沢の螢

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詩的空間
2003年08月31日(日)

昨夜、面白いテレビを見た。
「詩のボクシング」と名付けられた催しの、中継録画である。
リング上で、互いに自作の詩を朗読し、トーナメントで勝ち進んでいくもの。
7人の審判員がいて、その場で判定する。
16歳の高校生から、68歳の男性まで、それぞれ地区別の大会で勝ち残った人が、決勝大会に臨んだものだった。
朗読に、ラップのようなリズムを刻んで、パフォーマンスの効果をねらった人、正攻法で淡々と、詩を読み上げた人、お国言葉をそのまま取り入れて、喋り言葉で訴えた人、詩の内容も、朗読の仕方もひとさまざまで、なかなか興味深かった。
はじめは、パフォーマンス豊かな人が、勝ち進むかのように思われた。
しかし、選者は、割合冷静である。
見かけにとらわれず、詩の中身をよく読みとっていたようであった。
最後に残ったのは、奈良代表の23歳の女性と、東京代表25歳の男性、若い二人だった。
いずれも、正攻法で、まっすぐに立って、淡々と詩を読み上げていた。
決戦は、自作の詩の朗読と、その場で与えられた課題を、即興で詠み上げるという項目が加わる。
古来の吟遊詩人に還るわけである。
詩はもともと、それが出発だった。
書いたものを、文字だけで、黙って読むというのは、人間の歴史の中では比較的新しい。
女性が与えられた課題は「鞄」、ここで彼女は、それまで被っていた仮面から、地の顔に戻った。
少し、力みすぎたのだろうか。
いろいろなことが一度に浮かんできて、整理が付かなかったようである。
ゴングが鳴って、男性の番になった。
彼が受け取った課題は「先生」、彼は、対戦相手の「鞄」と言う言葉を、うまく導入に使って、短いがまとまった詩にして、読み上げた。
それまでのポーカーフェイスは、最後まで、崩れることはなかった。
自作の詩も、やや頑張りすぎの女性に比べ、一貫して、両親や妹のことを、素朴に歌って、好感が持てた。
軍配は、6対1で25歳の男性に挙がった。
公平な判定だったと思う。
優勝した男性は、グラフィックデザイナー、実家は甲府で寿司屋を営んでいる。
決して抽象的な、難解な言葉を使わず、彼の生活の中で血となり肉となっている言葉を駆使して、感情に流されずに、等身大で訴えていたのが良かった。
出演者の中では、一番地味で、目立たなかった彼の、訥々とした語り口が、次第に心にしみ通って、今度はどんな詩を聴かせてくれるだろうという気にさせられた。
この催しは、今年で3回目だとのこと。
プロの詩人や歌人が、こうしたことをしているのは、前から知っていたが、普通の人たちの間でも、いわゆる「ポエトリー・リーディング」は、盛んになっているらしい。
私の沿線の近くでも、ピアノやシャンソンのライブの間に、「朗読」をプログラムに組んである喫茶店がある。
これは、アマチュアでも、出演出来る。
いつか、自作の詩で、そんなところに出てみたいというのが、私のひそかな夢である。
この前、詩ではないが、連句の集まりの余興で、即興で俳句を作るというトーナメントに参加した。
題が与えられ、3分以内に俳句を作る。
一戦毎に、5人の選者が交代で判定する。
参加者、30人以上はいただろうか。
私も何度か、選者になって、句を選んだ。
もちろん、一回戦からの対戦にも参加した。
どういうわけか、勝ち進んで、決勝まで行ってしまった。
対戦相手は、呑み仲間であり、ネット連句でも私の常連になっている女性。
「ふわり」というのが題であった。
俳句だから季語を入れなければならない。
相手は、すぐに句が浮かんだらしく、さらさらと短冊に書き込んでいる。
私の句は、

色街のふのりふわりと初仕事

というのである。
彼女の句は、勝手に引くわけに行かないが、蝶の飛ぶさまを詠んだものであった。
結果は、彼女に軍配が挙がった。
私は、賞品の白いハンドバッグをもらって、帰った。
骨の折れたことも、気づかなかったのは、その集まりが、面白かったからである。
初戦からの課題と、その時即興で作った句を、今になって思い出せないのは、残念である。


bone
2003年08月30日(土)

今朝、連句仲間の男性から電話。
先日頼まれたファイルを、メールで送った。
その時「骨折りで、外出不能」なんて書いたので、様子を尋ねてきたのだった。
「大したことないのよ。この間骨密度を検査したとき、年齢平均の1割り増しなんて言われたから、骨には自信あったんだけど・・・」と言うと、「そういうことは、自信過剰になってはいけません。」と、以前自分がアキレス腱を切った体験談を話してくれた。
治るのに、ひと月掛かったそうである。
彼の時は、手術したそうだが、いまは、骨に関してはあまり手術などせずに、直すやり方だそうである。
「さすがの・・さんも、今はおとなしくじっとしているしかないんですね」というので、「その代わり、頭と口は冴えてるわ」と言うと、笑っていた。
骨を折ったときのことを話して、「その時は痛かったけど、ただの捻挫だと思ったの」というと、「そんな状態で、よく自力で家まで帰りましたね」とあきれていた。
でも、私の状態が大したことはないのを知ると、用件を告げ、「くれぐれも骨をお大事に」と切ってしまった。

骨という言葉は、いろいろな意味を持っていて、熟語も多い。
「気骨ある人」というのは、褒め言葉だし、「骨を折る」というのも、いい意味で使う。
「骨の折れる仕事」と言えば、マイナスイメージのほうが強いのだろうか。
「骨惜しみする」というのも、悪い意味で言う。
折角「骨を折って」立てた計画が「骨抜きにされて・・」なんて言う。
「骨に刻む」と言えば、しっかり記憶していること。
「骨を刺すような言葉」というのは、あまり良い意味ではなさそうだ。
「骨休め」に、コーヒーでも飲むとしようか。
英語では、boneを使った熟語は沢山あるのだろうか。
私はボーンチャイナと、歌の「ドライボーンズ」くらいしか知らないが・・。
ボンレスハムは知っている。
ハムで思い出したが、肉も魚も、骨の周りが一番おいしい。
私の好きなのは、豚のあばら骨(スペアリブ)をニンニクやレモン、塩こしょうで味を付けて、オーブンで焼いた料理である。
隠し味に、オレンジの絞り汁と醤油を加えるとよけいおいしい。
南米の肉屋は、あばら骨の丸ごとを、ぶら下げて売っていて、まさかりのような大きな刃物で、豪快に切って、売ってくれた。
日本では、スペアリブは、きれいに切り分けて、売っている。
オーブンのほかに、これを大根のぶつ切りと共に、スープで煮込んだものもおいしい。
私は試したことはないが、牛の尻尾というのも、それなりの方法で料理するとおいしいそうである。
やはり南米にいた頃、牛の瘤というのを食べたことがある。
脂がのっておいしかったが、ちょっとシロウトが料理するのは、大変そうである。
骨のことから逸れてしまったが、外国で食べたものの話は、話題が尽きない。
いずれ、これも、まとめてみたい。

今日、連れ合いは、人に誘われて、講演会に出かけていった。
思わぬ事で、家事代行をする羽目になり、ずいぶん気疲れしているらしい。
「三度の飯の支度だけで、1日が終わってしまう」と嘆いている。
その上、一昨日は、私がうっかりして、ホームページのファイルを削除してしまい、何とか復活出来ないものかと、あれこれやってみたが、ftpでも取り込めないことがわかり、その手伝いも加わって、「疲れたよ」と言うことになったのだった。
37ページものファイル、半分くらいは、いくつかのパッケージに分けて保存しているので、修復可能だが、全く残ってないものもある。
仕方がないので、また作り直すことにした。
テキスト部分は、web上からコピー出来るので、あとは、webページを印刷し、それを見ながら、画像などを復元することになる。
とんだ事になった。
サーバーにあるのがせめてもの慰めである。
どじな人のことをbone headと言うそうな。
まさに言葉通りの失敗であった。


ヘヘヘー
2003年08月29日(金)

