けんたのプロレス&演芸論
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2002年02月14日(木) 第3回 レスラー論 ラッシャー木村

 プロレスは「見世物」である。いやこれは、真剣勝負だの八百長だのというような議論にからむことではなく、ただ単に「客から金をとって見せるもの」である、ということだ。この点において、プロレスも総合格闘技もK−1も同じである。僕はプロレスが八百長だのガチだの、そんなことには興味はない。むしろ、今あげたような「見世物」で完全真剣勝負のものってあるんだろうか、と思っている。客がいれば客を意識するのが当然だろう。野球だって、客がいなけりゃもっと敬遠が多くなるだろう。相撲だって、客がいなけりゃ横綱・大関がもっと立会いの変化を使うはずだ。客がいるから、客のニーズにこたえる(あるいはいい意味で「裏切る」)。「プロ」ならば当然のことだ。

 昨今の「格闘技っぽいプロレス」は僕は好きではない。それは、これまで敢えて触れずにきた領域に足を踏み入れたからではなく、それがあまりにも中途半端だからだ。「ガチ」なるものを求めるファンが多いのは理解できる。しかし昨今のプロレスが、それらファンに応えようとしているのはわかるが、応えきれてないのだ。プロレスファンは、一方で、「観客論」を重く見るプロレスを望んでいる。それらに対しても、今の風潮は逆らっているように見える。これは堕落なのだろうか、それとも新時代への「産みの苦しみ」なのだろうか。

 話がそれた。ラッシャー木村選手(以下敬称略)である。彼の若かりしころを知らない。僕が知っているのは「はぐれ国際軍団」として大ヒールだったころからだ。「歴史」で知った「金網デスマッチの鬼」、「はぐれ国際軍団」「第一次UWF」「馬場との抗争」「ファミリー軍団」、このちぐはぐな流れに、彼の波乱のレスラー人生を思い浮かべても良いかもしれない。

 しかし、僕が思うに、これらの流れには一本筋が通っている。彼はただ「プロレスラー」でありつづけただけではないかと。金網にしても、斜陽の国際プロレスを救う「最後の見せ方」だったろうし、軍団にいたっては、当時求められていた「猪木に対する絶対的なヒール」として最高の成果をあげた。そして今に続く、「ファミリー軍団」。今のラッシャー木村の年齢・肉体からして、これだけ「見せる」ことができるのは特筆していい。中途半端になっている「半格闘技レスラー」に比べれば、はるかにいい「仕事」をしている。

 寡黙な人、のイメージがある。テレビ番組でゲスト出演しても、黙ってニコニコしている。喋れば不器用、しかし求められればマイクを握る。客を相手にする、プロレスラーとして、その姿勢はもっともっと学ばれていい。


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