沢の螢

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さあ、東京脱出!
2008年07月29日(火)

信州行きを、あさって31日に決めた。

毎年、7月の梅雨明けから、脱出を考えているのだが、社会の一線から身を引いたはずの私達でも、 何かと浮き世の義理があり、「暑い、暑い」と言いながら、今まで極暑の東京に 居残っていた。
親きょうだい、友人知人、参加サークル、勉強の場など、わずかな社会との接点が、みな、東京及びその周辺に集まっているため、致し方ない。
結局、一番暑い時期に、こうして居座ってしまった。
行くとすぐに8月。
8月終わり頃まで滞在したいが、間に2回ほど、帰ってこなければならない用事がある。
これも、元気で生きている証拠だから、有りがたいと思わねばならない。

先週22日。
お盆には遅れたが、実家の墓参りを1人でしてきた。
西武新宿線小平。
バスを乗り継いで行くが、家から1時間ちょっとで着いた。
夫に車で連れて行って貰っても、渋滞すればそのくらいかかる。
駅を降りると、すぐ霊園がある。
父の墓は、霊園内を徒歩で15分以上歩かねばならないが、季節の良いときには、木の下を歩くので、散歩代わりになる。
この日は暑かったので、日傘を差し、花と水桶を持ち、墓前につくまでが遠く感じられたが、お盆の終わった後の静けさで、暑さもそれほど苦痛ではなかった。

ちょうど昼時。
墓の掃除の前に、途中で買ってきたサンドイッチと、冷たい飲み物で、肌の熱気を和らげる。
元気になったところで、墓を掃除、花と線香を手向けた。
夫が一緒だと、帰りを急かされるが、1人の時は、自在に出来るのがいい。
青天井で、日差しが強いので、長居はキツイ。
線香が燃え尽きるのを待ち、片づけて霊園を後にした。
そのまま母のところに行き、その報告をした。

昨日私はヴォイストレーニング、午後から先生宅へ。
前回よりは声が出ていると言われ、気をよくした。
もう一人のソプラノが、引き続いて個人レッスンを受けるので、見学していたら、女声2重唱をやりたいという。
そこで急遽、初見で重唱に参加、二重唱も見て貰ってトクをした。
フランクの歌。
題名を忘れたが、後で、コピー楽譜を貰うことになっている。
午前中、ボランティアの会合があったのだが、午後からのヴォイス・トレーニングに神経が行っていて、そちらを忘れてしまった。
こちらの活動も、8月は休む旨、伝えてある。

連れ合いの方は、きのう健康診断。
嚢肺が増えているので、いずれCT検査が必要だという。
若い頃ヘビースモーカーだったので、それが原因らしい。
今日は、夕方から、いくつか有る「○○蕎麦の会」へ行くことになっている。
それで東京での行事は終わりだとか。

明日、私は連句会、続いて夜、合唱の練習。
見学者が二人来るらしいので、みんなで良いところを見せなければならない。
ブラジル公演以来、正指揮者は休養中で、7月、8月の4回ほどは、ほかの先生が代行している。
旅行の疲れで、声を痛めた人もいるし、通常の練習が戻るのは、旧盆明けになりそうだ。

明日の合唱で、一応、東京での用事は終わりである。
今日は、必要な物を車に詰め込み、31には、冷蔵庫を片づけて、出発である。
パソコン一台持っていけば、世の中とは繋がる。
今興行中の分、8月開始の分含め、ネット連句三つ。
夏の連句は、どうも、間延びしてしまうが、信州発信で、今度は、少し引き締まった気分で、出来そうだ。               (12:10)


正月三日
2007年01月03日(水)

毎年、大晦日から来ることになっていた息子夫婦が、年末から外国に行ってしまったので、夫と私だけの静かな正月となった。
1日は墓参り。
昨日は、12時間ドラマ「忠臣蔵」を斜め見しながら、ネットの連句や、サイトの更新などで、過ぎてしまった。
年内の掃除も中途半端のままになっているし、おせち料理も、いつも嫁さんに頼っていたので、今更、作る気力も起こらず、亭主どのも、「酒だけあればいいよ」というので、お言葉に甘えて怠けてしまった。

