もちろん、自分の目標を達成する際の努力や忍耐は必要です。肝心な所で根性が出せなければ手に入れなれないものは当然あります。しかし、特に何もないところでの努力は必要なのでしょうか?常に努力し続けることが最高の方法なのでしょうか?そんなの苦しくて仕方がないです。
例えば自動車を頻繁に使えば環境問題だったり、運動不足による肥満だったりと、便利さの裏には様々な障害を含んでいます。しかしそこをどう対処していくかが努力や忍耐のみせどころであり、自動車を使うこと自体に罪の意識を持つ必要はないわけです。もはやそれなしでは生きていけない社会のしくみが出来上がってしまったのだから。
また、「昔はこうだった」「私が子供の頃は…」と言う人に対してて本当にそれは苦労だったのかと疑念を持ってしまうこともあります。今が昔と比べて便利な世の中だから、結果として昔やっていたことは今と比べて「苦労」なのでしょうが、昔はそれが当たり前だったのだから、別に苦労ではないと。例えば今から10年後、タケコプターを持つのが当たり前の世の中になっていたとしましょう。10年後の私達は「10年前は空を飛ぶなんて考えられなかったのよ。」と言って次世代の若者達に苦労話をしたくもなるのでしょうが、タケコプターがないのは当たり前のことなので特別な苦労でもなんでもないわけです。(むしろタケコプターを作った人の方がよっぽど苦労しただろうなと。)
このような理由から努力や苦労することを美化し、楽することを否定的に捕らえる考えを押し付けられるのは私としては不本意なわけです。楽することにいちいち罪悪感を持っていたらせっかくの物質的豊かさも精神的豊かさに繋がることなんてありえません。努力や忍耐や根性なんて、必要な時に発揮できればいいわけで、追い求めるものではないと、私は強く思うのですよ。ぶちぶち言いすぎですか?
あ、でも「根性戦隊ガッツマン」という歌は結構好きです。どないやねんなー! ♪根性出して かからなくちゃ 地球の平和は 守れないさ 根性 根性 根性だけは 誰にも負けない 5つの力だ根性戦隊 ガッツマン
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