にわか車椅子の身になっていても、世の中の動き、周辺の人間模様は伝わってくる。
大きな事から言えば、世界で、未だ絶えない国と国との争い、人種や宗教の違いから来る軋轢は、人間がこの世に存在する限り、果てしなく続くのであろう。
ひとりひとりは、みな平和で愉しい人生を送ることを理想としているに違いないのに、それが、そのようにいかないのである。
そして、種々の迫害を受けてきた人たちが、立場を変えて、別の人たちを迫害する側に廻ることもあり、人間はいつも流動的な混沌とした中で生きていることを感じさせられる。
小さな事で言えば、家族や友人、集団、それらを取り巻く社会の中での、さまざまな葛藤。
はじめは、ごく小さな誤解から生まれたことが、時が経ち、周囲の事情が変わるにつれて、風化するどころか、逆に、溝を深め、取り返しの付かぬ事態になることも、哀しいかな、事実である。
最近つくづく感じるのは、もし、自分が大事にしている人との関係の中で、それを維持しようと思ったら、やはりそれなりの努力はしなければならないだろうと言うことである。
いつか、私はある人とちょっとした言葉の行き違いから、気まずいことになったことがあった。
しばらく経って、私のほうが謝るべきかなと思ったので、率直に、非を詫びた。
本当は、どちらが悪いと言うことではなく、売り言葉に買い言葉になってしまった些細なことであった。
そのまま時間が経てば、お互い、忘れてしまうようなことだったかも知れない。
ただ、私の性格として、小さな事でも、曖昧にしておきたくなかったのである。
相手は私より年長で、いわば先輩にあたる人だから、こちらが先に謝ったほうがいいと思ったのであった。
するとその人はこう言った。
「あなたは、大変ケジメのきちんとした人ですね。それは大変結構だけど、こんな事は、むしろ何もなかったようにヘヘヘーと話しかけてきた方が、にくめないですよ」。
それに対して、私は反論はしなかった。
それは向こうの考え方、私とは生き方が違うと思ったが、そこで論争しても仕方がない。
それよりも、人間関係を維持する方が大事だったからである。
そのことは、それで済んだ。
しかし、私の中には、小さな拘りが残った。
この場合は、へヘヘーで済むことだったかも知れないが、物事によっては、そうはいかないこともあるのではないか。
たとえば、立場の違いがある場合。
親が子どもを叱る場合、不用意に言ってしまう、子どもの心を傷つける言葉。
私も子どもの頃、そう言う経験がある。
ぐさりと刃で切り裂かれたような言葉は、半世紀経っても、まだ覚えている。
また、そんな経験を持っているにもかかわらず、自分が親になったとき、どれだけ子どもの心を傷つけてきたか。
思い出しても、自分の舌をかみ切りたいような言葉を投げたことが、ホンの1,2度だがある。
子どもにとって、それは、へヘヘーで済むことではないだろう。
会社の上下関係はもちろんのこと、学校の教師と生徒、地域社会の中、医者と患者の間でも、見られることである。
入院先で、医者や看護婦から言われた無神経な言葉は、いまだに忘れない。
医術よりも、人の気持ちを学んで欲しいと思ったものである。
本当はみな平等で、公平に扱われるべき筈の、趣味のサークルでも、それはある。
リーダー的存在である人が、集団を、自分の恣意的な考えで、動かそうとする場合、正面切ってものを言う人は厄介な存在である。
そこで、理由にならない理由を付けて、邪魔者を切り捨てる。
周りは、一見おとなしいイエスマンばかりが残る。
その連中が真から従っているかというと、そうではなく、帰りの下駄箱会議や赤提灯で、鬱憤を晴らすのである。
リーダーは、そんなことは、うすうす感じているが、表面、何も起こらないことを良しとするので、ほかの人が何を考えているかと言うことは、問題にする必要はないのである。
半世紀以上前の、ある社会主義国のリーダーがそうであった。
彼によって粛清された人々の血で、その国土の一部は赤く染まっているはずだ。
その人達のほとんどは、釈明の機会も与えられず、公平な裁判も受けることなく、屠られたのであった。
そして、リーダーの力を恐れる人たちは、わかっていながら、その人達を庇うことも出来なかったのである。
いまの日本、言論の自由は表向き保障されている。
しかし、社会の小さな処では、似たような不正義が行われ、理不尽に人を追いやり、すべての罪を、追いやった人に被せ、なおかつ、それでも足りずに、集団の力を借りて、追いやった人を誹謗中傷し続けると言う、卑劣なことが、平気で行われている。
エヘヘーで済む話ではない。
そして、援軍もなく、たったひとりで、孤独な戦いをしなければならない人間は、せめて残された武器たるペンで、対抗するしかないのである。
少しばかり筆が滑ったところで、それがどうだというのだ。
これは、私がかつて住んでいた、ある国の、ある地方の、ある人に起こった出来事である。


新涼
2003年08月27日(水)

骨の痛みは大分薄れているような気がするが、まだ、床に直接足をつけると痛い。
ギブスと言っても、足の裏と膝の裏側を支えているだけの簡単なもので、これで骨を庇っていることになるのかしらと思うが、必要にして十分な機能は備えているのであろう。

昨日は、息子の妻から電話がかかってきて、骨の具合を尋ねてきた。
彼女は、10年前、結婚直前に足の指を折り、結婚式は予定通りおこなったものの、足を少し引きずりながらの花嫁であった。
細いヒールの靴を履いて出勤途中、バスから降りる際、転けてしまい、全治3週間かかったらしい。
わたしが「医者に1週間と言われたわ」というと、「えっ、そんなに早く治るんですか」とビックリしていた。
わたしの場合は、彼女より、ずっと軽症だったと言うことだろう。
でも、彼女と話しているうちに、息子が腰を痛めて、整形外科に通っていることを知った。
土曜日に電話したとき、そんなことは一言もいわなかった。
「きっと、お母さんに心配掛けたくなかったんですよ」という。
体重が増えすぎて、足に負担がかかり、それが腰痛に繋がったらしい。
「じゃ、私のことどころじゃないわ。そっちを大事にして頂戴」と言って、電話を切った。
夜遅く、今度は息子から電話がかかってきた。
「骨のほうはどう?」と訊いている。
「もう痛みもないから、あとは時間の問題よ。そんなことより、整形外科に通っているって言うじゃないの。いまからそんな事じゃ大変よ。よく養生しなさい」というと、息子は、話を逸らせてしまい、「骨を折ったり、捻挫したときはねえ・・・」と、むかし陸上競技生活をしていたときの経験談を話してくれた。
息子というのは、普段何もないときは、音沙汰なく済ませているが、いざというときは、やはり真っ先に心配してくれる。
優しいのだなあと思う。
もう17年も前のことだが、私が3ヶ月ほど入院したことがあった。
連れ合いは、一番仕事の忙しいときで、息子は浪人中だった。
受験勉強をしながら、時々母親を見舞い、留守中の家のことまで、さぞや大変だったに違いないが、息子は、私に一度もグチめいたことを言ったことがなかった。
真夏から秋にかけての時期だった。
ゴミの処理が適切でなくて、ウジがわいてしまったり、ちょうど町会の当番に当たっていて、心ない人から、回覧板の回し方が悪いと、文句を言われたこともあったらしい。
「最近、少し料理がうまくなったよ」と、枕もとで話してくれたことがあった。
「何を作ってるの」と聞くと、「とにかく何でもマーガリンで炒めちゃうんだよ」と笑っていた。
「お父さんが早く帰ったときは、御飯を作るのはお父さん、僕が後片づけ」と言った。
「勉強のこともあるのに、大変ね」というと、「イヤ、大丈夫だよ。それより早く元気になってよ」と言って、息子は帰っていくのである。
一度、しばらく姿を見せないので、心配していたら、秋口で寝冷えをしたらしく、熱を出していたという。
私は、病室から電話を掛け、「冷房掛けすぎないで」と言った。
そんなことがいくつかあり、父子の共同生活も、限界に思えたので、近所に住む友人に訳を話して、週に2度、洗濯や掃除を手伝ってもらうことにした。
ただ好意に甘えるのはイヤなので、1日幾らと金額を決め、それで引き受けてもらった。
彼女は、私が退院するまで、留守中の男二人の、洗濯掃除、そのほかのこまかなことまで、面倒を見てくれた。
病気と入院、これは私にとって、やはり人生の大きな転機となった。
医療に関しての疑問、入院生活で感じたことも沢山ある。
入院中、大学ノート3冊の記録が出来た。
いつか、まとめて書きたいと思っている。

今日は涼しい1日だった。


口とアタマ
2003年08月26日(火)

簡易車椅子生活四日目。
人間というのは面白いもので、体のどこかが支障を来すと、ほかの機能が、それをカバーするために、働くらしい。
視覚障害のある人は、その分聴覚がすぐれていると聞くし、数学は出来なくても、絵がうまいとか、ほかの人にないすぐれた点があったりする。
俗に美人は心根が悪いというのも、この逆を行く理屈であろう。
すべてを兼ね揃えた人もいるかも知れないが、そんな人はむしろ、個性がなくて、魅力に欠けるのではないか。
そんな気がする。
いま私は、一時的車椅子生活者であるが、ただ黙って座っているのもつまらないので、家中をキャスターの音をごろごろさせながら移動し、そのお陰で、いままで気の付かなかったことを発見したり、面白いこともある。
私の場合、足をカバーするのは、アタマ(頭脳という意味ではない)と口である。
夕べ、連れ合いは会合があると言って出かけた。
「ひとりで大丈夫かい」と言いながらも、内心、久しぶりにひとりで出かけるのが、愉しいようであった。
私は座敷で横になっていたが、日が暮れてきたので雨戸を閉めようと思った。
しかし畳の部屋には、椅子が使えないので、這って、雨戸の処まで言ったが、スチール製の雨戸は重くて、とても動かせない。
そこで考えた。
無理をして閉めても、帰ってきた連れ合いは、私がどんなに苦労して雨戸を閉めたか、きっとわからないだろう。
いつものように、自然に動いている家庭内の現象で終わってしまう。
このままにしておこう。
内側の戸は閉まっているから、それで泥棒が入ることもあるまい。
夜遅く帰ってきた連れ合いが、雨戸が閉まっていないことに気が付けば「あ、そうか」と思って閉めるだろうし、気が付かなくても、夜が明けば、「夕べ閉め忘れたんだな」とわかる。
いまの私の状態では、出来なかったことに気づくだろう。
私が元気であれば空気のようにしか感じないことも、雨戸というのは、空気が開けたり閉めたりするのではないことがわかる。
今朝早朝、私の寝ている間に、連れ合いはゴルフに出かけていった。
起きたとき、まだ暗かったはずだが、一階に下りたとき、座敷の雨戸が開いたままだったのに、気づいたかどうか。
でも、食卓には、私の御飯茶碗とお椀、箸が置いてあり、台所には、みそ汁が作ってあった。
お椀には、庭で取ったミョウガが、刻んで入っているのが嬉しかった。
私は、みそ汁を温め、お椀に注いで、食事をした。
ギブスをしているので、少しの間なら立ち上がることも出来る。
ギブスを外し、シャワーを浴びることにした。
浴室には、老父がお風呂にはいるとき使っていた介護用の椅子を入れ、それに腰掛けて、シャワーを使った。
椅子で移動したり、階段を這って上がったりすると、床の汚れが目に付く。
少しさっぱりさせようと、掃除用ペーパータオルを棒に挟んで、床を掃除した。
キャスター椅子を動かしながらいなので、簡単である。
この方法は楽だな、今度から足が治っても、これでやろうと思った。
このことは、連れ合いには黙っていることにする。
口のほうは、元気な時もだが、足が故障してますます冴えてきた。
普段から連れ合いは、私のくだらないお喋りには、よく付き合ってくれる方だが、一緒にいる時間が増えると、話も多くなり、少しゲンナリしているらしい。
「君はやっぱり、ほどほどに出かけてたほうがいいね」などと言っている。
夜遅く、私が呑んで帰ってきても、文句を言わないのは、自分の代わりに、話し相手になってくれている人があると思うからであろう。
私が、何でも連れあいに話すのは、私が先に逝くようなことがあったとき、知らずに「天敵」から香典などもらって欲しくないからである。
私の遺影の前で、天敵がシラッとお線香など上げるさまを想像しただけで、死ぬに死ねなくなるではないか。
どうか安らかに成仏させて欲しい。
「この人とこの人は、天敵だからね」と教えてある。