昔はおせちが最大のご馳走だったのだが、お餅も、年中スーパで買える時代になって、有り難みもなくなってしまった。
ひと頃までは、私もせっせとおせち料理を作っていた。
実家では、母が正月に来る客迎えに、いつも忙しくしていたので、そんなものだと思っていた。
一日は、父の職場の客が、まず年始参りに来る。
母は客の接待に追われ、私達子どもは、火鉢を囲んで、お酒の燗番をしたり、長女の私は、弟、妹の食事の面倒を見たりした。
二日、三日は、親戚が次々来る。
家族水入らずの正月というのは、まず無かった。
正月というものが、生活の中での大きな行事だった時代である。
子どもが成長し、私を筆頭に、次々親元から巣立っていくと、今度は、親の家に、みんなが集まるようになった。
父がリタイアし、お客の数も少なくなり、母も自分の家での集まりに、疲れを覚えるようになると、今度は、私の家に、集まるようになった。
暮れに、沢山の材料を買い込み、一通りの料理は作り、家の中もきれいにし、正月の準備をした。

私と夫は、長男長女なので、両方の親、きょうだい、その子どもたちまでが我が家に集まり、一時は30人くらい集まったことがあったと思う。
私の作る物だけでなく、みんなの持ち寄った料理がテーブルに並び、賑やかな笑い声が、途絶えることがなかった。
6,7年前から、正月に大勢が集まることが、だんだんむずかしくなった。
それぞれの家族があり、親族よりも、外との付き合いが増え、生活上の変化がそれぞれにあり、親の老化も進んだからである。
最近は、義弟の家族の方が人数が多くなったので、息子夫婦と共に、そちらに寄せて貰うようになった。
今年は、義弟に初孫が生まれて忙しく、息子夫婦も居ないので、正月の集まりは見送ることになった。
立春を過ぎたら、私の喪も明けるので、赤ちゃんの披露かたがた、集まることになるだろう。 11:27


歳旦三つ物
2007年01月01日(月)

喪中でも、25枚ほどの年賀状が来た。
すでに、目上の人、久しく会わぬ人には、「年賀欠礼」の挨拶状を送ってある。
その人たちからは来ないのは当然だが、中には、挨拶状を送ったのに、例年のように、年賀状をくれた人もいる。
しかし、生前の故人のゆかりの人を除けば、他人の喪中など、忘れてしまっても、仕方がない。
連れ合いとか、子どもなら、喪中は本当の喪中だが、私の父のように充分長生きして、天寿を全うしたなら、家族、近親者以外は、忘れてもいいのだ。
年賀欠礼というのは、こちらからは出しませんと言うことなのだから。
「聞いていたのにうっかり出しちゃって・・」と、メールや電話で知らせてくれた人が3人居るが、つい最近会って、「私、今回は、年賀状出せないのよ」と話したばかりなのに、毛筆の丁寧な年賀状をくれた人もいる。
特に連句関係者は、おおらかというか、あまり緻密でない人が多いので、おかげで、「歳旦三つ物」を愉しませて貰った。
私はこれが苦手で、連句関係者宛にも、普通の年賀状を出すが、送ってくる連句関係者は、ほぼ例外なく、三つ物を書いてある。
「葉書に収まりがいいし、ほかの事書かずに済むから」という人が多い。
今年はイノシシの年。
それに今年の宮中歌会始のお題「月」を入れて、スタンダードに作られた物を披露させて貰う。

引き緊むる三筋の絃や家の春    M
 獅子の楽もて祝ふ新年      M
山笑ふはんなり月を頂いて     M

私より一世代若い人の物はまた違う。

初東風に裳裾たなびく摩利支天   T
 幼の手毬月に弾みぬ       T
ミルクティ銀のスプンでかき混ぜて T 20:45


大晦日
2006年12月31日(日)

