Leonna's Anahori Journal
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2007年04月07日(土) 古書店へ行って気付くこと

 
ブックオフにしろ、八重洲の金井書店にしろ、近頃古書店へ行くと見覚えのある本がわんさか出ていることに気付く。

加賀乙彦「錨のない船」、丸谷才一「裏声で歌へ君が代」、水上勉「金閣炎上」、井上ひさし「吉里吉里人」…
こういった、昭和50年代以降に大きな出版社から出た箱入りの単行本が店頭のワゴンに山積みになっている。
私がこれらの本に見覚えがあるのは、どれもその昔亡父の本棚に並んでいた本だからで、懐かしさを感じるのと同時に「そうか、こういう本を買って読んでいた年代が、まさにいま滅亡に瀕しているのだな」とわかる。

要するに、大正の終わりから昭和ひとけた位の生まれのひとたちが次々に亡くなって、家族がその蔵書を処分しているのだ。父は亡くなる数年前、自分たちの年代(戦中派と呼ばれる)について「死に盛りさ。」と言ったことがあった。
私は古書店のワゴンの前に立って、「ほんとにこれ、うちから出た本なんじゃないの?」などと思いつつ、父の言っていた言葉の意味を理屈ではなく思い知らされているわけだ。
 
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その中でも、特に目立つのが開高健の本。
私も昨年末、箱入りの「珠玉」を買ってしまったのだが、単行本に限らず、文庫本とも、古書として大量に出回っている。
 
先日、ブックオフ行きを免れた亡父の本の中にも開高健の文庫本がたくさんあった。4年前ベトナム三部作を読んでいたとき、「輝ける闇」のあとに「夏の闇」を読むつもりだと話すと、父が「その本ならうちにある、いま探してやる」と言うのを断って、自分で新しい本を買った。父は当時すでに、記憶違いや何をどこに仕舞ったか忘れることが多くなっていたので、短気な私は面倒を嫌って「いいよ、いいよ」と探させなかったのだ。

父の遺した文庫本のなかにはその「夏の闇」も、それから「珠玉」も、ちゃんとあった。可笑しいような悲しいような、妙な気分である。

ウィスキーの水割り(またはロック)を舐めつつ、開高健を読み、開高健のような「男の生き方」について多少なりとも思いを致した男たちが消えてゆく。別にそういうオトコがいいとか、素敵だとか思ったことはただの一度もないのだが…。
さびしいような不安なような、これまたちょいと、妙な気分なのである。
 
 
 
 




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