外出できない分、暇になったので、ボード連句を再開することにした。


骨折りの記
2003年08月25日(月)

家の中での、簡易車椅子生活も三日目になった。
この家を建てるとき、将来親たちが同居することを考え、家の中はなるべく段差を付けないようにと注文した。
13年前である。
まだバリアフリーの考え方は、それ程一般的ではなかった。
だからこちらの注文にもかかわらず、手がけた大工さんの美学で、ドアというドアには、全部敷居を付けてしまった。
「とにかく一階だけでも、平らにしてよ」と強行に言って、廊下から居間に通じる入り口と、廊下から風呂場に入るドアの部分だけ、段差をなくしてもらった。
廊下と階段は、二人並んで歩ける広さにした。
まだバブルの最中、効率と経済性が優先していた時代である。
家の作り方としては、見栄えのいい部分を犠牲にした形になったが、いまになってみると、良かったと思う。
キャスター付きの椅子で、ともかくうちのなかの一階部分は、どこにでも移動出来る。
キャスターの向きによっては、多少引っかかるところもあるが、大きな車輪の付いた本格的な車椅子なら、わけないだろう。
足を痛めたお陰で、図らずも、将来なるかも知れない車椅子生活の、入門編を体験することが出来た。
今日、早く整形外科に行った。
痛みそのものは、あまりなくなっているが、腫れは広がっているようである。
親のいる頃からちょくちょく通った整形外科は、家から車で5分くらいの処にある。
足でなければ、歩ける距離である。
月曜日なので、待合室は混んでいたが、半分以上は、リハビリや処置の患者で、初診の患者はそれ程多くないように思えた。
それでも、たっぷり1時間以上待たされた。
医者はハンサムな若先生、父親が院長をしていた頃から知っているが、いまは、若先生の時代になっている。
「ああ、これは骨が折れていますね」といい、レントゲンを撮ることになった。
結果は、左足、小指から続く骨が、折れていて、大した骨折ではないけど、このままだと変形するので、ギブスを嵌めましょうと言うことになり、その場で、ギブスを作ってくれた。
この程度の骨折だと1週間くらいで次の骨が出来て、固まる筈だけど、無理に動かしたりすると、変形してしまうので、安静にしてくださいと言われ、連れあいの車で帰宅した。
もう痛みもあまりないというと、薬も無し、あとは、氷で患部を冷やせばいいそうである。
いま思うと、骨の折れた足で、ヒールの靴を履いて、電車に乗ったり歩いたりして、よく家まで帰ってきたものだと思う。
「痛くなかったんですか」と、医者も呆れていた。
「その時歩いたから、骨が少しずれちゃったんですね」とのこと。
でも、いまのうちなら、大丈夫だからと、慰められた。
ギブスを嵌めている間は、外出は出来ない。
なるべく、足を高く上げているようにと言われて、いま、椅子に腰掛け、その先に丸椅子を置き、その上に足を乗せた姿で、パソコンに向かっている。
夕べは早く寝たし、ホームページの更新もした。元気である。
別サーバーのサイトも更新、これでホームページは、全部で4つになった。
メカに弱い私であるが、ホームページも1年半絶ち、どうやら、ソフトも使いこなしている。
HTML言語も、ごく初歩的なことはマスターした。
あとは、内容を充実させること、いい観客に来てもらうことである。
絶対人には媚びない。いやな客は、お引き取り願う。
アクセス数の多少は気にしない。
虚構性を守る。
自分のためのサイトだから、責任も権利もすべて私個人にある。
その代わり、人の指図は受けない。
文字にすると、過激になってしまうが、集団の力を頼まず、たった一人で何かをやるには、そのくらい強気でなければならない。
でも、本当に大事なのは、私自身が愉しいかどうかである。
書きたいことは山ほどある。
今度はどのコンテンツを更新しようかと考え、ページのデザインや、レイアウトを考えるのも愉しい。
この楽しみがあったお陰で、私は昨年、一番つらかった時期をなんとか切り抜けることが出来た。


女友達
2003年08月24日(日)

昨日、足の痛みで、1日ごろごろしていた。
「整形外科に行こうか」と連れ合いに言われたのに、まさか骨が折れたりしているわけではあるまいと高をくくって、湿布を宛てていたが、痛みは治まらず、少し腫れてもいるようだ。
今朝になって、連れ合いが医療センターに電話し、救急の整形外科を教えてもらった。
「入院になるかも知れないね」と言われ、シャワーを浴びたり、御飯を食べたりしているうちに、痛みは薄らいでしまい、「救急の時はろくな医者がいないから明日行った方がいいよ」と言うことになり、今日はうちで安静にしていることにした。
いま思うと、一昨日、麻布で転けたとき、すぐに救急車を呼べば良かったのである。
あるいは、帰宅の途中で、駅長室にでも駆け込んで、「もう歩けません」と言えば、119番に電話ぐらいしてくれたかも知れない。
こういう事が出来ず、我慢してしまうのが、私の、見かけに寄らず気の弱いところなのである。
うちにいると、にわか主夫になった連れ合いのいらだちがよくわかる。
普段家の中のことは妻任せにしているので、いざ台所に立っても、何がどこにあるかわからない。
いちいち私に訊かねばならず、時間も手間もかかるので、だんだん眉間にしわが寄ってくる。
挙げ句の果ては口げんかになる。
「君はおとなしく寝てなさい」などと言うが、それが言葉だけである事は、行動でわかる。
いずれは私が後始末することを期待して、そのままにしていることばかりである。
家庭の平和は、私が元気であることが必要条件であることがよくわかる。
自分が病気になった時のことを考えればわかりそうなものなのに、そう言う想像力に欠けたのが、男というものらしい。
イヤ、一般化した言い方は、適切ではないだろう。
15年間、奥さんの介護をして、見送った人を知っているし、現在要介護のお連れ合いを、常に気に掛けつつ、連句の座に来ている人も知っている。
もちろん、人に見せる顔と、うちにいるときの顔が、そのまま同じであるとは限らないので、こういう事には、人にはわからない多少の修羅はつきものかも知れないが・・。
高校時代、陸上競技をやっていた息子に電話すると、「骨折にしろ、捻挫にしろ、なるべく早く処置した方がいいから、明日すぐ医者に行きなさい。お母さんは、こういう事にはグズいんだから」と、叱られてしまった。
さきほど、洗濯機の前で、まごまごしている連れ合いに、口で言うより手を出した方が早いので、私は、キャスター付きの椅子をごろごろ片足で移動させながら、洗濯場に行って、ボタン操作をしてきた。
この椅子は書斎の椅子だが、キャスター付きがこういう場合便利であることは、知っていた。
以前、ガンで歩けなくなった友人の家に行ったとき、家の中でやはりキャスター付きの椅子で、移動していたのを見たからである。
ただし、車椅子と違い、ホンの1センチほどの段差でも、引っかかってしまうので、そのときは、体を浮かせなければならない。
こんな事も、そういう身になってみなければわからないものだ。

昨日の夕方、友人から電話があった。
私は座敷で、横になっていたが、「あら、足を痛めてるの?そりゃ大変ね」といいながらも、私の声が元気なのを知ると、「ねえ、ちょっと訊いて頂戴よ」と、お喋りが始まり、こちらもそれに付き合って、小一時間喋ってしまった。
彼女は、ここ5年ほどシャンソンに凝っていて、二人の先生に付き、ちょっとしたライブにも、時々出演するほど腕を上げている。
一人は女の先生、もう一人は男の先生である。
彼女が時々鬱憤を晴らしに電話を掛けてくるのは、この男の先生を巡る女弟子の間のあれこれである。
美人で、頭が良く、芸大出の彼女は、基礎的な音楽能力が備わっているので、歌も、なかなかいい線まで行っているらしい。
だから、年下の男の先生からも、結構目を掛けられていた。
ところが、最近、強力なライバルが現れた。
彼女より10歳も若く、歌の実力はイマイチだが、どうも男の先生の気を惹くところがあるらしく、すっかりお株を取られてしまったという。
「とにかく、彼女は抜け駆けするのよ。先輩も後輩もないんだから」と憤慨している。
年一回の発表会で、彼女が歌うつもりでレッスンしてきた曲を、いつの間にかその女が自分の持ち歌にしてしまったという。
「それを事前に断りもしないの。ホント失礼なんだから」と怒っている。
先生のほうも、すっかりそちらの虜になっているので、頼まれるままレッスンをしてあげているらしい。
「私が歌う歌だと言うことは、先生はわかっているはずなのに・・」と、憤懣やるかたない様子である。
「そっちの彼女は団塊の世代なんでしょ。あの世代はダメよ。競争に勝ち抜くことで生きてきているから、そんな礼儀も、先輩後輩もないのよ。欲しい物は、人の物でも手に入れる人たちなんだから・・」と私も言いながら、彼女に同情した。
その先生は、そのギョーカイにしては珍しく、堅い人物で、弟子の扱いも公平だと聞いていたので、彼女の悔しさがよくわかった。
違う世界のことでありながら、共通する問題は、私の属する世界にもあるので、一緒になって、悲憤慷慨したのであった。
一人の女に目を奪われたとき、日ごろは理性的で、判断力のある男が、バランスを欠いた行動を取ってしまうことは、よくあることである。
そう言う意味では女はコワイ。
クレオパトラの鼻まで行かずとも、並の男が、ちょっと気の惹く女に心を奪われて、われしらず常識を欠いたことをしてしまうのは、私の周りにも見聞きする事である。
それが二人だけのことなら、第三者の知ったことではないが、集団の場に持ち込まれると、全体に影響してくるから困る。
「でもそういう女って、自分が悪いとは思わないし、反省のない人種だから、怒ってもダメよ。多分、向こうは、自分には関係ないと思ってるから、シラッとしてるわよ」と言うと、彼女も、そうねと言った。
ひとしきり喋ると、彼女もどうやら気持ちは少し和らいだようだった。
「もうあの先生に見切りを付けるわ」というので、「その方がいいわよ。そんな先生、幾ら才能があっても、指導者としては失格よ」と、私も言った。
団塊の世代が全部そうだとは言わないが、私も、この年代の女に何度か煮え湯を飲まされている。
虫も殺さないような顔をして、凄いことをするのが、この種の女の共通点である。
「素手でデモをした世代と、ゲバ棒を持った世代の違いかしらねえ」と、話は変なところに落ち着いた。
女友達というのは、つまらないグチをお互い、ゴミ箱になり合って、張らせるから良い。
ただし、横になったまま、フリーハンドの電話で長話した私のほうは、電話を切った途端、どっと疲れてしまった。

