独り言
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2006年12月19日(火) 『オレンジジュース』シーンC

前のシーンから



その時私は交番の外に気配を感じ直ぐ様反応する

見上げた視界に映りこんだのは、先程私の行動に戸惑い、不審を抱いたコンビニ店員だった



彼は文字通り絶句し、口をパクつかせながら、今にも腰を抜かしそうな姿勢でうろたえている


私もうろたえた

「俺じゃない…これは俺じゃないんだ!!」



しかしこの現場を100人が目撃したら、その全員が私を犯人だとして疑わないのは明らかだ

…何とかしようとするが

…何とも出来ない


「いいか…良く聞いてくれ……俺じゃない…俺がここに来た時には……多分もう死んでたんだよ…わかるか?」

私には…もはや否定する事以外何も出来なかった

なるべく彼を刺激しない様に、ゆっくりゆっくりと近付きながら、私は何度も否定し続けた




私が交番入口付近に差し掛かった時、彼はいよいよ決死の表情を浮かべ、まるで金縛りを強引に振りほどくかの様に手をばたつかせながら走りだした


衝動というより本能に近い意志に従い、私は後を追い掛け、直ぐ様襟首をつかみ、力任せに吊り上げ、落とし、真暗な路地裏へと引きずりこみ…恐怖で声もあげられずにいるいたいけな命を、善良な命を、罪の無い命を、何度も…何度も…殴り付けた



彼の目蓋が腫れあがれば、私の拳が腫れあがる

彼の唇から飛び散った血液が、私の拳から飛び散った血液と混ざりあう

彼の意識が遠退く程に、私の拳は感覚を失う



夢中だった

ただただ…夢中だった




気が付けば彼はもうすでにこの世の者ではなく、その上にまたがる私は、あの青春とは程遠い…完全なる悪に成り代わっていた




私は、口元に飛び散った彼…か私の血液をシャツの袖口で拭いながら、決して答えの出ない質問を繰り返す


「どうしてこんな事に…」




あの時抱いた崇高な目的は何処へ行った?

あの清々しい感覚は幻だったのか?

生きるとは…どういう事だ?



生きるとは…


警官殺害

拳銃強奪

そして自害…



…何一つ上手くいかない



上手くいかないばかりか、罪の無い命を己の保身の為だけに殺した

とてもとてもつまらない…私なんかの保身の為だけに





「どうしてこんな事に…」




「…逃げよう」


私は彼の遺体からシャツを剥ぎ取り、それで顔や手に飛び散った血液を可能な限り拭って捨てた

代わりに彼には、4つか5つ前の女が何かの記念日にプレゼントしてくれたと思われる、血まみれの黒いレザージャケットを被せた


そして、通りに人気が無い事を慎重に確認すると、私は路地裏から飛び出し、決して振り返らず、必死で走り続けた


12月の風が頬を切り付ける

腫れあがった拳は次第に感覚を取り戻し、極めて純度の高い痛みを呼び覚ます




涙が溢れた




この涙は、いったい誰の為のものだろう?

