訪問看護で利用者様から期待されることは、たいがいパンフレットや 手引書にあるような「療養上の世話」「医療処置」「家族支援」なのですが。 その中で利用者さんが高齢である場合、最近は過剰な医療処置への 否定として訪問看護を、と望まれる方も多くなってきた。
その方たち、まず介護者の方の考えでは「延命措置」や「不必要な点滴」「本人の心身に負担をかける検査」「負担をかける通院」「負担をかける入院」は望まないのだと言う。「あくまで自然に逝かせたい」と口を揃えておっしゃる。 本人側の要因では(もう会話もあまりできない方も多いのだが 家族の話によると)昔から「病院が嫌い」「医療にかかるのが嫌い」 ついでに「お医者さんも大嫌い」な人だったりする場合がある。 明治、大正生まれの人だと珍しくない。
ちなみに、通院はともかく入院の何が負担かと思われる方のために 補足しますと、つまり入院のために福祉タクシーや人手を用意し、お金を 用意し、せわしなく本人の周りでばたばたと騒ぐことで本人に負担をかけるという意味合いでこう言われているのである。 入院一つとってみても、自分で動けない家族のために家族だけで 病院に赴くというのはとても大変なことなのでありますよ。救急車での搬送 入院なら、エレベーターのない上階住まいや、病人のADLに応じた自家用車を持ってない人にとって、これほど楽なことはないのだ。 その場合は生体的に緊急でありのんびりとはしていられない ということはあるが。
横道にそれたけど、そういう「余計な医療は望まないが、訪問看護は 利用したい」という方たちにインテークする場合、その中身が実はけっこう 様々なので注意が要るんだなあ。・・・ということが今日の本論でした。
まず、今普通に行われている厚生労働省で許可している看護というものは、紛れもなく西洋医療(なんつー言葉でしょう)の一員であり、日本の医師法で 定められている西洋医療の医者の指示(まあ、実情そのイニシアティブは こちらであることも多いが)の元に、やっているんだよ、ということ。
必要があれば投薬、検査(つまりは往診や病院受診ですね)の判断(あくまで判断の範疇だが)をするし、その考えの元に主治医に報告し指示を出してもらう。バルンを入れたり、採血採尿、抹消からの輸液くらいは「延命を望まない」利用者さんへも、一時的に行わせてもらいたかったりする。
そこで、相手の考える「医療処置」「余計な」「不必要な処置」 「延命処置」が一体何を指すのかを、必ず具体的に確認することが必要なのだ。 当たり前のようだけど、これはホントに大事。だから、どうかなあ、と いつも考えて悩む。古くて新しい問題の数々です。
以下。
リハは医療行為かな?経管栄養はどうかな?口から飲めなくなった人が おくすりも胃瘻から入れることになった途端、ヘルパーさんは 「私たち医療行為はできないので今度からおくすり「だけ」家族の人がやってください」
おいおい。って思います。
これはヘルパーステーションにとっては仕方ないことという 理解はできますわたしは。でも、利用している人の立場にすると もう少し何とかならないのか、って思わざるを得ません。 保清はだいたい「生活行為」と考える人が多いけど、排泄はどうかな? おむつ交換は医療じゃないけど、摘便はどうかな?ヘルパーさんにとっては「医療行為」なのでやってはだめですよね、じゃあ気管カニューレから ひっきりなしにサクションが必要な人にとって、サクションはどうかな? ここは法を緩和してくれないとホントに困りますよね! ヘルパーさんはだめだけど、家族に許されていることはたくさんあります。
わたしがいつも考えるのは、お食事を作って他人に食べさせることだって、本当は調理師免許があって、衛生の知識があってこそ、初めてお金をとって 人に安全に食べさせるという保障ができるのだと思うのですよ。 でもヘルパーさんは・・・・?今のヘルパー養成の教育内容に そこん所って・・・・ないですよね。 お年寄り、病気の人に食べさせるのですよ。健康な一般の人に食べさせる 食事よりも、衛生面、安全面ではもっともっと厳格な教育が、 必要なのではないですか?
で、わたしたち訪問看護は・・・・生活行為に深くかかわりながらも・・・西洋医学の手先なんですよ。あくまで。だから、そのことを、充分相手とすり合わせることが、大事。ざんす。
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