沢の螢

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七月尽
2003年07月31日(木)

文月最後の日、両親のところへ。
母好物の最中を買って持っていく。
午後から出かけて、ちょうど三時のティータイムに着くぐらいが丁度いい。
父は昼寝していたが、しばらくして母が声を掛けると起きてきて、一緒にお茶を飲んだ。
母は私が行くことを言ってあったので、昆布の佃煮や、サラダ、炊き込み御飯を作って、待っていた。
父は、あまり自分から喋らないので、母の話を聞くことが主になる。
ケアハウスの住人の噂や、私のきょうだいのこと、孫のこと・・。
わずかに健在の、親たちの友人、知人の話もある。
ほとんどは、皆あの世に行ってしまったが、九〇歳を過ぎていれば、残っている方が珍しいのだろう。
5時半になったので、帰ることにした。
母の手作りの料理をタッパーウエアに入れてもらって、ハウスを出た。
道路から、2階の母達の部屋が望める。
二人が、ベランダから手を振るのに応えながら、見えなくなるまで、振り返りつつ、角を曲がった。
いつものように、もしかしたら、この次は、こんな風景は見られないかも知れないと言う思いが、脳裏をかすめながら・・。


水平思考
2003年07月30日(水)

亡くなった草間時彦氏が、連句をやる人は、垂直思考より、水平思考であるほうがよいと、あるところに書いていた。
その正確な意味は、よくわからぬが、たとえば、企業で、タテ社会の論理を最優先するタイプの人は、文芸にはあまり、向かないだろうと言うことは、何となく推測出来る。
最近連句友達から「あなたは水平思考だから連句に向いてますね」と言われ、草間氏の言を思い出して、これは勲章だと思った。
ただしその人が言った言葉には「私は垂直思考だから論文のほうが向いてるんです」というおまけが付いていたのだが・・。
その人の頭の中には、多分、水平思考より垂直思考のほうが、すぐれていて、アタマがいいのだという、考えがあったのかも知れない。
むかし、エッセイを書くグループに入っていたことがあった。
お互いに、身辺のことを書いて、小冊子にするだけのささやかなものだったが、そこに定年退職した男性が入ってきた。
書くことが沢山あるのでと、張り切って参加した。
毎回、せっせと、作品を発表した。
ところが、立派な文章を書くのだが、読んでいて、面白くないのである。
魅力がないといったらいいのだろうか。
女性達は、どちらかというと、文章は苦手だけど、何か表現したいと思って参加している人たちだった。
家庭内の些細な出来事、主婦の目で見た政治や社会に付いての意見、論理的ではなく、稚拙ではあっても、自分の身の丈にあったものを書いているので、それぞれ、その人なりの個性が出ていた。
ところが、件の男性の書いたものは、新聞か雑誌に出てきそうな非の打ち所のないような文章でありながら、その人らしさがどこにもなかった。
合評会でもその人の書いたものに話が及ぶと、あまり発言する人がなく、その人は、こんなシロウト集団でやっていられるかと思ったらしく、まもなくグループを去り、もっと、やりがいのあるところに移ったらしかった。
今思うと、その人は垂直思考のひとで、エッセイも、論文みたいな書き方をしていた。
独りよがりというのか、上から下に教え諭すようなくささがあって、やたらと難しい言葉を使い、どうでしょう、うまく書けてるでしょうという気持ちが、見え隠れしていた。
ご立派です、恐れ入りましたと、言うほかないのである。
読者に立ち入る隙を与えない。
そのようなものは、論文としてはいいかも知れないが、感動にはほど遠い。
うまくなくていいから、感動のある文章を書きたい。
連句の魅力は、自分の句だけで完結しないところにある。
次の人のために、余情を残しておく。
気遣いと発見が連句の命であろう。
文は人なりというが、連句も人なりと言えるかも知れない。
ミューズの神よ、我に詩心を与えよ。
人の評価は関係ない。
遙か高みに心を遊ばせ、魂の震えるような一句が出来たら、それでいい。


影の内閣
2003年07月29日(火)

私にはいくつかの趣味があり、それに伴って、いろいろなグループに身を置いている。
一番多いのが連句関係だが、地域で参加している短歌のグループ、朗読のボランティアをしていたころの集まり、また両親が家にいた時に付き合いの出来た、介護に関した会もある。
歌をならっていた時の付き合いも少しある。
学生時代の合唱のサークルも、最近になって、また活発化してきた。
それに全部付き合っていては身が持たないので、あちこち不義理しつつ、出来る範囲で顔を出している。
それらの集まりを通じて感じるのは、ある年齢以上の集まりは、総じて、しっかりした女性が仕切っているところの方が、うまくいっているということである。
女性は、割合公平だし、少なくとも、ハーレムを作ったりしない。
どこの集まりでも、数は女性のほうが男性を上回るところが多い。
そんな処で、男性がリーダーになった場合は、いろいろな意味で余程すぐれているか、逆にサービスボーイ的に、狂言回しの役に徹していないと、うまくいかない。
気に入った女を周りに置いて、ハーレムに君臨するがごときやり方をするのは、一番愚かで、マズイ運営の仕方であろう。
女性は、公平さを欠く扱いというのは、皆キライだし、そう言うことは、すぐに見抜くのである。
表面で取り沙汰されなくとも、「あの人、えこひいきするわね」という影の囁きとなって、ウラで伝わっていくものである。
知らぬは君主と、ハーレムの女あるじだけと言うことになって、いい話の種になる。