明日は、「頭痛肩こり樋口一葉」を、もう一度見ようと思って、チケットを買ってあったのだが、この足では行けそうもない。
千秋楽、きっと盛り上がって芝居の質も先週より上がっているはずだ。
前から5番目という最高の席である。
連れ合いは、別の会合と重なっている。
残念だが、せめて誰かに行ってもらおうと、6月にオペラのチケットをもらった人に、連れ合いが電話してみた。
家から歩いていけるところに、住んでいて、連れ合いのもとの職場仲間、夫婦で付き合いのある人である。
「飲み屋のたたきで転けちゃいましてねえ」なんて、よけいなことを言っている。
でも、「井上ひさしなら是非」と言ってくれたので、連れ合いがチケットを届けることにした。


祭りの夜
2003年08月23日(土)

昨日は麻布十番のお祭りに引っかけて、連句をやるという案内をもらい、出かけた。
麻布というのは、縁の深い場所である。
連れ合いの実家があり、私も新婚時代その近くに1年ほど住んでいた。
連れあいの母は賢母というか、孟母三遷を地で行ったような人で、連れ合いが麻布中学に合格すると、それまで住んでいた芝浦から、麻布に家を求めて引っ越した。
学校には歩いて行ける距離で、住まいの近くは、十番通り、六本木にも歩いて行け、住環境としては申し分なかったようだ。
俗に十番祭りというのは、氷川神社の祭りだが、父親がお祭り好きで、その時期が来ると、地元の人たちと、祭りの準備などに働いたという。
結婚して、私たちは、連れ合いの家から歩いて10分のあたりに、アパートを借りて住んだ。
そこを見つけたのは連れあいの母であった。
私は会社勤めをしていたので、何かあると姑の知恵を借り、何かと助けてもらった。
その頃は、週6日制で、休みというのは日曜日だけだった。
日曜日の夕食は、連れ合いの家で、母や弟と一緒にすることになっていて、時には、十番通りの寿司屋に行ったりした。
十番通りは、昔ながらの店が軒を連ねていて、私も、日常の買い物はいつもそこに行った。
生鮮食品は、新鮮で、質のいい物が多く、事に魚はとびきり良かった。
昨日、何十年ぶりかで行ってみたら、ほとんどの店は様変わりしていて、昔の面影はなかったが、魚屋や、蕎麦屋など、懐かしい屋号がまだいくつか目に入った。
お祭りも、昔はもう少し地味だったと思うが、昨日行ってみたら、地下鉄の駅のあたりからものすごい人出でビックリした。
浴衣姿の女の子、歩道にビッシリ並んだ屋台、真ん中の車道は歩行者天国になっていたが、人、人、人で、前に進めない。
目的の小料理屋にたどり着くのに、20分ぐらいかかってしまった。
昔見慣れた風景とあまりにも違ってしまっていたので、道を迷いそうになり、途中で屋台の人に尋ねたが、あまり知らない人が多かったのを見ると、屋台は地元の人より、祭りを当て込んだ、業者が出張して来ていたらしい。
昔は、外からの業者が繰り出してくることはあまりなかったそうだ。
ともかく、少し遅れて会場に着き、連句に参加した。
周りの喧噪が店の中にも伝わってきて、離れた席の人の声が届かなかったが、同じテーブルを囲んだ人たちとは、愉しく、酒を酌み交わし、連句にも、人並みに参加出来て愉しく終わりまで付き合った。
ここで、離れた席の人のところへ行こうとして、たたきに降りたとき、足を捻挫してしまい、その時はあまり痛みはなかったのに、帰るときになって、靴を履いたとき、痛みがかなり来ているのに気づいた。
人と六本木までタクシーに乗り、あとは地下鉄とJRを乗り継ぎ、やっとの思いで電車を降り、タクシーで家まで帰った。
もう深夜の1時近かった。
家に入った途端、歩けなくなってしまい、連れ合いの肩にすがってやっとベッドに横になった。
骨には異常はなさそうなので、湿布をして、いまは車付きの椅子で、家の中を移動している。
今日は、立ち上がっての仕事は出来そうもない。
連れ合いにちくちく嫌みを言われつつ、パソコンに向かっている。
麻布には、もっと静かな環境の時に、ゆっくり行ってみたい。


色さまざま
2003年08月20日(水)

今日の連句会は、「色」をテーマにした賦し物。
11時開始に合わせて、八丁堀まで行く。
参加者は25人、4つのテーブルに分かれた。
私のテーブルは、捌きが日を間違えて欠席したため、急遽別の人に代わり、少し遅れて始まった。
通常だと捌きが発句を用意してくるが、今日は、アクシデントのため、みんなで発句を出し合って、互選した。
形式は、歌仙。
色をどう扱うかは、席毎に自由なので、捌きの考え方でやる。
詠み込まれた色は、発句の銀鼠に始まり、レモン、赤、朱、闇、黒、茄子色、紺、茶、黄色、白、紅、透明、金、桜色、藍、青、緑、バラ色、さび色、など。
直接これらの色を出すのでなく、言葉や、間接表現で色を感じさせるのである。
私の句のひとつ、
紙芝居弁士の首の剃りの痕
青をイメージしている。
停電のあと増える人口
は黒い闇を表現しているという具合である。
話も弾んで、5時前に終わった。
連句の時、私はみんなで会話を愉しみながらやるのが好きである。
黙って一生懸命句だけを考えても、気分が高揚しないし、堅苦しい。
沈黙に耐えられずに、つい口を出すので、いつもほかの席から「うるさい」と言われる。
でも、賑やかにだべりながらやると、思わぬ発想が生まれたりするので、その方が愉しいと思う。
自分で意識せずとも、一見関係ないようなおしゃべりから、ひらめくことがあるので、おしゃべりは連句の必需品と思っている。
終わって、またいつものメンバーで、近くの飲み屋に寄り、1時間あまり、酒と会話を愉しんで帰ってきた。
この連句会は、しっかりした女性が仕切っていて、大変雰囲気がいい。
初めて行ったのは、もう8年ほど前になるが、私はまだ初心者で、いつもおどおどしていた。
その後数年遠ざかっていたが、昨年からまた復帰して、ほとんど皆勤である。
最近人数が増え、メンバーの顔ぶれも新しくなって、なかなか繁盛している。
圧倒的に女性が多く、男性はちらほら。
その少ない男性がみな、呑み友達なのである。
酒席に付き合いのいい女性はと言うと、半永久的、一時的独身者がほとんど。
上品な良妻賢母型の奥さん達は、早く帰り、私は独身女性や男の人たちと、飲み屋に行くのである。

昨日は、健康診断にいった。
結果は来週になるが、「酒量を控えなさい」と言われそうで、コワイ。
お酒はいいが、それにつれて、食べるので、最近体重がずいぶん増えたように思う。
もしドクターストップがかかったら、その後は潔く2次会は欠席する決心をしている。
22日は、また麻布のお祭りの中での連句に誘われたので、申し込んでしまった。
行けば呑まないわけに行かない。
医者の言うことは、それが終わってから訊くことにした。


森を去る
2003年08月18日(月)

雨も止み、気温も少し高いようだ。
一旦東京に帰ることにした。
雨の間、掃除もしにくく、そのままになっていたので、掃除機を掛け、ふき掃除もし、ゴミの分別もした。
車の掃除は連れ合いの役目、外で話し声がするので、見たら、奥のカナダハウスの夫婦が、車で出かけるところで、声を掛けてきたのだった。
「じゃ、お気を付けて」などと言って、どこかへ出かけていった。
西側の住人は昨日帰ってしまっていない。
奥のもう一軒は犬を連れてきていたが、やはり夕べ遅く帰ったようだった。
カナダハウスの人たちは、うちが来ている時は、いつも顔を合わせるので、しじゅう来ていると見える。
まめな人たちで、敷地内の木を拾って、細工物を拵えたり、アウトドアでバーベキューなどをするのが好きなようだ。
顔を合わせれば、挨拶する程度だが、いい人達だと言うことはわかる。
お互い領分を侵さない付き合い方を、理解出来る人たちである。

ゴミの始末をし、戸締まりをして出発したのは、12時40分。
道が混んでなければストレートで2時間半、食事などで寄り道すればその分かかる。
それは臨機応変にすることにした。
森を抜ける途中、ある家の前で、連れあいが車のスピードを落とした。
そこに繋がれている大きなシェパードが、一昨日、飼い主に殴られたり、蹴られたりしていたからである。
妙な鳴き方をするので、前から気になっていた。
雨続きで、犬も運動不足になって、いらだっているのかと思っていたが、そこを通りかかった時、イヤな光景を見てしまった。
「何であんな事をするの?虐待じゃないの」と私が言うと、「きっと躾をしてるんだよ。」と連れ合いが言うので、そうかとも思ったが、躾のために、殴ったりするのだろうか。
それからは、遠くで、どこかの犬の鳴き声がすると、その犬が、虐められているようで、気になった。
私は、犬も猫も飼っていないし、特別興味もないが、生き物が、人間によって、そんな仕打ちを受けているのを見るのはつらい。
徐行しながら様子を見ると、件の犬は、ベランダに繋がれて、おとなしく座っていた。
飼い主の姿は見えなかった。
私たちが知っているその家の主は、もう大分年を取っているはずだから、代替わりしたかも知れない。