殺されていた警官

殺されてしまったコンビニ店員

殺してしまった私自身

今日から私は人殺し

明日には私も世捨て人

拳が痛い

あぁ、なんと哀れな私自身


この涙は…私の為のものらしい



私自身を慰め、走り、謝り、何故か怒り、いつのまにか…何も考えられなくなった




そして辿り着いたのは自宅の前

駅前のコンビニエンスストアーから走ってたった5分の部屋の前



扉を前にし、意外にも冷静を取り戻していた私は、こんな誓いを立てる

「一度開けて中に入ったらそこにあるのは終わりだけで、もう二度と、生きてこの扉を開ける事は許されない」


そして深く息をつくと、鍵を差し込み左に回す





……鍵が開いている





単に閉め忘れて出たのかと思い扉を開けると…今度は電気が点いている

単に消し忘れて出たのかと思い中に入ると…




…そこには何時間か前この部屋に別れを告げたはずの女が居た




私が「何故居る?」と問いただすより早く女は「おかえり」と言い、私の元へと駆けてきた



その手にオレンジジュースの入ったビニール袋をぶら下げて



「駅前のコンビニに行ったんだけど…あなたの好きなメーカーのやつが無くて」

「それでね…隣の駅前のコンビニで買ってきたの」

「…あなたも駅前のコンビニに行ってたの?」




私は女の質問には答えず、可能な限り冷めた声色で「何故居る?」と言い、女が答えるより早く「出ていけ」と言った


女は私の質問には答えず、私の命令に対し「出ていけって言われたって…」とつぶやく


私は女の手からビニール袋をむしり取り、部屋の中程へと進むと、女に背を向けたまま、もう一度さっきとなるべく違わぬ声色で「出ていけ」と言った


女は黙り、その場に座り込む

私は背中で女を感じながら大袈裟に腰を下ろすと、ビニール袋の中を覗き込んだ

中身は、確かに私が最もひいきにするメーカーのオレンジジュース

女が行ったという隣駅のコンビニエンスストアーは、男の足で歩いても片道40分以上かかると思われる程に、とても離れた所にあった



「それで…いいんだよね?」



「…あぁ」




そこで私はもう一度質問する

「何故居る?」



しばらくの沈黙の後、女は「…ここが家だから」と答えた



「そうか…じゃあさっきのさよならは何だったんだ?」



女は大きく溜息をつき「…あなたの事がわからない」と言った


私は「それはお互い様だ」と心の中で吐き捨てながら「それじゃ答えになっていない」と言い返した


すると女は急に取り乱し、涙声になりながらこう言った


「あなたの事がわからない!!」

「…わからないの」



「あなたの事をもっとちゃんと知りたいと思った…でもあなたはいつも私を煙に巻いて遠避けるだけ…」



「一緒に暮らしているのに…あなたも…私も…いつも独りぼっち」


「…それが辛かった」




「だから逃げ出して本当に独りになった方がずっと楽なんじゃないかと思って…私は…」


「…でも…やっぱり…出来…なかった」




女は涙に溺れつつあったが、引きつる呼吸とこぼれる嗚咽を必死で堪えながら、最後に

「愛してるって…言わ…れるのが……辛かった」

と言い、やがて完全に涙の底へと沈んでいく




正直…驚いていた

この女が優秀なのか?

それともやはり詭弁は何処までいっても詭弁でしかないのか…


そんな事を考えている最中にも、女の感情は次々と涙になって溢れてくる様で

「その涙はいったい誰の為のものだ?」

と聞こうとしたが、その答えはもう出ているので止めた




私は女が落ち着きを取り戻すまでしばらく待ち、何とか会話が成り立ちそうになると、変わらず女に背を向けたままこれで最後と決めて、ある質問をした





「なぁ…」




「愛って…なんだ?」




女は最後の涙を拭い、息を整えると、うつむいたまま一つ咳払いをする

そして、私のすぐ後ろへと歩み寄り、控えめに腰を下ろすと、まだ尾を引きずる涙声のまま話し始めた


「わからない…人が言う愛って物が…どんなのかは」

「でも…私の中にあるこの想いはきっと愛に違いないって信じてるし……それは間違いなくあなたに向けられたもの…だと思うの」



「なんであなたをこんなに愛しく想うかは…正直わからない」




「出会ってまだたった1ヵ月だけど…それは関係ないの」

「だって私は…前に3年近く付き合ってた人には抱けなかった感情を…こうしてあなたに…抱けてるんだから」




「でも…それが何故かは…わからない」




「でも…わかるの」

「あなたとは決して離れられないって…離れちゃいけないって」




「あなたの為だったら何だって出来る」


「あなたの為だったら…別の私になったって構わない」




「あなたを愛してるし…あなたに愛されたい」



そう言うと、女はまた少し私との距離を縮め、臆病に震える小さな胸で、かたくなに冷たい大きな背中を、そっと包み込んだ



それは、ただ柔らかく

それは、ただ温かく


母親が赤子にする様に

ただ、そっと


ただ、そっと…





「さっき人を殺してきたよ」

私がそう言っても、女は変わらず私を抱き締め続ける


「ほら…血がついてる」

シャツの袖口に染み込んで黒く変色した彼…か私の血液

それを見せても女は少しも動じなかった




「何故だ?」

そう言おうとしたが…言葉にならない



この女が言う愛とはなんだ?

…わからない




私はもう一度シャツの袖口を示し

「ほら…よく見ろよ…ほらここにも……俺は人を殺したんだよ」



すると女は…何故か私の頬にキスをした

そして、耳では無く、心に語り掛ける様な、とてもとても小さな声で



「人殺しでも構わない」

と言った





「何故だ…」

今一度心の中で呟いた私の声が、まるで聞こえていたかの様に女は


「あなたを愛してるから」

と言った




「あなたの罪さえも愛しい」と





何故だ?

この女が言う愛とはなんだ?




そして私はただ…それが何ものなのかを知りたくなった





「主人公は必ず死ぬべきである」



今夜ここで死ぬはずだったのに…

もう少し生きてみようと思った


生きて、この女が言う愛とやらを、触れる事さえ叶わぬ牢獄に幽閉し、そしてその真意を確かめてやろうと思った





私は携帯電話を手に取り、犯した罪を伝え、刑に服したいと申し出る




その間も女は変わらず私を抱き締め続けた






それから1年後

私は、高過ぎる塀に囲まれた運動場の隅で、四角く縁取られた青空を見上げる事だけを生き甲斐とせざるをえない生活を…余儀なくされている





ラストシーンへ


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