息子の妻が、職場での面白い話しを時々聞かせてくれる。
数年前、彼女は、同じ頃に入社したもう一人の女性と比較して、明らかに公平さを欠く扱いを上司から受けていたらしい。
要求された以上の仕事の成果を上げてるのに、評価は、なぜか自分のほうが低く、不思議に思っていたという。
第三者から見ても、彼女のほうが、より高い成績を上げており、周囲の人も、上司のやり方をおかしいと思っていた。
ある時、その疑問が解けた。
仕事のことで、上司の部屋に入った時、件の女性を膝に載せている上司の姿を、偶然目撃してしまった。
語るに落ちる話しである。
「その時どうしたの」と訊くと、「知らん顔して出てきちゃいました。向こうは気が付いたみたいですけど」と息子の妻は言った。
それから評価はどうなったか訊いたら、別に変わらなかったという。
「でも、それですっきりしたんです。評価が、仕事じゃないことがわかって・・」と彼女は笑っていた。
その後、会社は、日本経済の下降と共に、他と合併し、その上司もリストラされてしまったらしい。
息子の妻のほうは、その前に見切りを付けて会社を辞め、外資系の会社に再就職して、今は、部下15人を抱えて仕事している。
「私は仕事している時は、男なんです。それを今の会社は、評価してくれるからいいですね」と言っている。
彼女も、女を武器にはしないタイプ。
日本的常識のべったり染みついた以前の会社では、自分を生かせなかったのだろう。
どこにでもいる魑魅魍魎。
あの会を動かしているのは、ホントはあの人という、シャドウキャビネットの存在も、知っておくほうがいいのかも知れない。

今日、母のところに行こうと思って電話した。
すると出てきたのは、妹であった。
それならかち合わない方がいいからと、2日ずらすことにした。
私の一族のシャドウキャビネットは母である。
最近は老齢化が進み、昔ほどの精彩はないが、本人はまだまだ娘を操っているつもりなのである。
しかし哀しいかな、時々、ぼろが出る。
それを見るのがつらいので、他のきょうだいのいない日に、行くことにしている。
今日も、午後からひとしきり雨が降った。


逃げぬ男
2003年07月27日(日)

久しぶりの晴れ間。
夕べは「送り梅雨」という風情の、激しい雨が降っていた。
何度かこんな雨が続いたあとに、梅雨は終わり、かっと照りつける夏がやってくる。
今年は少し梅雨明けが遅いようだ。
涼しくて助かるが、冷害の影響があるかも知れない。

連れ合いが先程から庭仕事に精を出している。
隣のご主人と話している声が聞こえたので、訊いてみたら、境の塀の両側に伸びている下草の取り方について、相談していたのだった。
この隣人は、親の代からのご縁だが、お互い、節度をわきまえた付き合い方で、30年続いている。
まだ親の一人が存命中なので、代替わりしたわけではないが、長男に当たる人が、近くに住んでいて、時々留守宅のケアをしに来るのである。
私たちより少し年上だが、夫婦とも、つかず離れずの付き合い方の理解出来る人たちなので、隣人としては、最高である。
明治生まれの親たちは、私の父と同じ年だった。
そんなこともあって、ここに引っ越してきた時から、ずいぶん世話になった。
奥さんのほうは、短歌をたしなんでいて、若い頃、婦人記者をしていたという経歴もあり、そんな話題をかわしたこともある。
人付き合いの下手な私だが、なぜか私にはシンパシイを持っていてくれて、何かと庇ってもらった。
2年前に亡くなり、その連れ合いは、今病院にいる。
二人の息子も、良くできた人たちで、べたべたした付き合いはしないが、何かあった時は、黙って、お互いを気遣うという関係が続いている。
「隣は選べませんから」というのは、亡くなった奥さんの言葉だった。

我が家では、外交は連れ合いの役目、ケンカする時は私という役割分担が出来ていて、息子がいた時は、父親と同じ、外交を引き受けていた。
回覧板を廻すのは連れ合いの仕事、市役所などに文句を言うのは私の役目である。
普通の家とは、どうも分担が逆らしいが、長年の習慣でそうなったのである。
家にお金を運んでくる連れ合い、これから世の中に出なければならない息子が、世間から敵視されるのは困るが、私は、人によく思われなくても構わないと思っているので、敵役を買って出たのである。
でも、それは、家族の支えがあってこそ出来ることで、いざというとき、絶対に味方になってくれるという信頼感がなければ、敵役は出来ない。
昔からある嫁姑の問題、私の若い頃も少しあった。
出来すぎた連れあいの母と、気の利かないヨメである私とは、時に些細なことでケンカをした。
そんなとき、私が一番ありがたかったのは、連れ合いが、間に立って、正面から問題に立ち向かったことだった。
妻も母も、どちらも自分には大事、だから、逃げないという態度で通した。
時に、二人を前に並べて叱り、つまらないことでも、解決しようとした。
姑は70歳でなくなったが、私が連れあいの母を懐かしく思うのは、お互い本音で付き合えたからで、それには、連れ合いの態度が大きく影響している。
女同士の争いは、些細なことが原因であることが多い。
その時、間にいる男が、片方に味方したり、自分だけいい子になって、問題から逃げていたら、やがて小さな目の筈のことが、取り返しの付かないことにふくれあがることもあるだろう。
逃げる男。家長としては失格である。
逃げない男と、縁あって暮らしている私は、幸せと思わなければならない。


仮面の時
2003年07月26日(土)

