風のひとり言
kaze



 ネット世界

よくネットの世界は「バーチャル」と表現される。ネット歴の浅い自分も、そうなんだって思ってきた。
けれども、最近は少し考え方が変わってきたようだ。
勿論、リアルと比べれば限りなくバーチャルなんだろうけど・・・
PCに映し出される文字の列、文章、その表現は、明らかにその相手が考え出した言葉、打ち込んだもの。
だとすれば、そこには間違いなく相手が存在しているわけで、PCを通じているとはいえ、その人の内面を知っていく事になる。
これが、果たしてバーチャルなのだろうか?
本当のバーチャルって、例えばアシモや先行者(知る人ぞ知る)と友達になりたいなど、作られた虚像に想いを馳せる・・・そんなことなんじゃないかな・・・と。
確かにリアルの世界での人との出会い方とは、全く逆の道を辿る世界であるけど、それを「バーチャル」でくくってしまうのは少々乱暴にも思う。
そういう意味では、ネット上での友情や恋愛も成立すると思う。
現在このネット上で知り合った幾人かの友達。リアルな友達同様に、この友達との関係もまた、大切にしていきたいものだ・・・

2001年11月27日(火)



 続・ネット世界

昨日書き忘れた一番大事なこと・・・
ネットは思い込みは禁物だってこと・・・
ネットを始めた頃、知り合った友達が言ってくれた言葉。

そうだね。特に人間関係なんて特にだよね。
言葉を交わしていくうちに、だんだんその人の内面が見えてくるし、
その人が「こんな人かな」って思い込んでしまうこともしばしばあるけど、
でも、イメージを先行させてしまうことは、ある意味危険なことかも知れない。

人の内面なんて一面の筈がなく、結構複雑なものだと思う。
交わされる文字列だけの交流で、その人を全て知ったと思い込んだとしたら、これは危険だよね。
もし、自分を自在に操れる人がいたとすれば、その人を知ることが出来るわけがないから。

人との出会いは、やっぱり、目を見て、話して、相手の声を直接聞き、相手の表情を観察しながら
その人を知っていくもの。自分の五感をフルに活用して判断していくもの。
ネットでは、そんな五感はひとつも使えない・・・
相手の言葉・・・打ち出された文字の背景がわからないと、伝わらないものも沢山ある。
たぶん自分が打ち出している文字も、伝わってないことが多いかもしれない。
顔や姿、声がわからないからこその無責任な発言なども、よく見かける。

だからこそ、思い込みは禁物なんだと思う。
「こんな人かな」「こんな話かな」程度のイメージに留めておいて、
そこから先は次のステップ(電話で声を聞いたり、実際に会ったりして)で更に判断を重ねていければいいんだろうな。


2001年11月28日(水)



 掲示板

最近いきつけ(?)の掲示板。
そこは、悩みを持った人が多く訪れる場所。
当然ながら、悩みは各人様々あって、色々なスレッドが立っている。
それに対して、レスをしていく人は、実に真剣に答えている。

真剣な悩みに、真剣に答える・・・
親友同士の間では、ごく当たり前の状況だが、
大きく違うのは、お互いに見も知らぬ者同士ということ・・・
そこには、相手を思いやる温かさが漂っている。
相手に対して優しい人もいれば、時には辛辣な意見もあるが、
共通するのは、誰も茶化したり、中傷したりしていない。
ふざけたり、無責任な発言があるわけでもない。
みんな真面目に相手のことを考え、自分の考えをぶつけている。

やはり、ネットの人間関係も捨てたもんじゃないとつくづく思う

2001年11月29日(木)



 メッセ

チャットをしている方なら良くご存知のメッセ。
あのメッセ・・・考え方によっては、かなり危険な思い込みを誘発してしまうのではないかと思った。
なんとなくストーカーみたいな気分になってしまうな・・・と考える。

メッセが立つのを待つ・・・(=相手の家の前の電柱の陰で待機)
メッセが立った・・・    (=相手が帰ってきて、部屋に電気がついた)
メッセで呼びかける・・・ (=玄関のドアを叩くもしくは呼び鈴を押す)
メッセで話す・・・     (=ドアを開けた隙にあがりこむ)

例えばその相手とどうしても話したいとき、↑こんな状況になってるよね・・・
あくまでも考えようによってなんだけど。
と、人ごとのように言ってるが、実は前に自分をそう思った(爆)
メッセ立つのをひたすら待ってた自分に、すんごい自己嫌悪になったことがある・・・
それもある意味、大袈裟な「思い込み」なんだけどね。
・・・考えすぎです(自爆)

ところで、メッセって話し掛けるタイミングがすごく難しい・・・
サインインした相手に対して、即、話し掛けるとすごく待ってたみたいで(実はそうなんだけど)
なんか食いついたようで嫌だなと思う。
で、「よし、少なくとも1分は待ってからにしよう・・・」と待つ(←なんで1分なんだろうか??)
(58、57、56、・・・・・6、5、4、・・・・・あっ!!)
相手・・・サインアウト・・・
呆然として沈黙・・・押し寄せる後悔の波・・・こみ上げる涙・・・
なんてことが良くある・・・(爆)
サインアウトまで行かなくても「退席中」って表示が燦然と輝いていれば、
これもまた話し掛けにくいもんで・・・
ほんと、タイミングって難しいよなぁ(苦笑)



2001年11月30日(金)



