独り言
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2006年05月03日(水) |
テリーデイズというBandについて・その11 |
1990年4月5日
テリーデイズの三人が初めて揃ったこの日
亜龍の日記を見てみるとそこには乱雑な散文の様なものが約十ページに渡り記されている
その文章を適当に抜粋すると
「表現に対する欲望が高まり過ぎて破裂寸前の右脳が波打ち頭皮をダブつかせやがる」
「これでやっと終われる 全て終わりにするんだ」
「俺は日本語を話す中国国籍のチーズ臭いオカマ野郎」
「母さんがくれた日本語は何処まで行っても美しい」
「イメージが押し寄せて俺の理性をさらっていく」
「自由な表現の場を奪う事を暴力と呼ばずして何と呼ぶ」
「誰にも邪魔させない」
等が挙げられる そして事ある毎に 「クソッタレ」 という言葉が書かれておりその数はゆうに百を越える
その長きに渡る精神的混沌を吐き出した文章の中でも一際印象深い箇所をここに挙げる しかしその内容も他同様混乱を隠しきれないものとなっているがその端々から亜龍が常に抱えていた『芸術の領域に属する音楽』に対する困惑を窺い知る事が出来るだろう
「そもそも音楽性等というモノは有って無い様なモノでそんなモノを求めた時点で芸術としての表現は遠退いてしまう
芸術とは常に自由でありそこに一貫した思想や理念は必要無くすなわち真の芸術家とは常に己の作品に対して無関心でなければいけない
真の芸術とは人間が意図的に生むモノでは無く人間を介して自然発生的に生まれくるもので最大の芸術とは『無』に他ならないがそれは余りに遠過ぎて俺の様な凡人はこうして音楽にでも身を寄せて『芸術に触れた様な錯覚』に騙されていた方が幸せに終われるんだ
そこに意味等無い 言葉は常に無力なのだ 日本語は美しい しかし無力なのだ
だから俺は日本語で歌を歌うという行為だけに意味を求める事にしよう
歌詞に意味等無い
このクソッタレに閉鎖的な世界で日本語で何かを表現しようとするその姿勢だけ示していればいい
『表現闘争』というかつての目的だけを求める振りをしていればいい
芸術は余りに遠過ぎる 求めるな 俺は何も求めない 俺は風よりも己に無関心な男
クソッタレ
頭が痛いよ母さん」
そしてこの日の約十ページに渡る日記の最後はこうやって締め括られている
「バンド名は『彼』に敬意を表して『テリーデイズ』と名付けよう
そして俺はその第一歩としてその『仮面の裏側』に想いを馳せる事にしよう」
亜龍が余りに身勝手で最悪な結末を選択したあの日 それは丁度この日記が書かれた日の一年後 1991年4月5日の事だった
その数日後に発見されたこの日記の中で最も謎を含み人々の関心を集めたこの『彼』 永きに渡り数々の物議を醸し出したこの『彼』だがそれを聞いた多くの人間が「最も有力である」と認めざるを得なかった証言が日記発見から約三年後ある一人の男によってもたらされる事となる
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