パソコンなどというものが、我が家に存在しない頃、通信手段は、1に手紙、2に電話だった。
6年前、まず連れ合いがノートパソコンを購入、IT教室に何度か通って、電脳生活に入った。
常勤の仕事を退いて、時間が出来たので、まずメールを使い始め、それから3年後にPCを買い換えて、念願のホームページを立ち上げた。
暇があるとパソコンに向かって、せっせと、ページ作りを始めた。
私は、機械ものがもともと苦手な上に、インターネットに偏見を持っていたので、はじめはまるきり関心がなかった。
特に、メールについては、あんなものと、内心ケイベツしていた。
速くて便利だとは聞くが、必要性は感じなかった。
メールにまつわるコワイ話も、新聞種になったりしたので、まず自分がメールを持つことはあるまいと思っていた。
しかし、連句作品などを清書するには、手書きよりワープロのほうが見やすいので、その都度連れ合いに頼んで、入力とプリントアウトを頼んでいた。
「しょうがないなあ」といいながら、1,2枚のことなので、手伝ってくれた。
連句の会を催すことになり、当番幹事を引き受けたことで、パソコンの出番が増えた。
気安く手伝ってくれていた連れ合いが、あまりいい顔をしなくなり、やはり私もパソコンぐらい出来ないとダメかなと思い始めた。
特に、会が終わって、作品集を作る段になり、人にものを頼むことの下手な私は、結局、連れ合いを煩わすことになった。
「今後は君も、自分でワープロぐらい出来るようになりなさい」と言われ、いよいよその時期が来たことを痛感した。
2000年の暮れ、市のIT講座に申し込み、どうやらメールの操作だけマスターした。
インターネットは、それから半年あとになる。
食堂の隣に、ささやかな私の書斎が建ち、自分の机とデスクトップのパソコンを購入して、私も電脳生活の仲間入りをした。
ADSLになり、インターネットの環境も良くなったので、あちこちのwebサイトを見て歩いた。
そのうちに、私もホームページを作りたくなり、ジオシティにアドレスを取った。
連れあいの使っているホームページ作成ソフトを入れて、ホームページを立ち上げた。
それが昨年初めである。
それから日々更新を重ねて、今日の形になっている。
私もメールアドレスを持っているが、一時は頻繁に使っていたメールを、最近は顔見知りの間では、事務的連絡以外には、使わないことを原則にしている。
便利ではあるが、使い方を誤ると、とんでもないことになる不快さを経験したからである。
顔を見てはとても言えないようなことを、メールでは簡単に言ってしまう。
手軽である反面、気遣いも、礼儀もない。
本来顔を見て、ちゃんと話すべき内容を、前置きなしに送って、相手がどう思うか考えない。
もともとメールは、気持ちを正確に伝えるには、大変不完全なものである。
不完全なものに不完全な返事を送って、本当の人間関係が成り立つわけはない。
相手のメールを削除もせずに、そのまま表示して返事をよこす。
ひどい人は、件名と関係ない分まで、貼り付けたままになっている。
「返信」とキイを押せば、返信モードになるので、削除の手間を惜しむのである。
こんな失礼なことは、手紙ならしないだろう。
感情的なことは、メールでは解決出来ないことが多い。
顔を見て言えないようなことを、メールなら言えると思うのは、間違いである。
ネット用のメールは、知らない人に、礼儀正しく、用件だけ伝える点で、重宝している。
ホームページは、顔の知らない人に向かって発信するのだから、メールをうまく使えば便利だし、画面で伝わりにくい情報を、補うことが出来る。
バーチャルな世界と現実とが混同して、見境が付かなくなった時、人を見誤り、錯覚の上に作り上げた幻想と実像との差異に苦しむことになる。
メールを始めた頃、連れ合いが言った。
「メールは人と仲良くするための道具、これでケンカをしてはいけません」。
今更ながら、この言葉を噛みしめている。

拝啓も敬具もなしのEメール機械のごとき言葉並べて


河童忌
2003年07月24日(木)

今日7月24日は河童忌、芥川龍之介の命日である。
37歳の若さで、睡眠薬自殺をした。
芥川作品の最初に触れたのは、小学4年の時読んだ「魔法」。
父が買ってきた子ども向けの読み物の中に入っていた。知らない人も多いと思う。
好きなのは「奉教人の死」。
クリスチャンではなかったらしいが、彼は、基督教にテーマを取ったものを、いくつか書いており、そのうちのひとつ。
火中に飛び込んで子どもを助けた少年が、実は少女だったという話は、読んだ当時、ひどく感動した。
彼の自殺を、文芸上の原因に取る理論が多いが、実は、その頃親戚の金銭問題に関わって、心労の極にあったということも伝えられている。
案外と、そちらのほうが大きいのではないかと推測する。
当時文藝春秋社にいた、親友の菊池寛が、お金を貸してやっていたら、芥川の死はなかったかも知れないという話を、どこかで読んだことがある。
真偽はともあれ、幼い3人の子と、年若い妻を残しての自死である。
いたましいことには違いない。
3人の男の子のうち、一人は戦死、一人は俳優の芥川比呂志、3人目は音楽家の也寸志となった。
20代の若さで残された妻は、未亡人として芥川の分まで長生きし、亡くなったが、まだ記憶に新しい。

河童忌や田端に急ぐ待ち合わせ

昨年作った句。自分では気に入っている。

今日は新宿で、連詩の三日目。
「18連作りたい」という講師の目標には届かなかったが、15連まで行って、お開きとなった。
「なるべく違う人の声を聞きたい」と言うことで、詩は、一人1連ずつ取られ、皆満足したようだ。
最終候補詩には、私も何度か読み上げられて、愉しかった。
終わって、同じビルの土佐料理屋で、打ち上げの会食を愉しみ、来年の再開を約束して、散会した。


冷夏
2003年07月23日(水)