息子から夫宛に、「ブログ書いてるから見てよ」とメールがあった。
息子夫婦は、東京の下町に住んでいる。
40歳になったが、子どもは居ない。
忙しく、半年に一度くらいしか顔を合わせないが、この正月は、キャンセル待ちしていたハワイ旅行に行けることになり、今日の飛行機で発つはずである。
息子は、一人っ子だから、マザコンなどと言われないように、昔から、母親の私には、意識的に距離を取っているが、父親には、自然なスタンスで付き合っている。
だから、電話もメールも、私は夫から内容を間接的に知らせて貰うだけである。
ブログを見ると、今月になって開設したホヤホヤで、毎日、自分で撮った写真を載せ、そこにエッセイ風の文章を添えてある。
「今晩は(こんにちは)皆さん」で始まる文章は、その日その日に感じたことや、思ったことの平易な文章ばかりだが、世の中の動きも捉えて、率直な感想も入っており、我が息子ながら、なかなかいい線を行ってるなと感心した。
文体はですます調で、柔らかく、上から物を言うような調子もない。
ブログランキングに参加しているというので、開けるたびに、クリックしている。
「さすが私の息子だわ」と一人、喜んでいる。
こういうのを親バカというのだろうが、滅多にこんなこと書かないんだもの、たまには、許して貰いたい。

さあ、あと一日で2006年も終わり。
昨日は母に電話し、妹の家で年越しするというので安心。今、ケア付きマンションに住んでいて、正月も、そこで過ごすことになっていたが、やはり心細かったと見える。
日頃近くに住む妹が、ちょくちょく様子を見に行っており、母とも一番気が合っている。
5月に父が亡くなり、気弱になっているが、93歳でも、私達には、まだ母親でいたい母。
「風邪を引かないように、気を付けてね」という言葉が返ってきた。

この数日、あるネットサイトで、実に腹立たしい、不快なことが起こっていたが、騒ぎを起こした本人が、トーンダウンして、表面的には静まった。
誰とも特定できない人を加害者に仕立て、自分が被害者であると訴え、「追放」「排除」などの言葉を使い、サイト全体の力をバックに、怨念の対象である相手を、引きずり出し、人民裁判にでも掛けかねない勢いだったが、そんなことが、出来るわけがない。
「そういう事実は、存在しません」と、まずある人が言ったが、収まらず、今度はその人を相手に、攻撃を仕掛ける事態になった。
さすがに、「加害者」の名前まで出さなかったのは、本人の訴える被害状況がはっきりせず、いつ、どういう状況で起こったのか、曖昧なので、そんな恣意的なことで、迂闊に、名指しで攻撃すれば、明らかな誹謗中傷になり、場合によっては、司法の出番となるので、そこはわかっていたのだろう。
相手を特定しないが、対象になった人には、状況判断で自分のことだとわかり、ほかの人にも、わかっている。
だが、名指ししない限り「加害者は私です」と名乗るわけはないし、その相手から、もし「誹謗中傷だ」と抗議されても、自称被害者は、「誰とは言ってません」と逃げることが出来る。
つまり、相手への気遣いと言うよりは、自分の保身のためであり、騒ぎの当人は、こうしたネットの闘い方に馴れているのである。
みんなが黙って、見ていれば、感情の赴くまま、攻撃の言辞を吐きだしたあとは、いずれ、自分で収拾しなければならなくなる。
過去にも、似たことがあり、相手を結果的にその場から追い払ったあとで、人から窘められて、相手に謝り、落着したのだが、今回、また同じ事を蒸し返したのは、そのときの反省も、詫びも、本物ではなく、ただのポーズに過ぎなかったことになる。

そして、さらに騒ぎを拡大したのは、過去の現場には存在しなかった人が、正確な状況のわからぬまま、安易に反応し、「被害者」を救う正義の味方気取りで、旗振りをしたことだった。
ネットで困るのは、騒ぎの当事者はもちろんだが、それよりも、元々、自分が責任を持って収拾するほどの誠意も、度量もないくせに、中途半端に介入して、問題の核心をずらせてしまう人の存在である。
こういうのを「煽り屋」という。
こういう人は、今、実社会で話題になっている現象を、ファッションのように考えて、遅れまいとする意識が働くから、取りあえず、話題に飛びつくのである。
本当に「加害者」が居るのかどうかわからない状況で、もっともらしく「人に危害を加えるのは悪いことです」的な、マニュアル通りの説教を垂れたが、見えない「加害者」を傷つけただけで、解決にはならず、自分が盾になって、「被害者」を守るほどの心意気もないから、次第に形勢が不利になると、いつの間にか逃げてしまった。
取りあえず、時流に乗って、参加してみただけのことなのだろう。

