沢の螢

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久しぶりに
2018年01月17日(水)

アクセスしてみたら、なんと、私の日記、まだ生きていた。


連句久々
2014年03月14日(金)

昨年11月に出たきり、ご無沙汰していた連句座。
この座は、ベテランの先輩女性たちが運営していて、活気のある座なので、誘われたときは他のことに先駆けて出る。
しかし、2月はじめに演奏会を控えていたため、1月の会には欠席した。
それ以後の今日である。
家からは行きやすく、総武線で大久保で降り、徒歩5,6分の所にある俳句文学館の一室。
今日は3階だった。
私は、バスに乗る前に、軽い洋菓子屋さんで、一人一個の数の西洋饅頭を持って行った。
だいたい6人ずつの座が二つ。
片方のメンバーが一人欠席だったが、私の入った座は、男性がひとり入って6人。
捌きは、結社の指導格で、カルチャーセンターでも教えているベテランの女性。
連句はおしゃべりしながら進めるので、それが楽しい。
話題の豊富な先輩たちは、いろいろ教えてくれる。

午前11時から始まり、昼食に出るお弁当を食べたりしながら、午後4時過ぎには終わった。
雨の予想なので、長い傘を持って出たが、邪魔になるくらいだった。
吉祥寺で、パンなど買い、帰宅。
夕食に間に合った。
次回は5月。

4月はじめ、深大寺の連句会がある。
それにも、出席の返事をした。


暑い!
2012年07月19日(木)

のろのろ、うろうろ、じゅくじゅく。


見舞い
2010年12月10日(金)

午後3時、母の所へ。


過去ログ
2010年12月02日(木)

久しぶりにアクセスしてみたら、まだ、この日記が表示されるのに感激。



梅香る
2009年02月03日(火)

昨日、所用があって、午後2時頃、市内の大学構内に在るお宅に行った。
ここは、大学関係者の家が点在する他は、自然のままに近い林である。
鳥の声もするし、今は一面落ち葉だが、先週あたりは水仙の花が咲いていたという。
「梅も4,5日前が一番満開だったんですけどね、まだ、白梅が何本か、花のままですよ」と教えられ、帰りに自転車を廻して、梅の木のある辺りに行った。

パイプオルガンのある教会堂と、図書館の間の広場に、梅林があり、白梅の木が3本ほど、まだ満開状態を保っている。
近くに寄ると、かすかに匂う。
暫く佇んで眺めていたが、急に気温が下がったらしく、軽装の体が冷えてきそうなので、自転車を走らせて、帰宅した。
この時期、気温の変化が多いので、気を付けなければ・・・・。

我が家の庭には、紅梅の木が一本在るが、まだ蕾のままだ。
さっき見た白梅の話をすると、「紅梅の方が遅いのかね」と言った。

そして今日、昼過ぎ、二回の自室に引っ込んだ夫が、「梅が一輪咲いてるよ」と内線で知らせてくれた。
「上から見た方がよく見える」というので、二階に上がり、バルコニーに出てみると、紅梅の花が2輪ほど咲いている。
夫の書斎からは、1輪しか見えなかったらしい。
この家に引っ越してきてから、35年経つが、その時は、まだ、手の届くくらいの高さだった梅が、今は、ハシゴを掛けないと、天辺には届かない。
毎年庭師が来て、剪定しているが、梅の大きさとしては、もう限界に来ていて、形が段々悪くなっている。
花の付きも、昔の方がきれいだった。
もう老木だから、その内に寿命が尽きるのかも知れないが、こうして、時期になると、一輪一輪花を咲かせるので、その健気さが、いとおしい。
「もう、毎年撮るほどではないから、パスするよ」と夫が言うので、いつの写真か忘れたが、深大寺の白梅と、我が家の紅梅も載せておく。20:04


博愛主義とはなんぞや
2009年02月02日(月)