 逆取材

先日行った撮影現場のひとコマ。現場には小学5年生およそ80人・・・
別にエキストラを雇った訳ではない・・・
必要なのはその中の4人であったのだが・・・

実はこの日を迎える前に、準備段階として
その子たちの学校へ出向き、撮影のお願い・・・
教頭先生は快く了承してくれた・・・ところまでは良かったのだが、
「社会科実習と言うことで、撮影現場を見学させてもらえませんでしょうかね」
こちらとしてもお願いしている手前、無下には出来ず(当たり前)
「いいですよ。どうぞどうぞ」
しかし、先生の言葉にはさらに続きがあった・・・
「撮影が一段落した時間をお借りして、少し質問時間を頂けませんか?」
(え・・・なにそれ・・・そんなこと依頼されたの初めて・・・)
「勿論、質問事項はあらかじめお渡ししておきますし、お時間は取らせませんので」
(まぁ・・・こちらがお願いする立場だったわけだし・・・仕方ないよなぁ)
「わかりました。じゃあそのようなスケジュールを組みますので」
「ありがとうございます。子供たちも喜ぶでしょう」

とまあこんなやり取りで始まった撮影日。
カメラマンの前を通ってはいけないという気遣いから、カメラ後ろに80人の子供たちが続く・・・
なんと不思議な光景(爆)

一段落していよいよ質問タイム。
「プロデューサーとディレクターはどう違うんですか?」
「文章を映像化する場合、どんなところに気をつけるのですか?」
「カメラマンは伝えたい事をどう写すのですか?」
「1つの番組でどのくらい撮影するのですか?」
「使われる時間はどのくらいですか?」
などなど・・・
いやぁ・・・興味があるのはわかるが、ここまで突っ込まれるとは思わなかった。
とりあえず、全てに答え納得させた(無理矢理?(笑))上で解散。
帰り際にその子たちは、口を揃えて
「色々ありがとうございました〜」「お仕事頑張ってくださ〜い」だって!

それにしても・・・随分素直で、礼儀正しい子供たちだった事がものすごく印象に残っている。まだまだ日本の未来も捨てたもんじゃないね(笑)

2001年12月01日(土)



 真友

中学生の時に「真友」という題名で作文を書いた。
親友は沢山いるが、本当に真の友達はどのくらいいるのか・・・
学生時代のその瞬間の友達ではなく、一生付き合っていけるであろう友達。
そんな友達の事を「真友」と表現した。

お互いに意見をぶつけあいながらも互いに向上していける相手。
相手に意見を合わせるのではなく、自分の意見、考えを持ち、
それを臆することなくぶつけてくれる相手。
自分も相手と対するとき、背伸びをせず、無理をせず・・・
等身大の自分をさらけだせる相手。
そして、そんな自分と向かい合ってくれる相手。

中学時にそう思っていた相手とも、時の流れの中で疎遠になった。
現在はたして、そんな真友が何人いるのだろうか?
人と人との出会いは千差万別。
色々なシチュエーションがあり、
なかなかそんな相手との出会いは少なくなってきたかもしれない。
仮面を被り、自分を偽りながら生きていく人が多い世の中で、
そんな人と出会うことは稀なのかもしれない。
だからこそ、もし出会えたとすれば、その相手との関係を大切にしたい。
男女問わず、そんな相手こそ真友と呼びたい・・・


2001年12月02日(日)



 いのち

某掲示板(毎度この表現・・・苦笑)に、死を美と捉え、心中を最高の愛の表現と考えている方がいた。
その人への自分のレス・・・

人は誰しも生きていることに意味があり、無駄な人間は1人もいない。
そして各人、生きる権利を持っている。
その権利を奪う事は、誰であろうと許されない。
自分の命でさえも、それは同じ。
人は孤独ではない。
孤独であると思い込んでいても、誰かに支えられ、誰かを支えている。
もう1度自分の周りを見まわして欲しい。
誰かが貴方を必要とし、貴方が誰かを必要としている筈だから。

とまぁ書き込んでみたものの、実は自分だって20年以上前に自らを殺すことを考えていた。
自分の存在が許せなくて、自分を破壊したいと考えていた・・・
青春期、誰もがその壁にぶつかるのかもしれない。
自分の場合、既に準備が整った時点で、友達に発覚→友達の親から自分の親に連絡・・・という経路(笑)
でばれてしまった訳で・・・
母親が泣き叫びながら、殴りに来た。
そのときの叫びと痛みは今でも忘れられない。
当時は、自分の意思で生まれて来なかったわけだから、死ぬ時くらい自分の意思で・・・そう考えていた。
与えられる愛情だけを享受する環境では、余計なことを考えるものなのかもしれない。

それから20数年。自分の意識は変わったのだろうか?
死を考えることはなくなったものの、もしかして追い込まれればどうなるか?
以前から考えていたのは、「自殺志願者は、結局いつまでもその願望を持ち続けてしまう」ということ。
果たして自分がどんな最後を遂げるかは皆目見当もつかない。

しかし当時と違うのは、自分には妻がいて子供たちがいる。
自分が支えるべき、そして支えてくれる家族がいる。
今度は自分が親となり、愛情を与え続けなければならない。
周りには自分を必要に感じてくれる人もいれば、自分が必要な仲間もいる。
1人だ、孤独だと思っていても、結局は1人よがりにすぎないのだろう。
死を美的と考え、酔いしれる方も見受けられるが、その無責任さは否めない。

なんだか・・・まとまらない(苦笑)


2001年12月03日(月)
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