独り言
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2006年07月02日(日) |
テリーデイズというBandについて・その25 |
実は亜龍はこのリバティー・ポイントの存在をずっとずっと以前から知っており彼の日記を幼少期までさかのぼってみると(亜龍は父親を亡くした小等部1回生の頃から精神科医の指示により日記を書き始めており所々欠落している年代はあるがその総冊数は確認が取れているものだけでも40冊を超える)1989年小等部3回生の時母親に連れられリバティー・ポイント北京支部創立直後の一般説明会に足を運んでいたという事実が判明する
その日の記述には 「今日はお母さんと一緒にお出かけた ひさしぶりの太陽ですごくあたたくて気持ちが良いのだけれどもお母さんは僕が大きな大声を出すとすごく困った顔をするのですお母さんといっしょの時には大声を出さないようにしよう そうしよう 病院に行って心のお薬をもらてそれからリバティー・ポイントというリバティー・ポイントという所に行ってきまし リバティー=自由 ポイント=点 おじさんやおばさんがいてたくさんむずかしい話をしてるから僕はたいくつだったけれどもお母さんといっしょだったから全部楽しかったよ 帰りにヒゲのおじさんからアメをもらた ミルク味のアメ 本当はレモン味のが良かったけれどもがまんした 『自由』ってなんだろう? 聞いたことあるけどなんだろう? じてんを見てみたけれどもむずかしくて良くわからないわからない 明日お母さんに聞いてみよう それから先生にも そうしよう」 と書いてありそこから約1ヵ月間彼はこの『自由』という言葉の真意をつかむ為あらゆる大人達に質問を繰り返しそしてその内容を当時の彼なりに克明に書き記している ちなみに当時の彼が最終的に導き出した結論は 「自由=セイシュウ川に浮かぶ空き缶←レモン味」 だと別の日の日記に記述されている
こういった日記からもわかる様にそれまで亜龍は『自由』という言葉の意味すら知らなかった訳でありここでのリバティー・ポイントとの出会いが無ければその後の『表現闘争』やアーティストとしての『李亜龍』も存在しなかったのではないかと思われ人知を無視し時を越えて結ばれた因果関係を感じずにはいられなくなってくる
そして更に日記を検索していくと1986年14歳になった亜龍はここでまたしてもリバティー・ポイントと接点を持っている しかしこの時は一人でしかもリバティー・ポイントの会員限定で行われた懇親会会場に裏口から潜り込むという行動を取っている
その日の日記には 「自由と大きく書かれた看板にぶら下がっているお前はもはや自由とは呼べない 自由の名の下に集い統一された思想に寄り掛かるお前はすでに自由とは無縁 本当の自由とは言葉や形じゃ表現できないもの いや自由だけじゃない 全ての物は無の上に塗りたくられた安物のレクリエーション 自由点を探して死ぬまでそのクソッタレな使命感に溺れてりゃいい リバティー・ポイント万歳!! さぁご一緒にどうぞ」 という否定的な記述を残している
しかしその頃からの亜龍の友人に話を聞くと 「アルはリバティー・ポイントに入会しようかどうしようかってマジで悩んでたよ 『一緒に説明会に行こう』って誘われた事もあったし …でもリバティー・ポイントに入るには入会金が必要だったんだ そんな大した額じゃないぜ 今時だったらガキでも軽く払えちまう位のちんけなもんさ …でもアルにはそれを払うだけの金さえ無かったんだよ」 という事で亜龍の日記の記述は本心を誤魔化す為の天の邪鬼的な発想によるものと思われ本当の所は裏口から不法侵入するというリスクを犯してでも近づきたいある種憧れにも似た感情を抱いていたのではないだろうか
とにもかくにもテリーデイズの3人はこのケビンの申し出を快く引き受け彼等は初めてスネークストリートを抜け出しリバティー・ポイントの本部がある上海へと赴く事になる
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