梅雨明けはまだ先になりそうで、そのせいか、昨日今日は寒いくらいだ。
それなのに、電車の中も高層ビルの中も、異常なくらい冷房が効いていて、体が冷えてくる。
うっかりして半袖で出かけたら、電車の中で十分に体が冷え、カルチャーセンターのビルの中の冷房も、たっぷり効いていて、幸い夏用のスカーフを持っていたから良かったものの、終わる頃には、喉が少し痛くなった。
外に出ても、気温は高くなさそうで、歩いているうちには、体が温まってきたが、なぜあんなに人間の体を冷やすほど、冷房を入れるのだろう。
一度設定してしまうと、臨機応変に変えると言うことが出来ないのだろうか。
人間の体は、汗をかくように出来ているのに、真夏にセーターでも持ってきたいほどに冷やすというのは、少し異常じゃないかと思う。
多分、オフィスに働く男の人が、背広を着ても暑くないくらいの温度にしてあるのかも知れない。

昨日は、連詩の講座のあと、新宿駅近くで、メール両吟をした相手と、合評会をした。
私はパソコンから、彼は携帯メールから、互いに句を送信して、20韻を巻いた。
2月の立春に始めた付け合いが、なかなか進まず、終わったのが5月終わり頃。
打ち上げの乾杯をしましょうと言っていて、昨日になった。
出来上がった作品をそれぞれ批評し合って、気が付いたら7時になっていた。
食事をすることになり、デパートの上の方にある釜飯屋に行った。
冷酒を一本ずつ、それに釜飯、呑みかつ食べながら、そこでも話が弾んで、腰を上げたのが九時。
私がトイレに行っている間に彼は、さっさと勘定を済ませてしまい、払おうとしたら「きょうはいいですよ」というので、ご馳走になってしまった。
大勢で食事する時は、男も女も関係無しで、きちんとワリカンというのが、大体どこでも普通になっているので、男の人からおごってもらうのも、久しぶりのことだった。

連詩の講座二日目。
昨日は、ひとつも採られなかった私の詩、やっと今日、採ってもらった。
連詩だから前後があるが、ほかの人の詩を勝手に引用するわけに行かないので、自分の詩だけ載せる。

連詩七連目

インターネットのホームページに
PEACEというロゴを貼り付けた
戦場に息子を送り出す母の目は
底の深い湖の色をたたえている

連詩は18連まで続けたいと講師は言うが、今日で10連終わった。
明日8連行くかどうかわからないが、終わってから、昨年と同じく、講師を囲んで会食をすることになっている。


連詩体験
2003年07月22日(火)

私のサイトには、連句のボードがあり、そこで、付け合いを愉しんでいる。
ホームページ上に載せている二つのうち、ひとつが先日満尾、もうひとつも、花の句を募集中で、あと一両日中に満尾するはずである。
今の私の日常にしっかりと位置を占めつつある心遊び。
とてもエキサイティングで愉しい。
ホームページでは、このように連句浸りになっているが、実際の私の生活では、連句の占める時間は、それ程多くないし、より沢山の人たちと、別の場で繋がっている。
連れ合いを含めた学生時代からの付き合い、もうひとつの趣味である音楽を通しての交友、外国で一緒だったり、昔の仕事仲間や、大学の公開講座などでの付き合いもある。
そうした中で感じる様々な問題、常にいいことだけではない側面も含めて、それが、日々暮らしていくと言うことであろう。
どんな人でも持っている生活体験、人生の場面というのは、他人の目で見て、単純に推し量れないことも多く、たまたま見聞きした人の一面を、その人のすべてであるかのように思いこむのは、短絡的かつ傲慢なことであろう。
私が、折にふれ書いている日々の心覚えの中には、いろいろな場面が設定され、種々の人物が登場するが、そのことの事実関係と言うのは、実はあまり重要ではないのである。
学生時代の友人が、歌仲間になってみたり、中学時代の教師が、近所に住むうるさいおばさんに化けていたり、そんなことは、書く方も、読む方も、どうでもいいことなのである。
お役所の報告書ではないし、学生のレポートでもない。
ネット上の名前で、自分のホームページに何を書こうが、本来自由であろう。
政治、宗教に関する偏見、人種差別、特定団体や個人の情報を漏らしたり、実名をあげて誹謗中傷する、公序良俗に反する表現、そういうネット上のルールに反したことをしない限り、文章の書き方を、人に指図される理由はないのである。

今日は、「連詩」の講座に行った。
昨年一度行って、なかなか刺激的体験だったので、今年も案内が来てすぐに申し込んだ。
講師は女性詩人で、近年、連詩を多く手がけている。
今日は、講師の発詩、それに、二行詩と四行詩を交互に付けるというやり方で、五連まで進んだ。
私の出した詩は、ひとつも採られなかったが、それは二の次である。
静かに、正確な言葉で語る詩人の姿勢が、気に入っている。


海の日
2003年07月21日(月)

海の日

6月7月8月の3ヶ月は、旗日がないと、ずーっと思っていたが、いつの間にか海の日なんて言うものが出来ていたのだった。
学校に行く子どもがいたり、現役で働いているひとが家にいないと、国民的休日なんて言うのは、忘れる。
郵便局から振り替えで送金する用事があり、午後から行ったら、締まっている。
そこで、ああ、そうか、今日は、連休の最後だったなと、思い出した。
まだ梅雨明けではないと見えて、毎日しょぼしょぼと雨模様。
家の中が湿っぽい。
暑くないからいいようなものの、気づかないうちに、あちこち黴が生えているんではなかろうか。