今、ちょっと心に引っかかっている言葉がある。
それをずっと考えていて、夕べは眠れなかった。
最近、ある人から投げかけられた「博愛主義」という言葉。
言った人は、深い意味で使ったのではないと思うが、言葉に関連したことをずっと追っている人だけに、そんなことを軽々しく言うのかと、失望し、何故なのだろうと考えてしまったのだった。

たとえば、私が電車の中で、若い人に席を譲られたとする。
「有り難うございます」と私は言って、素直に、坐ることにしているが、心優しい若い人は、自分のしたことに、ちょっと気恥ずかしそうな表情を見せることがある。
だから、くどくどと礼を繰り返すよりも、さっと空いた席に坐ったほうがいい。
感謝の気持ちは、充分伝わるし、シャイな若い人は、深追いされることが、あまり好きではないからだ。

5年前までは、車内で席を譲られるなどと言うことは、ほとんどなかったが、最近は、やはり、年相応に、そうした優しさに出逢うことがある。
私の行動範囲で、電車に乗るのは、そんなに長い時間ではないから、吊革につかまったままでも、辛いとは思わないが、譲られたときには、素直に感謝して、坐ることにしている。
「いえいえ、まだ、席を譲られるほど、衰えては居ませんよ」なんて、断ったりする人(何故かジジサマが多い)を、たまに見かけるが、そんなことを言ったら、折角譲ってくれた人の厚意を損ねることになり、次ぎに、年寄りが乗ってきたとき、もう、席なんかを譲るもんかと思ってしまうかも知れない。
だから、ワタシ、そんなに年寄りに見えるのかしら、などと無駄な抵抗はせず、素直に受けることだ。
60歳過ぎたら、若者から見れば、立派なジイサンバアサンなのだから。
自分のためだけでなく、他の高齢者への厚意と思って、坐りなさいと、私は、友人、知人にも言っている。
自分より若い人たちから受ける思いやりや、気遣いには、理屈抜きに、感動し、感謝するが、それは、言葉では表現できない、人間としての何かであろう。

前置きが長くなったが、ここからが本題である。
そうやって、若い人から席を譲られ、礼を言って坐ったところに、もし関係ない第三者が、若い人の行為について、「博愛主義だね」みたいな事を言ったとしたら、どうだろう。
譲られた私も、譲った若い人も、あまりいい気持ちがしないのではないだろうか。
若い人は、主義とか何とか言うのでなく、ごく自然な、人間としての気持ちの表れでした事だし、受ける方も、「優しいね、有り難う」という気持ちなのである。

「博愛主義」という言葉には、どこか、まやかしや侮蔑の意味が籠もっている。
施しに近い匂いがあるからである。
白人優位の時代に、文明の進んだ国の白人が、密林に住む原住民に「施し」をして、「博愛」という名の優越感に浸っていた、あの思想である。
「博愛主義でもなければ、アンタみたいなバアサンに席なんか譲るもんか」と言われたような気がするだろう。
それも、譲った当事者でない、傍観者に過ぎない人に、そんなことを言われる理由があるだろうか。
年頃が同じくらいのカップルで、男が女にいろいろな気配りをしているのを、傍で見ていた私が、もし「アンタ、博愛主義ね」と言ったら、やはり、かなり失礼な言い方になるのではないだろうか。
対等な人間関係の中に、博愛主義みたいな物は存在しないだろうから。
片方が、もう片方に対して(それは必ずしも、年齢や性別、肩書などとは関係ない)さり気なく優しさを見せたことを評して、それを「博愛主義」というのであれば、言った人は、そこに、対等な人間関係でない、別の物を見ていることになる。
これは、両方の人たちに対する侮辱であると共に、その人自身の、言葉に対するデリカシイの無さでなくて、何であろう。