新しくできた道を使って、少し近道しながら高速に乗った。
渋滞はさほどなさそうだった。
1時間ほど走って、パーキングに寄り、軽く腹ごしらえをした。
大きなトンネルが2カ所あり、そこで少し渋滞したが、あとはスムーズに流れ、4時に家に着いた。

一休みして、新宿サザンシアターに行った。
井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」を見るためである。
芝居仲間の友人と一緒。
この芝居は、15年ほど前に一度見ているが、主役の夏子役は、その時の方が良かった。
今回は、芸達者な幽霊役や、そのほかの脇役に比べ、存在感が薄く、すっかり喰われてしまっていた。
留守中、パソコンのウイルスチェックなど、連れ合いがすべてやってくれていたので、インターネットを少し愉しむ。
長い1日だった。


停電
2003年08月17日(日)

ニューヨークで起こった大停電も、修復されてきているようだ。
こういうアクシデントに付き物の掠奪などの事件もあまりなかったようで、良かったと思う。
停電で思い出すのは、1970年代中頃、ブラジルにいた時。
よく停電に見舞われた。
私の住んでいたアパルタメントは、16階にあり、停電すると、エレベーターが止まり、真っ暗になる。
自家発電が働き、駐車場のドアの開閉作動やや、最低限必要な明かりは確保されるが、部屋の電燈は消えたままなので、暗い中で、点くのを待たねばならない。
現地の人は馴れたものだが、長時間の停電という現象に、あまり馴れてない私たちは、はじめ、ずいぶん戸惑ったものだった。
ある時、子ども連れで遊びに来た人がいて、一緒に食事していると、突然停電になってしまった。
しばらく待ったが、一向に明かりが点かない。
ハウスキーパーに訊くと、「さあ」と首をすくめて、ケロッとしている。
1時間も経って、ついにしびれを切らせた客人が、帰ると言いだし、子どもの手を引いて、16階の階段を降りてしまった。
表玄関はエレベーターでしか出られないのでダメだが、裏口は、階段がある。
「真っ暗だし、踏み外して怪我をするといけないから、もう少し待ったら」と言ったが、訊かずに降りていった。
幸い無事に下まで辿り着いたらしかったが、真っ暗な部屋で、待っているのは、耐えられなかったのであろう。
停電でなくても、ブラジルの電球は、よく切れた。
電球はまとめて買っておくが、持ちが悪くて閉口した。
一番ひどいのは、買ってきて取り替えた電球が、3分も経たずに切れてしまったことである。
長くても、ひと月保ったものはない。
店に行くと、取り替えてくれることもあったが、電球はそんな長持ちするもんじゃないと言うことになっているらしく、店のひともケロッとしていた。
こんな話はごまんとある。
30年も経って、記憶の底に沈んでしまったが、覚えていることもある。
いつかそんなことも、書きたいと思う。

夕べから、このあたりも、人口が減りつつある。
今日も、一軒明かりが消えた。
Uターンのラッシュを避けて、深夜に発つ人もいる。
私たちは、明日東京に帰ることにした。
買い物は、14日にしたまま、間に合わせてしまった。
いつもは、湖の近くのレストランで、一度くらい食事を愉しむことにしているが、寒さと雨の中、そんな気分にならず、手持ちの食料で済ませてしまった。


森の癒し
2003年08月16日(土)

昨年の今頃、一体どんなことを考えていたのかと、古い日記を読み返してみたら、「森の癒し」について、何度か書いていたのだった。
やはりここ信州に来て、静かな暮らしの中で、感じたことや思ったことを綴っている。
昨年は、ホームページを別のサーバーで作っていて、まだページ数も多くなく、連句の付け合いも、さほど頻繁ではない。
7月に、つらいことがあって、わたしの心はカミソリで切られたようになっていた。
正当な理由なく、ひとから疎外されるという経験は、大人になってはじめてだった。
こちらの問いかけに応えはなく、そのまま、捨て置かれた。
傷口は思いのほか深く、ここに来ても、そのことから解放されなかった。
時間が経って自然に解決されるという種類のことではない。
はじめの段階で、誠実な対応をされずに来たことは、いつまでも尾を引く。
昨年は、暑い夏で、高原の気温も高かったが、ここまで来ると、日陰はひんやりして別世界だった。
持ってきたパソコンは、95型のノートパソコン、まだダイヤルアップだったので、インターネットもままならず、時間を気にしながら日に一度だけ開けてみるという具合だったので、ちょうど良かった。
毎日、付近を歩き、森の木を眺めたり、虫、鳥の声を聴きながら過ごした。
東京と信州を何度か往復し、森の自然に触れているうちに、だんだん心が癒されていったようだ。
8月の終わりの日記は、少し元気な文章で終わっている。
それからちょうど1年経つ。
問題は何も解決されていないし、一度絶ちきられた人の繋がりは、元には戻らないし、心の傷も、すっかり癒えたわけではない。
でも、こうして森の生活に戻って過ごすうちに、そんなことは、無理に解決しようとしなくてもいい、傷は傷のままでもよいと思うようになった。
傷を負わせた相手だって、それで幸せというわけではあるまい。
どんなに自分を正当化しようとしても、まともな人なら心のどこかで、ちくりと蘇るものがあるはずだからだ。
せめて、そう言う人であると思いたい。
いい思い出も少なからずある。
私自身のために、それは汚さずに取っておきたい。

今日は久しぶりに晴れた。
付近を少し散歩した。
同居人である私の秘書兼カメラマン兼ボディガードと、森から続く公園や、小川のほとりを歩いた。
昨年、同じ場所で、ある野党政党の大物と会った。
向こうには、複数の連れがいた。
すれ違う時、私たちは、森で人と会う時の礼儀として「こんにちは」と声を掛けた。
すると向こうは、ちょっとビックリして、挨拶を返しながら探るような目で、こちらを見た。
本能的に、相手が敵か味方かを察知しようとする目が、身に付いているのだなと思った。

ローカルテレビで美空ひばり特集を見る。
私はこの人を、ジャンルを問わず、日本が生んだ戦後最大の歌手だと思っている。
晩年近くの彼女の歌は、完成度が高く、オペラアリアから、都々逸まで、並の歌唱ではない。
音域が広く、声のコントロールが良く、どんな歌も、自分の歌にして消化している。
天から授かった才能だろう。
加藤一枝としては、あまり幸せではなかったらしいが、あれだけの素晴らしい歌を残している。
ひばりの名は、永久に消えることはあるまい。


終戦の日
2003年08月15日(金)

国民学校1年生で終戦を迎えた私は、玉音放送も、終戦の日の具体的な記憶もない。
むしろ記憶に鮮明なのは、「その後」である。
父の郷里に世話になっていた時の、母や祖父母、父の兄弟達との思い出、国民学校が小学校になってからのさまざまな出来事である。
東京から疎開してきた子どもは、いじめの対象になったし、食べるものや着るものについて、若い母は、父のいない婚家で、ずいぶんつらい思いをしたはずである。
その一部は、エッセイのページに載せているが、私にもいくつかの記憶の断片があり、しっかりと心に刻まれている。
戦争から帰ってきた父の痩せて小さくなった顔、化粧をするなと父に叱られて、泣いていた母のこと、母の着物を父の妹が着ていて不思議に思ったことなど、それら小さな事柄は、どこかで関連づけられていたに違いないが、子どもの理解を超えたことであった。
いまになって、記憶を繋ぎ合わせ、母の話などから、そうだったのかとわかることも、少なくない。
冬の寒い朝、東京での生活の基盤を作るべく、父は九州の小駅から旅立っていった。
母と私たち3人の子どもは、駅まで父を見送りに行った。
いま思うと、その時の父は35歳、現在の私の息子より若い。
戦争に行き、命あって帰ってきて、戦後の混乱の中で、子どもを育てたことになる。
父母の世代と、その子どもである私の世代と、何という体験の格差かと、驚く。
やがて東京で職を得て、下町の小さなアパートに住まいをしつらえ、父は家族を呼び寄せた。
そこで、もう一人妹が生まれた。4人きょうだいになったのである。
ここで、3年間暮らし、もう少し広い住まいを得て、引っ越した。
このへんの話は、いずれ書くこともあるだろう。

今日のテレビは、広島、長崎の記録も含め、人類が作り出した、核の問題を特集していた。
8年ほど前、丸木美術館で見た絵のことを思い出しながらテレビを見た。
吉永小百合の朗読、井上ひさしのメッセージが、印象的だった。


豪雨
2003年08月14日(木)