救いは、普段は滅多に登場しないが、物事を深く冷静に見つめる賢者が、サイトに一人いて、騒ぎの本人にきちんと向かい、感情的でなく、理性的に対応したことだ。
自分がターゲットにされているわけではないが、敢えて火中の栗を拾い、その人の間違った点をわかりやすく諭し、その遣り取りのうちに、「被害者」も、気持ちが落ち着き、感情的な物言いも、収まった。
ネットは顔が見えず、じっくり話すことも出来ないが、こういう事態が起こってみて、文面から、ある程度、ネットの向こう側にいる人の人間性も、思慮の深さ、浅さも、うかがい知ることが出来る。

謂われなき加害者にされ、「煽り屋」から、「因果応報」などと非難された人は、最後まで、登場せず、沈黙を守った。
元々、「加害者」などは存在しないのだが、名前を出さなくても、攻撃の対象になっているのが誰かは、過去の状況から特定は出来る。
下手な発言をするより、我関せずを貫く方が賢明である。しかし、これは、かなりつらい事ではあろう。
だから、当事者でもなく、自分の利益にもならないのに、火中の栗を拾って、結果的に救ってくれたサイトの賢者には、どんなに感謝し、こころを救われただろう。
騒ぎを起こした人も、救われたことになる。
このまま暴走が続けば、やがて、「いったい誰のことを言ってるのよ」ということになり、名指しされた人も黙っていないだろうから、「あなた、ホントに被害者なの?」と、疑問を持つ人も出てくるからだ。
もし、その賢人が、深い知恵と人間性をもって、発言しなかったら、かつて品格のあったサイトは、無惨に荒れて、壊滅状態になり、カウンセラーか司法の出番ということになっただろう。
私の居る処じゃないと思いながら、見ていたが、その経過の中で、賢者の宝石のような言葉に触れ、その人がいる限り、やめずにおこうかと、考え直した。
盥のお湯だけでなく、赤ん坊まで流してしまうような愚かさは、無視すればいい。
黙ってみていた人たちの沈黙にも、意味がある。
それを感じたからである。

掃きだめに賢人ひとり年果つる
北風や首振りせはし風見鶏 13:25


雨の植物園
2006年10月01日(日)

午前中はまあまあの天気だったので、ウオーキングを兼ねて、深大寺へ行くことにした。
家から歩いて30分、ちょうどいい距離である。
昼少し前で、曇ってはいたが、雨は降っていなかった。
神代植物公園に行くと、今日は都民の日だからと言うことで、入場料がタダ。
知らずに行って、得をしたことになる。
春は桜などで、花一杯の植物園だが、秋は、花が少ない。
7日から秋の薔薇展があるというので、薔薇園に行ってみた。
ところが、花弁がみな開ききってしまって、花としては、あまり美しくない。
薔薇は、外側の花びらが開き、中央が少しつぼみのようになっているのが、一番きれいだ。
探したが、そういう状態の薔薇は、ほとんど無く、残念だった。
デジカメを持って、張り切っていた亭主殿も、ちょっとがっかりしたらしい。
「被写体がよくないなあ」と言いながら、それでも、色別に、何枚か撮ってきた。
間もなく、雨が降り出したので、蕎麦屋に入る。
新蕎麦の時期。
ザルを一枚ずつ注文。
蕎麦まんじゅうも、一つずつ食べて、帰ることにした。
傘を差しながら、バス停まで歩く。
家に着く頃は、結構な降りになっていた。

夜も更けて、雨戸越しに雨音がしている。
明日も、雨らしい。
亭主殿は、ゴルフの予定をキャンセル、同行者間で電話連絡をしていた。
最近は、みな年のせいか、無理してゴルフ決行という人もいないようだ。
10月1日が、こうして終わる。


「純情きらり」
2006年09月30日(土)

