Leonna's Anahori Journal
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NHK、BSプライムタイムを観る。『映像記録 昭和の戦争と平和』という番組。貴重なカラーフィルムでみる日本の戦前、戦中、戦後。 日本の文化や風俗、日常生活の様子もあるが、やはり衝撃的だったのは第二次大戦中の記録だった。
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目にも鮮やかなアジアの里の風景。青々とした稲田、まわりを囲む低い山。その田んぼの畦道を銃を手に走る米兵。あ、ヴェトナムだ、と思ったら沖縄だった。
兵隊ではない若い日本人の男がほとんど無抵抗のまま、無惨に撃ち殺される。一瞬のうちに重たい木偶(でく)人形のようになって斜面を滑り、どさりと土の上に落ちる。
女子供、年寄りの避難している防空壕の入り口から兵隊が何かをひょいと投げ込む。手榴弾。投げ込むとき、壕の入り口にかけられたむしろをサッとめくって放り込んだ。一、二、三、四、五秒後くらいに穴の中から爆音と爆風。生き残るすべは皆無だった。
森の中を逃げまどう人々。たとえば着物の前をはだけ、幼い子供の手を引いて走る母親。その森に容赦なく向けられる火炎放射器。生木でさえも燃やす炎は、生きている人間をみるみるうちに炭にしてしまう。
捕まれば残虐行為が待ちかまえているときかされていた女性。投降を呼びかける米兵の声に応じず、海沿いの斜面を走って逃げていく。やはり着物姿。これより先に逃げ場がないとわかると、あっさりと足から海へ飛び降りた。この女性も撃たれた男性同様、一瞬のうちに木偶人形となり、次のショットでは、浅い岩場の平たい岩と岩のあいだにうつ伏せになって浮いていた。
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アフガンやイラクに対する攻撃を非難している私も、以前は、やはりある程度は仕方がないのだろうかと思っていたことがある。 砂漠や革命や異なる宗教の国、つまり、あまりご縁のない遠い国で、運の悪い人たちがある程度の人数犠牲になるのは仕方のないことなのだろうか、と。しかし911とアフガン空爆のあとでは考えが変わってしまった。
あるいは、つい数十年前、この日本で自分と同じ日本人達が虫けらのように殺されていく様子をみたあとでは、多くの人が同じように考える(仕方ないでは済まないと考える)のではないだろうか。なぜならどう見ても、人間が一方的に戦争で(武器で)殺されるとき、それが何処の国の人間であろうと受けるダメージは一緒なのだ。恐怖、痛み、そして一瞬にして木偶人形となり果てること。
このフィルムでは日本人が殺されているが、同じ事をかつて日本人も、中国や朝鮮でやった。殺すのは悪いことだ。しかし、悪いことをした結果から学ばないのはもっと悪い。未だに(というよりもますます)多くの国で多くの一般市民が戦争の犠牲になっていることをどう受け取ればいいのだろうか。運の悪いひともいる、で、済む問題ではない。
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今回のフィルムが衝撃的だったのは、それが色鮮やかなカラーフィルムだったこと。劣化し、退色したフィルムにデジタル処理を施して色を再現したそうだ。
戦時のフィルムを観るのはこれが初めてではないが、どれも白黒の荒れた画面の物ばかりでまさに古色蒼然。映像にとどめられた事実を確認するのと同時に「でもこれは過去のこと」という印象も受け取っていたのだと思う。 それが、色彩を取り戻したとたんに生々しい現実となってよみがえってきた。その衝撃は、想像をはるかに上回るものだった。
このフィルムはもともと米国のカメラマンが国からの依頼を受けて記録用に撮影したものだった。それが発掘され、国際共同製作で番組が作られた。アメリカの国立公文書館など多くの機関から資料提供などの協力も受けている。 つまり、ここでジャーナリズムが訴えているのは、過去に残虐行為を行った国の告発ではない。貴くて、重たい映像。
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