夕べから、ものすごい雨である。
台風が来ているのかと思ったが、そういうことでもないらしい。
こんな天気では、とても外に出る気にはならないが、連れ合いが買って置いた食糧が、尽きてしまったので、午後からスーパーに行った。
車で15キロほど行ったところに「西友」がある。
日用品、食料品、電気製品、ちょっとした衣類や寝具、簡単な家具などは、ここで買える。
果物、野菜、魚、肉、パンと牛乳、調味料、酒、それにティッシュペーパー、洗剤など買い込み、雨を気にしながら車に積み込んだ。
そのまままっすぐ帰って来た。
夕食にはカレーを作る事にした。
煮込み用のホーロー鍋に、具を仕込んで煮込み、さあカレールウを入れるという段になって、気が付くと、ルウがない。
いつも、こういうものは、常備しておくので、あるものと思いこんでいたが、そう言えば昨年、調味料やカレールウ、乾物、缶詰など、古いものは処分し、あとのものは全部、東京に持って帰っていたことを思い出した。
「隣から借りてこようか」と連れ合いが言う。
我が家の少し奥に、カナダハウスがあり、そこの住人とは、同じ頃家を構えたこともあって、会えば挨拶くらいはかわす間柄である。
いま、夫婦で来ていることはわかっている。
カレールウぐらいはストックしているかも知れない。
しかし、豪雨の中、暗くなった道を、懐中電灯を頼りに、奥に入っていくのも大変である。
カレーは明日でもいいからと思い直し、ほかのもので夕食を済ませた。
連れ合いは、巨人戦を見ながら食事を済ませると、少しパソコンをかちゃかちゃやって、寝てしまった。
いま、インターネットは、新種のウイルスがかなりはびこっているらしい。
しかし、こちらに置いてあるウインドウズ98は、そのウイルスには感染しないと言うので、私も連れ合いのパソコンに、自分のパスワードを設定して、ログインしている。
ネット用のメールはこちらで使えるし、標準アドレスのメールも取り込める。
ホームページも、webに表示されているページは、どこからでも見えるし、ゲストブックや連作用の掲示板などにも書き込めるので、支障はないが、ドキュメントを入れてこなかったので、日記や、ホームページの更新は出来ない。
仕方ないので、日記はメモ帳に書き込んでいる。
帰ったら、ソフトに移して、まとめてアップロードするつもりである。
ウイルスは困るが、私にとっては、「歓迎すべからざる客」に、土足で踏み込まれる方が、もっと困るし、不愉快である。
友好関係にない人のホームページなんか、わざわざ見に来ることはないではないか。
核査察じゃあるまいし、毎日の張り込みもご苦労なことだ。
昨日、不愉快メールが来た。
メールで人を傷つけ、それをメール一本で修復出来ると思っている。
ひとを甘く見ている証拠である。
バカな!
送信者禁止欄に、そのアドレスを入れた。
いっぱいになったゴミ箱から、それも含め、まとめて削除した。

終戦の日が近づいて、テレビは毎日特集を組んでいる。
うっかりして「冬のソナタ」を見逃すところであった。
あと2,3回で終わる。

雨に降り籠められて手持ちぶさたなので、しばらく休んでいた独吟を開始することにした。


森林浴
2003年08月13日(水)

昨日は怒りのあまり、つい、JR批判をしてしまったが、最後に付け加えることを忘れていた。
差し迫った状況を察知して、素早く対応してくれた窓口の人のことである。
5分後に来る特別快速に乗らなければ、私は目的の列車に間に合わないところであった。
私の前に並んだ10人ほどの客、誰かが文句を言えば、先に受け付けることも手間取ったに違いないが、その駅員は、その場では、特にそれを気にすることなく、事務手続きをしてくれた。
「皆さん、済みません」と私は先客達に言ったが、誰も無言ながら、仕方がないと思ったらしく、自分たちを飛び越しての事務手続きを見逃したようであった。
こんな時、ラテン系の人なら、何か言葉を掛けるところである。
ともかくも、駅員と、消極的協力をしてくれた先客達のお陰で、私は、列車に乗り遅れることは免れたのである。
かかった時間は正味2分ほど、コンピュータの入力が終わって切符が出てくるまでの時間の何と待ち遠しかったことか。
慌ててそのまま立ち去ってしまったが、あの駅員には、素直に感謝したい。

今日は、森の中を散策した。
晴れ間が見え、少し汗ばむほどだった。
歩くコースは大体決まっている。
家の前からなだらかな坂を下り、間道を抜けて幹線道路に出る。
渡って、売店に行き、ちょっとした食料品など買う。
お盆の時期は、朝市が立ち、土地の野菜、果物、日用品、ドライフラワーなどを並べて売る。
15年ほど前には、値段が安く、素朴な自然野菜などが手にはいるので、いつも出かけたものだった。
土地の人が漬けたたくあんや野沢菜、梅干しも魅力だった。
しかし、いつの頃からか、品物がスーパーにあるようなものになり、値段も観光料金になってしまったので、この頃は行かない。
散歩の途中の昼下がりの売店には、あまり買うものもなかったが、珍しい皮の赤いジャガイモ、それにパンとジャムを買った。
帰りは、逆のコースである。
坂を少し上り、森に入り、大回りして、違う道を行く。
俳優のT氏の家の前を通り、少し下ると、我が家である。
今頃は、例年なら周囲の家も、みな誰か来ているのだが、今年はなぜか、人が少ないようである。
天候不順なことも影響しているのかも知れない。
標高1100メートルのこのあたりは、気温が平地より5度ぐらいは低そうである。
カット照りつける夏の日差しの頃に、その良さを発揮する。
どんなに下界が暑くても、28度を超えることはないように思う。
晴れた日に家中を開け放ち、窓もドアも開けたままにしておくと、木々の間からさやさやと吹いてくる風が、虫も鳥もついでに運んできて、家の中を横切っていく。
そんなときが最高だが、今日あたりはそんな感じではない。
もう6年前になるだろうか。
乳ガンの手術をした友人が、森林浴をしたいといって、来たことがあった。
近くのペンションに1泊、私の家で1泊して、帰っていった。
1年半後、彼女はガンの再発で死んだ。
絵の好きな人だったので、車でマリー.ローランサン美術館、ガラス細工のある北沢美術館に案内した。
彼女は、私のロンドン在住中も、巴里からの帰りだと言って、訪ねてきた。
そんなことを思い出す。
想い出の中の人は、いつまでも若く、美しい。


DNA
2003年08月12日(火)

蓼科の小屋にいる連れ合いに電話する。
6月から光ファイバーを導入、プロバイダーが代わり、それにつれて電話のひとつをIP電話にしたので、市外はなるべくこちらを使う。
ずいぶん料金が違うようだ。
向こうからは呼び出し音があって、何回か鳴らして切ると連れ合いの電話の合図である。
そこで、こちらからかけ直す。
「まだ来ないのかい」と言っている。
1週間ひとりでいると、自炊生活も飽きたのかも知れない。
私のほうは、暑さを我慢すれば、東京での一人暮らしは、なかなか快適だが、一昨日で、行事が一段落し、今週は暇なので、行くことにした。
朝、インターネットで特急「あずさ」を予約、午後4時32分八王子発の切符が取れた。
最寄り駅から八王子まで、30分見ればいい。
切符をみどりの窓口で受け取る手続きがあるが、10分か15分くらいあればいいだろう。
そう計算して、留守中の新聞の留め置きを頼んだり、ゴミを出したり、家の中を少し片づけたりし、パソコンの電源も切って、3時ちょっと過ぎ、家を出た。
ボストンバッグとリュック、ウエスとポーチくらいの荷物である。
駅に着いたのは、3時20分、少し早かったなと思いながら、みどりの窓口に行って驚いた。
長蛇の列なのである。
みな、お盆休みの帰省の切符などを取るので並んでいるらしい。
駅員に「もうインターネットで予約してあって、受け取るだけなんですけど」というと、そこに並べという。
仕方なく、列の最後尾に着いた。
八王子までの中央線に乗るには、4時がぎりぎりだが、40分近くあるから、大丈夫だろうと思った。
しかし、切符の窓口は3カ所あるものの、見ていると一向に列が進まない。
これから乗る客と言うより、むしろ、翌日以降の切符の予約に来ている人が多いように見えた。
駅員は、一人一人、時刻表を見ながら丁寧に応対していて、一人5分ぐらいかかっている。
この調子じゃ、「あずさ」に乗り遅れてしまう。
列に荷物を置いたまま、2人ぐらいの駅員を見つけて、「並んで待っていたのでは列車に遅れそうだから、何とかなりませんか」と言ってみたが、あくまで「並ぶことになってますから」との一点張りで取り合ってくれない。
じっと我慢したが、ついに、時計の針が4時を指そうとしている。
私の前には、まだ10人の客がいる。
予約してある切符を受け取るだけなのに、何で乗り遅れなければならないのか。
茅野駅の到着時間には、連れあいが車で迎えに来ることになっている。
その列車を逃したら、次は何時になるのか。
たまりかねて、窓口がひとつ空いたところを見て、ロープ越しに声を掛けた。
「皆さん並んでいらっしゃるのに、大変申し訳ないんですが、4時32分八王子発の特急券をインターネットで予約してます。
受け取るだけなんですけど、ダメですか。
もう40分並んでます。いまから行って間に合うかどうかぐらいなんですけど」
窓口の係は、時計を見て、席を立ち、私をロープの中に入れてくれた。
「ちょっと待ってください」と言って席を立ったが、すぐに戻ってきて「5分後に特別快速が出ます。それに乗れば間に合います。」と、私の予約のメモを見ながら、すぐに、コンピュータを弾いてくれた。
切符が出て、クレジットカードで支払い、列の先客に「済みません。ごめんなさい」と挨拶し、「あと2分ですよ」との声を背に、荷物を持って階段を駆け下りた。
同時に中央線特快がホームに滑り込んできた。
乗り込んで席に掛けて、ドット汗が出てきた。
何だか腹が立って仕方がなかった。
わざわざインターネットで、クレジットカードの番号まで書き込んで登録し、予約している。
予約番号も名前も入っている。
窓口で、「何日の何時頃の列車ありますか」なんて、時刻表まで調べさせて切符を取っている悠長な客と、なぜ一緒くたに扱うのか、窓口をわければ済む話ではないか。
ハイシーズンには、窓口が込むのは仕方がないが、なぜもっと臨機応変に出来ないのか。
「当日用」と「翌日以後」と、手続きをわければいいのである。
それに、イオカードなどを販売している駅員だって、急いでいる客のために、何とかしてくれたっていいではないか。
私の仕事ではありませんといった感じで、客の身になって考えようとはしなかった。
その駅には「何か解らないことがあったらどうぞ駅員まで」と書いてあった。
40分も待った挙げ句、予約の列車に乗り遅れたら、どうしてくれるのか・・。
予約番号を持っていれば、すでにコンピュータに入力されているはず、直接乗って、列車の車掌が手続きすればいいではないか。
そんなことを反芻しながら、憤懣やるかたない気持ちでいるうちに、電車は八王子に着いた。
一旦ホームにおり、幸い同じホームに目的の列車が来ることがわかってホッとした。
4分後、「あずさ」が到着、無事、乗ることが出来た。
巡回のサービスで、熱いコーヒーを頼んで、やっとホッとした。
到着駅には、連れあいが待っていた。
切符の受け取りに40分もかかって、危うく乗り遅れそうになった話をし、怒りをぶちまけたら、「だって国鉄時代のDNAで動いてるんだもの、そう簡単に体質が変わる訳じゃないよ」と連れ合いは言った。
「折角インターネットで予約という最新のシステムを取り入れていても、現場は、旧システムで動いてるんだろうね」と笑っていた。
私は、ネット上で、特定団体、個人の実名を上げて誹謗中傷めいた事を書くのは、ルールに反することを知っているし、いままで、このたぐいのことは書いたことがない。
しかし、今回は、特定団体と言うにはあまりに巨大な鉄道の話、ちっぽけな私のような女が太刀打ちしても叶わない相手であり、実際に体験したことだから、敢えて書かせてもらった。