旅行社からシベリア旅行の案内が来た。
おととしシベリア鉄道1万キロというツアーに参加し、いまだにその続きのような気分があるが、昨年は、なぜかシベリア関係は無し、今年また計画があるらしく、前回の参加者に送っているらしい。
費用が10万円ほど高くなっている。
行きたい気はあるが、もう2年ほど間を空けることにした。
そんな折、とても興味のある話が入ってきた。
連れ合いの大学時代のクラスメートに、中国東北地方(旧満州)に仕事でちょくちょく行く人がいて、先日の集まりで話題になった。
満州で生まれたり、育ったりした人も何人かいて、一度行ってみたいという話になった。
気の合った7人が、年に3度ほど都内の飲み屋で会って、旧交を温めている中でのことである。
それならと、現地に詳しいその人が、みんなを引き連れていくことにしたが、「良かったら奥さんもどうですか」という話になったという。
「君は、行かないだろ」というので、「そんな機会またとないチャンスだから、行くわよ」と答えた。
旧満州を中心に、一般のツアーで行かないような処もあちこち歩くというので、是非行ってみたい。
来年の秋の予定なので、今から戦争中の歴史も含め、少し研究してみようかと思っている。


よそのご亭主
2003年07月20日(日)

連句の面白さは、人との共同作品の中で、思わぬ世界が展開されてくるところにある。
森羅万象すべて含み、虚実取り混ぜて、その中に身を置き、心を遊ばせる。
実生活では、個人の些細な体験しか持っていなくても、連句の世界で、それをあたかも経験するかのごとき、広がりを愉しむのである。
文芸上の虚と実、そのあわいを愉しむ気持ちがないと、連作の世界には入れない。
たとえば恋句。
連句の一巻の中で、恋句は、ひとつの山場だが、ここは最も虚の世界を愉しむところでもある。
私は恋の座が好きである。
想像力と創造性と働かせ、波乱に満ちた恋の場面を作っていく。
自分の連句ボードでも、月や花はどうでもいいが、恋句は懲りたいほうだ。
あるとき、少しありきたりでない恋句をといわれ、それならと、少しきわどいが、メタファーで包んでいて、わかる人にはわかるという句を出した。
するとメンバーの年配の女性が、わからないというので、「わからないような句は、ダメですよね」と、それを取り下げた。
しかし、説明して欲しいと言われ、付け句の説明など、私の好みではないが、「こういう事です」と、一応説明した。
ところが、「へえ、そういう意味なの。あなたずいぶん経験豊富なのねえ」と言われ、ビックリした。
「いいえ、経験とは別ですよ。経験があると、その貧しい経験にとらわれてしまうけど、こんなものは経験のないほうが、自由に想像が働いて、いい句が出るんです」といったが、どうも、良く理解されないようであった。
そんな風な思いこみが、時にあるのである。
特に、女性に多い。
こういう人は、人の句を見て、そこに盛り込まれた内容が、作者の実体験だと思って疑わないのであろう。
何でも実際に経験しなければ句が作れないと言うなら、それこそ殺人までしなければならなくなる。
文芸の面白さは、ウソをいかに本当らしく思わせるかというところにあるので、それを理解出来ない人は、創作者としてのセンスに欠けると言わざるを得ない。

昔こういう話をきいたことがある。
昭和40年代はじめ、文学賞を取って作家デビューした女流の話である。
海外生活経験を持つ彼女は、そこに場を設定し、小説を書いた。
そこで生活する日本人の主婦が、街中で、ふと知り合った男と、行きずりのホテルに入っていく。
でもそれが小説のテーマではなく、変化のない日常のなかのけだるさをモチーフにして、その一つの場面として、ホテルが出てくるのである。
ところが、商社マンである作家の夫は、妻の作品が日本で賞を取ると、「あなたの奥さんは、アンナ事をしてるのか」というたぐいの質問に悩まされたという。
そして、小説に出てくる人物を、いちいち実際の人物に当てはめて、あれこれ詮索をするので、困ったという話だった。
「これは、私の小説のなかの人物で、どなたのことでもありません」と言ったそうだが、人間というのは、多かれ少なかれ、似たような状況で生きているので、思いこんだ人には、なかなかわかってもらえなかったそうだ。
「小説家を妻に持つと大変です」と、連れ合いは、嘆いたそうな。
プロの小説家ならずとも、なにかを表現する時、そういう問題はついて回る。
以前、シナリオの習作をしていた頃、生活経験のあまりない私は、新聞の記事や、見聞きしたことから、ドラマになるものを探し、それを材料にシナリオを書いた。
刺激的な事件やおどろおどろしいようなものは性に合わないので、もっぱら日常に近いところにテーマを求めて、書いた。
主婦を主人公にすれば、生活描写は、自分の体験が生かせるし、そこにドラマの肉付けをしていけばいい。
どこにでもいるような人物、どこにでもあるような場面で、しかしどこにもないような話を組み立てていくのである。
もし、それが映像化されたら、見た人は、「あら、私の事かしら」と思うような、場面が出てくるであろう。
人間の持っているいやらしさ、狡猾さ、あくどさ、やさしさ・・それらも、太古から持っている人間の本質だから、「まるで私の事みたいねえ」と思っても不思議はないのである。
でも、いささかでも文芸に携わっているひとなら、「私のことみたいだけど、でも私じゃないわ」と思うセンスがある。
連句をやっている時、良く「面影付け」などといって、そこにいるひとを彷彿とさせるような句を出したりするが、それを、その人そのままだとは、誰も思わないのである。

昨日の連句で、恋句を出すところがあった。
前からの流れの中で、古拙の微笑もこわばってしまうというような句を出した。
それに付ける句がなかなか出ず、あれこれ喋っている中で、「この頃は、キャリアウーマン達の中では、普通に結婚するなんて煩わしい、
それよりも、奥さんのいるひとを、ちょっとだけ借りる方がいい、身の回りの世話みたいな事は、全部奥さんに任せて、いいところだけ戴いて、付き合えばいい。そんなことを書いたものを、読んだことあるわよ」と私が言った。
もう一昔になるが、実際に、ある女性評論家が書いた記事であった。
すると「じゃ、それを句にして頂戴よ」と言うので、ちょうど短句の場所なので、