ひと頃まで、習慣のように見ていたNHKの朝ドラ。
子どもや夫を送り出してからこれを見、終わってから家事に取りかかるという、いわば時計代わりの役目をしてくれていた。
亭主がリタイアすると、朝早く起きることもなく、「時計代わり」が必要なくなり、見なくなってしまったが、今回の「純情きらり」は面白く、毎日愉しみに見てきた。
それも、今朝、ヒロインが亡くなるという、今までにあまり無い終わり方で幕を下ろした。

朝ドラというのは、大体が女の一生もの、あるいは、仕事や生き方を描いた一代記。
前者には、「おはなはん」や「おしん」、「澪つくし」があり、最近のものには、後者のタイプが多いようだ。
女性の社会進出が当たり前になると、家庭や男たちの影で尽くす、女の一生ものは、受けないのかも知れない。
いずれにしても、山あり谷ありの起伏の中で、さんざん苦労を重ねたヒロインが、最後はめでたしめでたしでエンディングを迎えるのが定番だが、今回のドラマは異色だった。

大正生まれの女性が主人公。
第二次世界大戦が忍び寄る時代を背景に、スタートした。
当時の庶民の、平均的生活レベルとしては、比較的、豊かな家に生まれ、女学校に行き、ピアノも習う。
母は幼い頃亡くなり、父も、仕事の事故で失う。
そのなかで、きょうだいが力を合わせて、生きていく。
やがて戦争が激しくなり、相愛の婚約者が出征。
婚約者の居ない旧家の味噌屋を手伝ったり、空襲に遭ったり、様々な苦労を重ねる。
戦地で死んだと思っていた婚約者が、思いがけず生きて帰り、結ばれ、味噌屋の女将さんとしての新しい生活が始まる。
子どもも授かり、さあ、めでたしめでたしと言うところで、結核にかかっていることが分かる。
当時は結核は不治の病に近い。
病状の進む中で、子供を産み、やがて命を終える。
最初から見ていた友人が、途中から「次ぎ次ぎ人が死んで、悲惨な話が続くので、もう見たくなくなった」と言っていたが、私は、最後まで、ドラマに付き合い、今日などは、ぼろぼろ泣いてしまった。
朝ドラとしては、暗い結末だなあ、やはり、ヒロインを生かして欲しかったなあと思うが、考えてみると、昭和20年代位までは、こういう形で死ぬ女性は、少なくなかった。
ましてや、男尊女卑の時代、機械化されていなかった女性の家事労働は、今とは比べものにならないくらい、厳しいものだったであろうし、産褥や、過労のために、新しい命と引き替えに、生を終える女性たちも、多かったのだろう。

五月に亡くなった、私の父の生母は、4人の子供を産んだ後、産後の無理と、やはり結核のために、父が2才にならないうちに亡くなっている。
だから父は、生母の顔を知らない。
現在93才になる私の母の生母も、6人の子供を産んだ後、産後の過労で、母が10歳の時に、命を落としている。
「まだ33才だったのに、覚えている母は、まるで老婆みたいよ」と母は言う。
それほどに、家事労働がきつかったと言うことであろう。
ストレプトマイシンが出来てからは、結核は死の病ではなくなったが、栄養状態の悪かった戦後のある時期までは、若い男の人でも、それで命を落とす例が、少なくなかったのではあるまいか。
お産で死ぬと言うことも、今ではほとんど聞かなくなったが、このドラマは、半世紀前までの日本で、ごく普通の女性たちの生き方に見られた、一つの例だとも言える。

ドラマの終焉を見ながら、両親の育った時代、そして、その親たちのことに、ちょっと思いを馳せてみた。


ルーツ
2006年09月19日(火)