「杜若」
2003年08月10日(日)

連句でご縁のある人から招待券を送られたので、国立能楽堂に行った。
金剛流の演奏で、出し物は「杜若」。
私は能楽には、詳しくないが、年に一度、こうした機会にめぐまれる。
知った顔もちらほら見えて、それぞれカップルや、グループで来ていたようだ。
正直、途中で少し眠くなってしまったが、たまにはこういう古典芸能に接するのも悪くない。
終わって、招待券を送ってくれた人に挨拶して、会場を出た。
駅までの道筋にある喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。
歩道に向かった席に座っていたら、知った人が何人も横切っていくのが見えた。
夫婦ではないが、それぞれ連れあいを亡くし、応援したくなるような年配のカップルもいた。
私に気づき、二人が手を振った。

能では、何年か前に見た観世流の「道成寺」が印象に残っている。
見せ場があるし、鳴り物も華やかで、面白かった。
古典芸能では、文楽が割合好きだ。
最近あまり足を運ばないが、ひと頃はよく行った。
国立劇場の文楽、この秋には行ってみたいと思っている。
私の好みでは、近松の世話物が、やはりいい。

今月に入り、6日9日と、二つの原爆の日を迎えた。
広島で私の叔母が死んでいる。
母のすぐ下の妹で、未婚のままの死であった。
数年前、中国新聞が調査して、爆心地でなくなった人の名前がかなり明らかになった。
母の実家は、爆心地のまさに真ん中、中島本町にあった。
両親と他のきょうだいが、田舎に行き、一人留守番をしていたその叔母が、犠牲になった。
跡形もなくなった場所で、どこの誰ともわからぬ骨を拾って、葬式をした。
私は、父の出征したあと、弟と、生まれて2歳の妹と共に、母に連れられて、福岡県の父の実家に疎開していた。
原爆が投下されて2ヶ月後、母は私を連れて、叔母の葬儀のために広島へ行った。
その時の、広島の光景は、私の目にはっきりと焼き付いている。
真っ黒な立ち木と、瓦礫の山、その中で、路面電車が走り、人々が行き交っていた。
まだ残留放射能もあったに違いないが、そんなことは、知るよしもなかった。
40代に入って、私は広島在住の友人を訪ねて、広島に行った。
その時原爆資料館に行き、幼い時に見た光景が蘇ってきた。
その後2度、広島を訪れている。
必ず、いまは平和公園になっている、母の実家のあとに行く。
エノラ.ゲイが旋回を始めた時刻、地上では人々の日常が息づいていた。
一瞬にして、10数万という人の命が失われ、生き残った人も、悲惨な苦しみの中で次々と死に、いまも後遺症に悩まされている。
こんな事は、絶対に赦されない。

一墓下の骨の声聴く晩夏かな
叔母の忌やわけてもしるき蝉の声


神の手の広げしもの
2003年08月09日(土)

台風が北上しつつある。
東京も、夕べからかなりの雨に見舞われた。
今朝一旦止んだが、昼近くになって、また猛烈な風雨である。
午後からの連句の会に行くことになっていて、しかも捌きを引き受けたので、休むわけに行かない。
家を出た時は、ちょうど雨の一番激しい時であった。
すっぽり隠れる長めのレインコート、長靴で完全武装して、バス停まで歩いた。
激しい風に、何度も傘を取られそうになったが、無事バスに乗り込み、渋滞もなく、幸い電車の遅れもなくて、無事、時間内に会場に着いた。
集まった人は、男女5人ずつの10人。いつもより少ないのは、台風の故か。
二つの席に分かれて始まった。
私のところは男性3人に、女性が私ともう一人。

神の手の広げし秋の夕焼けかな

これを発句に始まった。
これは昨年、あるインターネット句会に出すはずが、締め切りに遅れ、選句外になった句を作り直したもの。
原句は夏で、神の手の空に広げし夕焼けかな という句だった。
この句会は、とても趣向が面白いので、途中まで参加していた。
アドレスが変わり、しばらく知らずにいた。
偶然わかって、参加申し込みをし、6月まで半年ほどまた参加させてもらった。
しかし、7月からまたアドレスが変わったらしく、なぜか私には、知らされないので、今は、参加していない。
残念だが、閉ざされた門をこじ開ける趣味は私にはない。
これも、バーチャルな世界と、現実とを一緒にしたたぐいの、ひとつの現象であろう。
私の周囲にいて、私と親しくしている人たちを片端から誘いながら、敢えて私だけを排除するという、子供じみた「イジワル」な仕打ちをする人というのを、私は理解出来ないが、向こうには、そうせざるを得ない、隠れた理由があるのであろう。
そんなことに遭遇するたびに、つらい思いはするが、逆に、そのことがバネになって、創作上のモチーフになり、また逆境を跳ね返す力にもなるのだから、人生そう捨てたものじゃない。
この一年、そんなことも含めて、私には、理不尽に人から疎外され、拒否されるという、つらいことがあった。
そのための涙も1リットルくらいは流しているが、失ったものより、多分、それで得たこと、わかったことの方が大きいと、今は思っている。
この1年で私の連句は、自分で言うのは変だが、飛躍的に伸びたと思う。
「前とずいぶん変わった」と何人かの人から言われた。
「鬼気迫るものがあったね」という人もいる。
それが何の故かと言うことは、わたしの心の問題だから、人には言わないが、表面だけの平和や、不正義の世界に安住していたら、いまの私はなかったということは言える。
これはひとつの例である。
人間のいるところ、どこにでもある誤解や、嫉妬、軋轢、悪意。
人の目、人の評価はどうでもいい。媚びることもしたくない。
私らしさを大事にし、いつも、いまの自分が一番好きだと思いたい。
人から裏切られても、自分で自分を裏切ることだけはすまいと、こころに決めている。
例えそのために、不利益を被り、つらいことになったとしても、そんな私を理解し、思ってくれる人が5本の指くらいはいるからそれでよい。

今日の連句は、短歌行(24句)の形式でやった。
ゆっくりと丁寧に、5時間足らずで巻き上げた。
7日8日は、江ノ島で泊まりがけの連句会があった。
愉しい人たちばかりの男女17人夏物語は、幹事の献身的働きのお陰で、愉しくいい想い出になる会だった。
台風直前の好天気、折角江ノ島まで行って、泳ぎもせず、海にも行かず、朝から夜中まで連句に浸って過ごした。
今日は、それに引き続いての連句である。
疲れもあって、少しばかり頭の回転が鈍くなっているものの、まあまあ満足のいく出来となった。
夕方6時、終わって外に出ると、まだ少し雨が降っていた。
2人は帰り、あとの8人で駅近くのビヤホールに行って、食事した。
話が弾んで2時間、店をあとにした。
もう雨はすっかり止んでいた。


ヘアスタイル
2003年08月05日(火)

むさ苦しく伸びた髪を気にしつつ、なかなかまとまった時間が取れずに・・・と言うのはいいわけで、本当は無精なだけなのだが、明日は連句の会があるし、あさっては江ノ島連句合宿があるので、少しさっぱりしたいと、美容院に行った。
美容院に行くのが億劫なのは、もうひとつ理由がある。
パーマをかけない私の髪は、カットだけで、スタイルを決めねばならない。
ところが、これがなかなかうまくいかないのである。
いつも、今ひとつの処で気に入らない。
この10年ほどの間に、ぴたりと、こちらの要求どおりに仕上げてくれた美容師は、5本の指に満たない。
あとは、妥協するか、あきらめるか、理想の美容師を求めてあちこちハシゴするかである。
5年前、駅まで行く途中の、小さい美容院に行ったことがあった。
やはり、その前まで行っている美容院が気に入らないので、変えてみようと、あまり期待せずに入ったのであった。
ところがここで、素晴らしいカットをしてくれた美容師がいたのである。
「洗いっぱなしでも、どんな姿勢になっても、ちゃんと元に戻るような形にしてください」という私の注文を受けて、その通りに仕上げてくれたのである。
若い女性の美容師であった。
それからいつもそこに行って、カットしてもらっていた。
ところがある日、行ってみると、その美容師はほかに移ったとかで、もういなかった。
このギョウカイは、経営の違う店に移る場合は、行き先をお客に言わないことになっているらしく、「わかりません」という店の返事であった。
それから、別の店を探したが、どこに行っても、あまり気に入るカットには仕上がらなかった。