お借りするのはよそのご亭主

いう句にして出し、治定された。
二十韻一巻、そんな風に話題が弾んで、愉しい付け合いになって、散会した。
あとで、もし、その作品が公表されて、句の人物と同じ状況にある人が目にし、虚実の理解の出来ないタイプだったとしたら、それは自分のことだと思いこみ、文句を付けてくることもあるのかなあと、ふと思った。


レクイエム
2003年07月17日(木)

ある人の告別式に行く。
夫も一緒である。
私たちは、大学時代、同じ混声合唱団にいた。
はじめは、プロの女性指揮者が振っていたが、1年目の終わり、指揮者がお産のため来られなくなり、学生指揮者で凌ぐことになった。
それが、きょうの告別式の主であった。
合唱団員は、みな音楽が専門ではないが、好きで集まっているので、かなり詳しい人たちもおり、最初の学生指揮者として選ばれたその人は、理科の学生だが、合唱にはアマチュアの域を超えたものを持っており、特に、宗教曲が得意だった。
モーツアルトの「レクイエム」をやることになり、1年がかりで取り組んだ。
私は、楽譜の係、当時は、今のようにコピーもなく、ガリ版で切った楽譜を使うのである。
勉強もそっちのけで、毎晩、楽譜を切るのに没頭した。
それを、部室で、男子学生に謄写版で刷ってもらい、みんなに配る。
今でも、ぼろぼろになったわら半紙の楽譜が一部残っているが、読みにくく、良くこんな楽譜でうたったものだと思う。
「レクイエム」は、ちょっとページが嵩むので、私鉄沿線の印刷屋に頼んで作ってもらった。
レクイエムは、今なら当然オーケストラつきだが、当時は、ピアノの伴奏だけだった。
12月の定期演奏会に、日本青年館で「レクイエム」をうたった。
その時の演奏はレコードになっていて、きょうの告別式の間にも流された。
二十歳前後の学生達の声は、幼いが、初々しい。
透き通っていて、今聴くと、美しい。
指揮をしたその人は、大役を果たすと、しばらく合唱から遠ざかったが、1年後にまた復帰して、小曲を振り、東北地方への演奏旅行の指揮者として、付いていった。
私は、演奏旅行の渉外担当として、行く先々の役所に、宣伝に行った。
雪の降る中での、秋田県での演奏会も懐かしい。
そんな事を思い出しながら、斎場にいたが、当時の合唱仲間が多数来ていて、速すぎる死を惜しんだ。
前から肝臓が悪かったらしいが、仕事に夢中で、病院通いも怠っていたらしい。
急に容態が悪くなり、救急車で運んだ時は、もう手遅れだったという。
「お酒が好きで・・。とうとう帰らぬところに行ってしまいました」と、その妻は挨拶の中で言った。
合唱団の中で、恋愛結婚した人である。
高くてきれいなソプラノの声を持つ人だった。
故人は、中学生の時、火薬遊びで片手を失い、右手の残った指だけで、すべてを自力でやっていたが、その詳しいことは、学生時代、誰の口からも、話題にすることはなく、きょうの告別式で、はじめて原因を知ったのである。
寡黙で、意志の強い人、周りから一目置かれていたが、話してみると、ユーモアのある、シャイな人だった。
音楽とは、終生付き合ってたらしいが、「あの方の指揮で、もう一度モツレクを歌いたかった」というのが、きょうの皆の感想だった。


「薮原検校」
2003年07月14日(月)

「藪原検校」をみる。
新国立劇場。この芝居は10年以上前に一度見ている。
その時は、検校役に原康義、塙保己一が藤木孝であった。
舞台に繰り広げられるブラックユーモア、鋭い人間批判に圧倒された。
検校とは、座頭である。
背景は江戸時代、田沼から松平定信に変わる頃、東北の貧困の家に生まれた主人公は、生まれながらの盲人である。
父に死なれ、食うや食わずで育った主人公は、母親を殺して江戸に出る。
座頭がのし上がるためには、その最高の位である検校になるのが一番の出世の道で、そのために彼は、あらゆる悪事を重ねる。
師匠である薮原検校の妻と通じ、師匠を殺し、2代目薮原検校に上り詰める。
最後に捕まって三段切りという、残酷な刑を受けるのだが、芝居の展開の中でふんだんに発せられる、いわゆる差別語、そのそこに籠めた健常者といわれる人たちの偽善を暴いてみせる。
主人公と対照的な人物として、学問に生きる高潔な塙保己一が登場するが、これを演じた藤木孝は、偽善の持ついやらしさを、たっぷりと表現して、見事だった。
「薮原検校をどういう刑にしたらいいか」と、お上に聞かれて答えたセリフの、ぞっとするようなもの凄さを、覚えている。
お上への民衆の不満をかわすための祭りのひとつとして、検校の死を盛大に利用することを提案する。
デフォルメされた検校の体が舞台に持ち込まれ、胴が切られ、頭がはねられ、最後に残った首から、食べたばかりのそばが流れ出る。
それを見て、狂喜乱舞する民衆。
舞台を見ている観客も、その中のひとりだよと言っているかのようなグロテスクな幕切れは、刺激的で、たっぷりとアイロニーを含んで印象深い。
狂言回しを金内喜久夫、これは前から変わらない。
検校役は若手の役者に代わり、堅さはあるが懸命に演じて好感が持てた。
塙保己一は、重要な役であるが、今回、別の役者に変わって、少し、印象が薄かった。
これは、藤木孝でもう一度見たかった。


バス小景
2003年07月06日(日)

