独り言
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2006年06月30日(金) |
テリーデイズというBandについて・その24 |
こういった周囲の変化に関する情報は当然彼等の耳にも届く事となり自分達を置いてどんどん一人歩きしていく音源とその評判に若干戸惑いを感じてはいたもののレコード会社等の組織力やコマーシャル力を用いずとても純粋な力強さだけで自分達の音楽が人々の中に浸透していった事に対する喜びや充実感は営利的な結果が一切伴っていない事等どうでも良くしてしまう程に大きなものだった
スージー・キューは街中を歩いている時にゲームセンターから「Like the elephant」が流れてきた事にひどく興奮したという 実はジョージはあの「夜音会」を毎回欠かさず聴いていたという熱心なリスナーであり大好きなパーソナリティがテリーデイズの名を口にしたのを初めて聞いた時「まるで頭をハンマーで殴られた様な衝撃を受けた」と言っている そして亜龍はというと…相も変わらず無関心といった態度を保ち続けテリーデイズの存在が大きくなるに連れて高揚していくスージー・キューとジョージに対し 「ただお前等が羨ましいよ」 と皮肉めいた言葉を吐き捨てる様に言ったという
しかしこの頃の亜龍の日記を見てみると 「俺は世界にひざまづいたりしない 世界が俺にひざまづけばいい」や 「街角にぶら下がった玩具になるのはゴメンだが…まぁそれも多少なら悪くはない」 等の様なテリーデイズの躍進に対して肯定的とも受け取れる記述が目立ち彼がスージー・キューやジョージに対して吐き捨てたあの言葉は彼の本心では無かったのではないだろうかと考えられる
そうこうしている間にもテリーデイズの音源は更に多方面へと飛び火していき初めて音源の複製が作られた日の約2ヵ月後にはすでに北京から溢れその数はもはや確認のしようが無い程に増大していた
そして1990年も終わりに差し掛かった頃テリーデイズに初めて外部からのライブオファーが舞い込むのである
1990年12月
そのオファーを申し出たのは在中アメリカ人で中国各主要都市に支部を持つ人権擁護団体『リバティー・ポイント』の創設者である『ケビン・ドナルド・カークウッド』という人物であった
ケビンは元々欧米諸国に比べるとかなり後退していた中国医療界の発展の為に中国政府によって召喚された医師であり1970年の時点でその任を全うしアメリカへ一度帰国している しかし中国に残していた恋人が忘れられず再度渡中し結婚 その後上海郊外の『桔華総合病院』で外科医として働く傍ら最初の渡中直後から感じていたこの時代に不釣り合いな中国の表現や言論に対する厳しい規制に違和感を覚え1973年人権擁護団体『リバティー・ポイント』を設立している この団体の活動は亜龍が抱くある種憎しみめいた感情に起因するものとは異なる良い意味で非常にアメリカ的なスタンスを持っており友好的かつ的確に自由というものの利を説き続けてきた為中国国内に於いても中々の支持を得ており時には国立大学の講演会に招かれる事もある程であった
どういった経緯でケビンがテリーデイズの存在を知ったのかは定かで無いがケビン曰く 「彼等の音楽には既成概念に捉われない自由奔放さと何かを突き破ろうとする力強いエネルギーを感じる そして何よりこの閉鎖的な国に在りながら他国の言語を用いて何かを表現しようとするその姿勢に強く共感を覚えた」という事で彼は2月25日に行われるリバティー・ポイントの総会に彼等を招きそこでライブをして欲しいと願い出たのだ
そしてこの願い出に誰よりも強く反応を示したのは以外にもあの亜龍であったという
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