昨年夏、最寄り駅の近くに、新しい美容院が出来た。
キャンペーンを張っていて、割引券をもらったので、試してみようと入ってみた。
ここで私は、二人目の、理想の美容師に巡り会ったのである。
今度は、男の人。
美容師のランクによって値段が違うというので、折角だからと、店長の次にランクされている美容師を頼んだ。
ライオンのような金髪を肩まで垂らしたその美容師は、私の注文を聞くと、「かしこまりました」と言って、助手の女性に指示して、まずヘアマニキュアをしてくれた。
それが済むと、カットに取りかかった。
鋏の細やかな使い方に、ビックリした。
私の髪が、繊細な薄ものの生地を扱うがごとき、なめらかな動きで、魔法のように、整えられていく。
私は眼鏡を掛けるので、耳に架かる髪が、いつも収まりが悪いのだが、それも、少しも気にならないカットの仕方で、スタイルを作ってくれた。
ところが、その次に行くと、新しくできた別の店に変わったと言うことで、その人はいなかった。
そちらの店に、行けないことはないが、ちょっと遠く、不便である。
しばらく別の美容師の手で、カットをしてもらっていた。
しかし、やはり、あの美容師には及ばないので、今日は、思い切って、バスに乗り、そちらの店に行った。
昨日予約を入れておいたので、すぐに鏡の前に案内された。
1年前のことなので、覚えてはいないようだったが、今日も、いい感じで髪型が決まった。
出世したと見えて、ランクが上がり、料金が1000円高くなっていたが、満足して帰ってきた。
髪型ひとつで、人はずいぶん印象が変わる。
外国にいた時も、美容院には苦労したが、お客のいいところを最大限生かして、仕上げてくれたのはブラジルの美容院。
美に対する感覚が、違うのである。
その代わり、シャンプーは石けん分が残ったままだったり、細やかな技術は、劣る。
しかし、お客をこれ以上ないくらいに、素敵に仕上げてくれるセンスは、素晴らしかった。
奥さんだからとか、いい年だからというような先入観は一切持たず、押しつけがましいことも言わずに、髪型を作ってくれるのが、一番良かった。
イギリスは、日本と似ている。いかにも、奥さんは奥さんらしく、無難に仕上げてくれる。
安心だが、冒険心に欠け、感動がない。
美のセンスは、ラテン系のほうが、数段上だと思った。


暑い!
2003年08月03日(日)

気温としては、それ程でもないのだろうが、ずっと梅雨寒の日が続いていたせいか、急に暑くなったようで、こたえる。
「こんな雨ばかりじゃ、行く気にならないよ」といって、出かける気配のなかった連れ合いが、明日から蓼科の小屋に移るべく、支度を始めた。
夏休みにもなり、昨日あたりから、あちらも、人口が増えていることだろう。
例年なら、とっくに東京脱出しているところ、梅雨が長引き、私は、東京での予定が詰まっているし、連れ合いのほうも、会合が重なって、まだ腰が上がらずにいた。
今回も、私は、6日連句、7,8は江ノ島での連句合宿、9日、新宿で連句、10日は、国立能楽堂に招待されているので、東京を離れるわけに行かない。
二人の予定が合わないので、とりあえず明日は、連れ合いだけ先に行くことになった。
11日には、私も特急あずさで追いかけることにしたが、18日には井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」という芝居の切符を買ってあるので、そのために帰ってこなければならない。
連れ合いが、リタイヤしたら、夏のうちは、ずっと信州で過ごすのが、当初の計画だったのに、自由な身になってからのほうが忙しい。
少なくとも私は、連れ合いの現役中は、そちらに合わせて長年生活していたので、今頃になって、自分中心の生活が主となり、夫婦別行動が多くなって来たのは、何とも皮肉なことである。
元気で、自由な時間があるという証拠だが、本当は、もう少し、ゆっくりしたいものだ。

ホームページの改装を思い立ち、手を付け始めた。
時々、気分を変えたくなるのである。
壁紙を張り替え、写真や画像を入れ替え、レイアウトを変えたりしていると、面白くて、時を忘れる。
私のページは、連作の掲示板は例外として、全くの個人サイト。
どんなコンテンツを入れるか、また何を外すか、自分の意のままである。
知っている人には、こちらからはアドレスを教えないことにしているので、どこからか検索して、こっそり覗いている人があったとしても、それは、向こうの勝手、私のほうは、あくまで、ネット上の見えない相手に向かって、発信している。
市井で平凡に生きている女が、自分の頭の中で思いついたことを、どう書こうが、一吹きの風ほどの影響力があるわけではないのである。
ホームページなどというものを作るようになって1年半、二つのソフトを使い分け、複数のサーバーに分けて表示しているが、ファイルの中身も、大分ダブってきた。
全部合わせると、100ページくらいになる。
テーマによって、サイトを分けてみようかと、ファイルを見直している。
削除するものはひとつもないが、あちこちでダブって公開しているものを、整理することにした。
今日は、いつの間にかたまってしまった画像を、思い切って、かなり削除した。
それだけでも、空き領域が増えた。
信州に行っている間には、ディスプレイを修理に出さねばならない。
突然、画面の上の方に黒い横線が入ってしまい、メーカーに訊いたら、直るというので、入院させることにした。


「農民の歌」
2003年08月02日(土)

梅雨明け宣言は出ていないようだが、今日は久しぶりに晴れた1日だった。
気温も30度を超えるほど。
合唱の練習で、オリンピック青少年センターへ。
連れ合いと私は、大学時代、同じ混声合唱団にいた。
今年は、その合唱団の定期演奏会が50回目にあたるというので、ここ数年、OB、OGの集まりも活発になっている。
毎年秋に、現役団員との交歓会に、何曲かを歌うことになっていて、今年は、清水修作曲の「農民の歌」。
方言がそのまま歌になっていて、それを音楽的に美しく歌うのは、かなり難しい。
アカペラで、リズムがよく変わる。
現役時代も難しかったが、それから40年も経って、声も、リズム感も悪くなっているので、なかなかうまく合わず、指揮者が苦労していた。
午前中2時間の練習が終わり、みんなで食堂の昼食を摂って、散会した。
来年の定期演奏会には、OBにもワンステージどうかという声があって、モーツァルトのミサをやることになっている。
還暦を過ぎる年になり、仕事や子どものことから解放され、また、こういう遊びを愉しめるようになって、嬉しい。

2年前、プロのオーケストラ付属の合唱団に入っていたことがある。
オーディションを受けて、入団したが、あまりに練習がきつく、とても楽しんで歌うところではないと悟り、3ヶ月で辞めた。
毎週一度、夜2時間半の練習の他に、演奏会が近づくと、土日を含め、週3回の練習、しかも、演奏会の度に、出演オーディションというのがあり、それに合格しなければならない。
もちろん原語で暗譜、指揮者や、パートリーダーなどの前で、一人ずつテストを受けるのである。
入団した時、ベートーヴェンの「ミサソレムニス」の練習に入ったところだった。
9月の演奏会に向かって、6月からハードな練習が始まった。
12月の「マタイ受難曲」の練習も併行して始まっていた。
「ミサソレ」のオーディションは、8月の終わり頃。
だんだんみんなの目が血走ってくるのがわかる。
周囲は、みな競争相手なのである。
6月から入団した私たち新人は、最初のステージには、ほとんど出られないといわれたが、何でも経験と、受けてみることにした。
「ミサソレムニス」はラテン語、フーガの難しい箇所がある。
当日は、私は連句の合宿の帰り、リュックを背負ったままの姿で、試験場に行った。
行ってみてビックリした。
皆、数日前から、有料の練習場を借りたり、アルバイトのピアニストを頼んだりして、練習を重ね、試験に臨んでいるのである。
服装からして、違う。
旅行先から、そのままなどという不心得者はいないのである。
さんざん連句で愉しんで、私のアタマは、空っぽに近い状況だったので、試験など受かるわけはないのである。
指揮者が指定したページを、はじめはパート一人ずつの4人で歌い、次に、女性2人、男性2人に分かれて歌った。
中断せずに終わりまで歌ったものの、結果は聞かなくてもわかった。
36人の新人のうち、合格したのは、8人。
私のパートのアルトは2人だけ、いずれも若い人だった。
それから演奏会までの練習は、合格者のみが参加出来る。
「マタイ受難曲」の練習が、そのあとに始まることになっていたが、私は、そこですっぱり辞めた。
3ヶ月の練習で、時間的、肉体的に、厳しさは充分身に沁みたし、連句や他の楽しみとは、とても両立しないこともわかった。
もう少し若ければ、意欲もわいたかも知れない。
他のことを全部捨てるには、私は、欲がありすぎる。
中途半端にやっていても仕方ない、3ヶ月一流の指揮者などから、充分音楽的なものはもらった、これでいいと思った。
すぐに退団届けを出した。
「折角入団テストに受かって入ったのにもったいない。2回3回と挑戦していれば、出演の機会も来るのに・・・」と言われたが、迷わず退団した。
9月、「ミサソレムニス」の演奏会を聴きに、サントリーホールに行った。
大変素晴らしい演奏だった。
合唱の声はひとつにまとまって、完璧に近い出来だった。
私は、観客席から、惜しみない拍手を送った。

それ以後、合唱からは遠ざかっていた。
少人数で、ハーモニーを愉しめるようなところなら、行ってみたい気はある。
時々、調べてみるが、なかなか見つからない。
「モーツアルトのレクイエムをやるからいらっしゃい」と誘われたが、今ひとつ、考えあぐねているところである。


名残の夏
2003年08月01日(金)

今年の夏は妙な滑り出しだった。
冬が長く続き、春になったと思ったら、急に暑くなった。
そのうち、長い梅雨に入り、いまだにその名残である。
梅雨明け宣言は出たのだろうか。
まだ聞いていないような気がする。
気は若いつもりでも、年だなと感じるのは、外出が数日続くと、疲れがなかなか快復しないことである。
先週は三日連続で、新宿の連詩の講座に行き、1日おいて土曜日は、また連句の会であった。
今週に入り、水曜日に渋谷で連句に参加した。
きのうは母のところに行き、今日は、本当は美容院に行きたかったが、少し暑いせいか、体がだるく、結局家でぶらぶらしてしまった。
出かけている時は、元気で、ホットな気分でいることが多く、大体酒席にもマメに付き合って、帰ってくる。
気分が高揚しているので、その時は感じないが、次の日、ぐっと疲れを覚える。
パソコンに向かう時間も多いので、つい夜更かしになり、不健康だと自覚しつつも、気が付くと夜中の2時、3時という事がざらである。
ぐうたらな女房と苦々しく思っているらしいが、連れ合いのほうも、最近はあきらめてしまい、文句も言わない。
今日は、午後から散歩をかねて、郵便局に行き、遠回りして帰ってきた。
周辺の植え込みに、サルビアの花の赤さが目にしみた。
まもなく立秋。
夏らしい暑さの来ないうちに、歳時記は秋を迎える。
明日は学生時代の合唱OBで練習。
7日8日は連句の合宿で江ノ島へ。
参加者が多いらしく、男女ほぼ同数。
愉しい行事になりそうだ。





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