いつも乗るバス。
込んでいる時間ではないが、席は埋まっており、立っている人が、4,5人いた。
停留所で、年の頃70くらいかと思われる女性が乗ってきた。
少し席を見回すような風だったが、空席がないと知ると、前のほうの吊革につかまった。
それを見て、近くの席に腰掛けていた男性が、「おばさん、ここにすわんなよ」と声を掛け、すぐに席を立った。
言葉は、丁寧ではないが、スポーツ刈りの、人当たりのよい感じの人だった。
「おばさん」は、そちらを見たが、「いえ、もうすぐに降りますから」と、いいにくそうに断って、そちらに行こうとしなかった。
私には、その理由がわかった。
男性が譲ろうとした席は、ちょうどバスの車輪が下に来るところで、他の席より、少し高めになっている。
足をおろすところが狭く、年配者や、タイトスカートの女性には、大変座りにくい席なのである。
立つ時にも、窮屈で、少し手間がかかる。
「おばさん」は、それがわかっているので、親切には恐縮しながらも、辞退したのであった。
女性なら、みな覚えがあるので、わかることだが、人の良さそうなその男性には、そうしたことは、想像出来なかったのだろう。
せっかくの親切が宙に浮いた感じで、彼は「どうしたの、座らないのか」といった。
別に腹を立てているようではなかったが、彼にしてみたら、自分の譲った席に、座って欲しかったに違いない。
「おばさん」のほうも、人の親切を断ってしまったという申し訳なさがあり、逆にますます座りにくくなり、ひたすら、自分の降りる停留所に着くのを待っている風情になっていた。
いくつかの停留所を過ぎ、「おばさん」は降りていった。
件の男性の目を避けるように。
男性のほうも、一度立った席にもう一度座る機会を失ったように立ち続けた。
親切の行き所をなくした空席は、ついに誰も座らぬまま、終点の私鉄駅に着いた。


「君の名は」
2003年07月03日(木)

木曜夜10時からの韓国ドラマ「冬のソナタ」を愉しみに見ている。
すれ違い、いくつもの枷、結ばれるべきカップルの間に次々襲いかかる嵐、メロドラマの王道を行くような作品だが、美男美女が、ヒーロー、ヒロインを演じて、昔なら多くの女性のハンカチを、涙でぐしょぐしょにしたであろう作りになっている。
車や携帯電話、ヒロインが働く女性である点など、現代の社会的状況を取り込んではいるが、そこに流れているのは、太古から少しも変わらぬ、恋する男女の心理と、リアクションである。
そこで思い出すのは「君の名は」。
最初は、ラジオドラマだったらしい。
放送時間には、銭湯の女湯がからになるという「神話」が残っている。
私は、「笛吹童子」のほうが面白い年頃だったので、放送は聴いていなかった。
放送が終わると、次の年に映画化され、大変な反響であった。
続編、続々編も作られ、愛し合う二人が苦難を乗り越えて、やっと結ばれるところで、完結した。
私は、近所の子ども達と、やはり近所に住んでいたお兄さんに連れて行ってもらって、第一作目を見た。
ヒロイン真知子を演じたのは、売り出し中の新人だった岸恵子、当時19歳。
恋人春樹は、佐田啓二。敵役が川喜多雄二。
真知子をイビる姑役が市川春代。
そして、このドラマには狂言回しとして、二人の蔭で、何かと世話を焼く女性(役名は思い出せない)が登場するが、それを演じたのが、芸達者な淡島千景だった。
監督は、大庭秀雄。
なぜそんなことを覚えているかというと、そのころ、娯楽は、本と映画しかなかったので、細部に渡って、よく記憶しているのである。
岸恵子は、この映画の中で、最初から最後まで、泣き通しである。
典型的な美女、ホッソリとした容姿、いつもうつむき加減で、あまり自分の意志を出さないヒロインの役を懸命に演じたらしい。
キャストは、最初、津島恵子と鶴田浩二が有力だったそうだが、あとで代わり、結果的にはそれでメロドラマとしては成功した。
岸恵子は、この映画ですっかりスターになり、数々の作品に出たが、「君の名は」の真知子のイメージから脱するのに、苦労したらしい。
その後、演技派の久我美子、有馬稲子と「にんじんくらぶ」を設立、徐々に単なる美人女優から存在感あるスターになっていった。
フランスとの合作映画が縁で、イヴ・シアンピと結婚。
それ以後の生活の大半は、彼の地で過ごしている。
フランスから一時帰国した時、NHKの強力な口説きにあって、大河ドラマ「太閤記」の、お市を演じたが、もはや「真知子」の岸恵子ではなかった。
その後の彼女の活躍は、演技者に留まらず、何冊かの著書も出して、オピニオンリーダーとしての側面も加わっている。
佐田啓二は、私の好きな俳優だったのに、交通事故で亡くなってしまった。
十数年前、NHKが、何を思ったか、「君の名は」をテレビドラマとして、リバイバルさせた。
鈴木京香が真知子を演じた。
しかし、やはり時代が違う。
すれ違いも、枷も、今の社会的状況とはあまりに合わなくなっている。
嫁いびりということが、今の社会では見られなくなっているし、男女の関係は流動的である。
ひとりの人を、十年も思い続けるということが、想像しにくい。
すれ違いも、通信手段や交通網が発達した今となっては、決定的な障害とはならない。
ただ、人の気持ちは、永遠に変わらない点もあるから、その意味では、普遍だが、それだけで、状況を変えて一年間続けるには、無理があったと見え、あまり芳しくない批評のうちに終わってしまった。
「冬のソナタ」を見ていて、古典的メロドラマの枠を脱してはいないながら、あまり違和感なく見ていられるのは、韓国の状況が、日本に比べると、まだまだ儒教の精神が生きており、ドラマの成り立つ要素は多いということかも知れない。


ベスはなぜ死んだか
2003年07月02日(水)