市内の某大学公開講座に通い始めて、10年を超えた。
自転車で15分ちょっとの処にあるこの学校は、ルター派の神学校を母体としてできた大学。
歴史は古いのだが、長いこと、私は存在を知らずにいた。
もとは神学科だけだったらしいが、今では、キリスト教学科、社会福祉学科、臨床心理学科と三つの学科を持つ大学になっている。
キリスト教精神が基本にある点は変わらない。
市内にはもう一つ、戦後アメリカ資本が創立したキリスト教系の大学があって、歴史は新しいが、総合大学的な学部を備えていて、規模としてはずっと大きく、知名度が高い。
キリスト教と名乗っていながら、神学科に類する学科はない。
この大学には、30代の中頃、日本語学を学ぶため、研究生として1年間通ったことがあった。
始めに書いた大学の方は、すぐ隣に塀を接して建っていながら、私の目に触れなかったのは、私自身が、宗教的な関心がなかったためもあるが、二つの大学が、長年の間、ほとんど交流がなかったことにも依る。

10年以上前のこと、連れ合いと散歩しながら、第二の母校である大学のそばに行った。
そのとき、大きな大学の傍に、隠れるようにひっそりと建つ二階建ての建物に気づいた。
それが、その後、縁を持つことになった大学だったのだ。
ちょうど春休みで、学生の姿が見えなかったこともあり、はじめは、市の文化施設かと思っていたのだ。
隣には、オリエント関係の美術館もあるので、その一部のようにも思えた。
門は開放してある。
入ってみると、緑に包まれた構内の奥に、いくつかの建物がある。
平屋か二階建ての小さなものである。
大学という雰囲気ではない。
中に入ってみると、玄関脇にチャペルがあり、さらに教務科があり、そこで始めて、大学であることが分かった。
名前は知っていたが、それがそうだとは知らなかったことになる。
「公開講座」のパンフレットがあり、4月からの、講座の案内が書いてある。
市内の図書館にも、置いてあったらしいが、宣伝も何もしないので、それまで知らずにいたのだった。
神学関係、社会福祉関係のいくつかの科目が並び、興味を惹かれた。

次の年、北森嘉蔵氏の講座を、そこではじめて受けた。
世界に名のある先生の存在も、その時始めて知った。
それまで縁の無かった、キリスト教の世界を知るのは、私にとって、大変新鮮で、先生の話も、魅力に溢れていた。
当時すでに80才を超えて、杖をつきながら、通ってこられた先生の講義を、2年間受けた。
受講生は、ほとんどが、北森神学に心酔している人たち。
無宗教に近い私のような受講生は、少なかったようだが、開放的な大学は、誰でも受け入れる雰囲気があり、それをきっかけにして、ほかの講座も受けることになった。
北森先生は、2年後に、退かれ、間もなく亡くなった。
著書「神の痛みの神学」は、私にとって、大変難しく、まだ理解に至っていない。

同じ頃に、比較文化を専門に他大学から移ってきた若手のU先生が、「日本の宗教風土」というテーマで、古事記を取り上げた。
この授業は、伊勢、熱田、奈良、京都の神社、仏閣、宗教的施設や学校を訪ねるという、フィールドトリップ付き。
6日間に渡り、学生やほかの先生方も混じって、15人程の、実り多き、旅となった。
その後、U先生の講義は、毎年受けている。
テーマは変わらないが、講義の内容は毎年違う。
単位を取れば、2度と教室には戻らない学生と違い、社会人受講生は、気に入った先生の授業を、何年でも受けることが出来る。
U先生は、授業に対して、充分準備をし、真摯な態度で臨み、決して手抜きをしない。
1時間半の授業で、退屈だと感じることはほとんど無い。
アメリカ、アジア、アフリカなどにも、積極的に行き、海外でのフィールドワークも、こなしている。
2年前から、市民大学でも、企画講座の中心的存在となって、魅力的なプログラムを、提供している。

今年も、U先生の授業を受けに、その大学に週一回通っている。
「キリスト教と文化」という科目名だが、前期は、「神の痛みの神学」をテキストに、比較宗教学。
今日から始まった後期の授業は、仏教やイスラム教と、キリスト教との比較である。
毎回、授業の始めに、「自分にとってのキリスト教との出会い」というテーマで、受講生が順番に指名され、それぞれの宗教的ルーツを語ることになっている。
前期の時は、私は、父が亡くなったばかりだったので、人の死と弔い方について、自分の思いを話した。
20人程の受講生のうち、現役の学生は5,6人、ほかは社会人である。



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