「博愛主義」なんて言葉を、安易に使って欲しくない。
少なくとも、自分で考え、行動し、生きている人に対して、使う言葉ではない。
(コメントを戴いたあとですが、文中の不備を一部修正しました)17:13
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広辞苑によると
博愛:ひろく愛すること、平等に愛すること
主義:思想、学説などにおける明確な一つの立場、イズム。特定の制度・体制または態度。常々もっている御権・主張。

と、ありますね。まあ、”愛”といのは本来、心の状態であって意思的なものじゃあない。一方、主義と言うのはかなり意思的な要素が入っている。そういう言葉2つを結び付けているところに、”偽善”が感じられることがある、と言うことかもしれません。
「私は”主義”として、あんたを”愛”す」・・・・なんて言われても、余り嬉しくはないものですが、”主義”と言うのは、しばしば本人の感覚とは必ずしも一致しない行動も強いることがあるので、心中「こんにゃろー」・・・と思っていても博愛主義に基づいてにっこり笑って「あなた、いい人ねぇー、好きよ」なんて言う事もあり得るかもしれません。
・・・・と言うわけで、博愛主義と言う言葉は”博愛”&”主義”と言う本来一致しにくい2つの言葉を無理やりくっつけたような意味分裂的なところのある言葉ですね。
ただこの言葉、効用のあることもアル?
人間が確たる根拠もなくただ習慣的、伝統的に陥っているだけの偏見・・・と言ったものを矯正するのに役に立つことはあるかもしれません。「理屈じゃないけど、xxは嫌だ」と言ったものに「お前さん、そこは”博愛主義”で行かなきゃー」と言いくるめて押し通していると、”xxは嫌だ”と言っていたのものも実際にその馬鹿さ加減に気がついたりすることもアル(・・・かもしれません)。人種差別・・・なんて言う問題にはそういう側面もあったような気がします。
それと、博愛主義と言う言葉のもう一つの効用・・・・・
>「博愛主義でもなければ、アンタみたいなバアサンに席なんか譲るもんか」
・・・と言う雰囲気満々の御人には「あなた、ほんとに”博愛主義”ですねー」とか何とか言いながら、厚かましく譲られた席にはしっかり座っれば、まあ、お互い”博愛”の精神からは程遠いわけですが爺さん婆さんのほうも満更嘘も付かずに丸く収まる・・・・・? yk/2009年02月03日 12:07
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2009年02月03日 13:23 ykさん、コメント有り難うございます。
一般論として、行きずりの「博愛」なら、仰る通りで良かったんですが、この場合は、そう言うことではなかったので・・・。
分かりにくい書き方をして済みません。(読み間違いが起こりそうなところ、一部修正しました)

>「博愛主義でもなければ、アンタみたいなバアサンに席なんか譲るもんか」
・・・と言う雰囲気満々の御人には「あなた、ほんとに”博愛主義”ですねー」とか何とか言いながら、厚かましく譲られた席にはしっかり座っれば、まあ、お互い”博愛”の精神からは程遠いわけですが爺さん婆さんのほうも満更嘘も付かずに丸く収まる・・・・・?

これは、譲った当人が言うなら(言われたことはないですが)許せますし、こちらも図々しく坐るでしょう。
まあ、「敬老精神」くらいの言い方にしておいて欲しいですが、でも、実際に、そんな言い方や雰囲気を感じたことはありません。
そんなことを言うような人は、最初から譲るなんて事もしないでしょう。
席を譲ることは、私が受けた事例とは違う、ひとつの例です。
当事者同士は「博愛主義」の関係ではない(と私は思っている)のに、第三者が、評してそう言ったことに、まあ、カチンと来たと言うことですね。
(余計なこと言わないでよ、あなたも女連れだけど、そっちは博愛主義なの?」と・・・。

辞書にある意味は、その通りでしょうし、使い方によっては効用もあるでしょう。
私が感じたのは、それではなかったと言うことです。
でも、書いたことで、気持ちが晴れましたから、もう良いんです。 Clara




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