少女の頃、何度となく読み返したのが、ルイザ・メイ・オルコットのリトル・ウイメン「若草物語」である。
もうひとつは「モンテクリスト伯」だが、対照的なこの本については、別の機会に取り上げる。

最近私は、興味深い本を読んだ。
ロイス・キース「クララは歩かなくてはいけないの?」という本、(少女小説に見る死と傷害と治療)という副題が付いている。
作者は、欧米で、昔から子どものために「よい本」といわれているものを読んで育ち、その中で少年向きの本と、少女向きの本とのちがいを感じながらも、現実とは違った世界を愉しんでいた。
「ジェイン・エア」「ハイジ」「秘密の花園」「ポリアンナ」、そして「若草物語」もある。
これらの物語は、私も少女時代、面白く読んだものである。
ことに若草物語は、映画化されて、4人の少女を演じた女優達が、みな素晴らしかったこともあり、すっかり夢中になってしまった。
映像で見るアメリカの家庭生活、家具や調度品、少女達の長いスカート、決してハイクラスの人たちをモデルにしたのでないとはいえ、敗戦の色濃く残る昭和25年前後の、日本の子どもの目には、豊かな夢の生活に思えたのであった。
寿岳しづ訳の岩波文庫、「4人の少女」と名付けられた原作を読み、ジョーを演じたジューン・アリスン、エイミ役の美少女エリザベス・テイラー、ベスを演じて、日本にも来たマーガレット・オブライエン、彼女たちの顔や姿が、活字の上を生き生きと動き出すのであった。
健全なアメリカ市民のモデルのような話は、成長期にあった私の興味を、いやが上にも引き立てた。

しかし、ロイス・キースは、「クララは歩かなくてはいけないの?」の中で、面白い理論を展開している。
作者は子どもの母となってのち、交通事故に遭って車椅子を使うようになり、娘達と共にこれらの本を読み返した時、別の見方をするようになったという。
それは、1850年以降の少女小説には、必ず次のような人物が登場するというのである。
なにかの事故か、名前のわからない病気によって麻痺になり、その麻痺が確実に治癒するという登場人物。
そのような境遇を背負った子どもが、物語の中でどのように扱われているか、ごく最近まで、作者の描き方は、主に二つの方法で為されていたという。
そのような人物が自分の道徳的欠点を直すことによって突然歩けるようになる。
あるいは、病弱であり、障害を持ちつつ、現実にはいないような素晴らしく気高い精神を持った少女の、早すぎる死である。
時代背景としては、当時、症例の多かった小児麻痺があり、それによる子どもの死亡率は高かったらしい。
当時の医学では治療の見込みのないことに対して、なぜ物語の中でそれが可能なのか。
作者は、そこに、「いい子になれば治るのよ」と子どもに教訓を与える、物語の作者の意図があることを指摘している。
もうひとつは、身体に障害があったり病弱であったりする子どもの、他の人たちへの影響についてである。
「若草物語」の中で、他の3人の姉妹と違って、最も心根の優しい、清らかな魂を持ったベスが、よくわからない病で死ぬ。
そのことで、ベスを心のよりどころにしていた男勝りのジョーが、大変ショックを受け、「期待される少女」像に少し近づく。
創造力に溢れ、バイタリティに富んだジョーの姿はもはやない。
ベスの死によって、彼女は、家族への愛に生きる女に変質する。
当時、健全な家庭の少女達が受けた教育のように。
そのために、ベスの死が必要だったのだ。
童話に登場する魔法使いのおばあさんが、なぜ揃って、背中が曲がっているのか、悪者はなぜみな醜い姿をしているのか。
何げなく読んでいた懐かしい物語を、別の視点から見ると、今まで見えなかったものが見えてくる。
なかなか刺激的な本だった。


文月
2003年07月01日(火)

きょうから今年も後半にはいる。
7月、文月とも言う。。
風待月、蝉羽月というのは旧暦の水無月の別称らしいが、このへんは歳時記でも、晩夏として一緒になっている。
私の誕生月でもあるのだが、本当は、4月に生まれたらしい。
昔はよくあったことらしいが、役所に届けるのが遅れたそうな。
はじめて生まれた子なのに・・と思うが、当時は珍しいことではなかったらしい。
お産の日、母はひどい難産で、一度は母親の命と引き替えに私は、この世には生まれてこない筈だったという。
「それなのにお父さんたら、お花見に行って、酔っぱらって全然いなかったのよ」と母が、話してくれた。
母を病院に連れて行き、お産が済むまで待機してくれたのは、父の義兄であった。
この話で、私が花見時に生まれたことはわかる。
だから子どもの時の誕生祝いは、いつも4月だった。
いつからか戸籍上の7月に直されたが、多分、戸籍謄本などが必要になる時があって、その機会に直したのであろう。
もうずっと7月を誕生月として過ごしているので、私にとっては、こちらが本当である。
結婚して、私の実家で古いアルバムを見た夫が、「きみ、確か7月生の筈だよね。どうして、5月の写真があるの」と訊いた。
母に抱かれて写った写真の下に、日付が書いてあったのである。
両親も、私も、何度も見ている写真でありながら、不思議に思わなかったのであった。
他人の目で見た夫だから、そんなところに目を止めたのであろう。
それから夫は、時々私をからかって「君は、年齢詐称だぞ」といった。
この頃そんなことも言わなくなったのは、すでに夫婦としての時間が、娘時代を大きく上回り、今更、3ヶ月くらいの誤差など、誤差のうちに入らないくらい、人生を過ごしてきたと言うことであろう。
たまに「私、ホントは4月生なのよ」と言ってみると、「きみは7月だよ。今更直したってダメだよ」と、夫のほうが言う。
だから私は、7月生、誕生花は百合、誕生石はルビーである。
それが私の人格の一部になっている。



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