まだ梅雨は明けないが、きょうで今年の半分が終わる。 今年に限らず、この15年は速かった。 黒柳徹子が、いつかテレビで「50歳過ぎる頃から、10年が束になって飛んでいく感じ」といっていたが、まさにその表現がぴったりである。 昭和さえ遠くなりけり春の雪 と友人が詠んだのは3年前。草田男の本歌取りである。 昭和が平成に変わってすぐ、英国から帰国したが、平成という年号が、なかなかなじめなかった。 いつも昭和の年号に切り替えて、考えていた。 この頃は、あまり抵抗なくなり、会話の中でも平成が、普通に出てくる。 それだけ、平成になってからの生活体験が増えてきたと言うことだろう。 今、私は俳諧連歌の世界に身を置いているが、それは平成になってから始めたことである。 何でも10年続ければ、本物になるといった人がいた。 私の連句が、本物になっているかどうか解らないが、腰が据えてきたことは事実である。 いつ止めようかと思っていた最初の3年を過ぎ、だんだん面白くなり、この頃は、生活の一部になっていて、外出の用事のほとんどは連句関係だし、付き合う人たちの多くはそれである。 昨日は、浅草寺境内伝法院で、正式俳諧があった。 私とは違う結社の主催する会で、案内状が来たので、参加させてもらった。 同じ結社の人たちが7人ほどいたが、私は、個人として申し込み、彼らとは離れて、座を愉しんだ。 趣味の世界で、団子のように繋がって行動することはない。 結社の一員ではあるが、内部の行事に参加する以外の場所では、結社の人間であることは表に出さず、個人の名前だけで参加することに決めている。 他流試合は、面白い。 多少のやり方の違いが、かえって新鮮であり、発見もある。 正式が終わって、座に分かれての連句も、順調に進み、早めに終わった。 外に出ると、日曜日のこととて、雷門あたりは、沢山の人出であった。 人並みに紛れて、あちこちの店を冷やかしながら少し歩き、おまんじゅうなどつい買ってしまった。 地下鉄に乗り、帰途についた。 途中の本屋で、「芭蕉の恋句」他数冊新刊書を買った。 連れあいは、蒸し暑い東京を避けて信州へ。 今朝電話したら「こっちはインターネット環境が悪くてねえ」とぼやいている。 4月に行き、その時、いつも入れっぱなしになっている冷蔵庫の電源を切ってきたが、今回行ってみたら、中に黴が生えていたとか。 その始末が大変だったそうな。 私は、予定が断続的にあるため、今回は、東京に残ることにした。 しばらくお互い、束の間の独身生活を愉しむことにする。
先週の土曜日、連句の帰りの飲み屋で、私は数人の人たちから、集中砲火を浴びた。 どういういきさつでそんなことになったのか忘れたが、いつも親しく呑んでいる人たちの間のことである。 私は、気の合わぬ人たちとは、あまり付き合わないし、ましてや呑む時は、男女もなく話が出来る人たちでないと面白くない。 その席にはちょっと先輩格で気を遣う人たちも2,3いたが、私の近くには、いつもの仲間が集まっていて、話が弾んでいた。 そのうち、誰かが「あなたは正直で、深くひとと付き合おうとするから、相手には負担になるのよね」といい、それに同調したひとが「もう少し広い気持ちで、ひとを赦さなければダメです」といい、さらにもうひとりが、「トゲに射されたくないから近づくまいとするひとと、とげに刺さってもいいから近づきたいというひとと、あなたを見る人は極端ですね」と、私を評したのであった。 彼らが、悪意で言っているのでないことは充分わかった。 なにか思い当たる事実があって、それぞれに、私に忠告、あるいは、気遣っているのだった。 前にも、「あなたはナイーブだから・・」と言った人がいて、多分、人付き合いの下手な私を、心配しているのであろうと、善意に解釈した。 しかし幾ら善意であっても、3対1はちょっとこたえる。 その時は、ケンカにならないように、引き下がったものの、内心穏やかではなかった。 特に、私より若手の男が言った「ひとを赦さなければ・・」という言葉に引っかかった。 店を出る時、「さっきあなたが言ったことだけど、誰を私が赦すというの」と訊いた。 すると彼は、困って、「イヤ、世の中には、いろいろな人がいるという意味です」と、はぐらかしてしまった。 ははあ、なるほど、「天敵」から何か聞いた話しがあるのだなとわかった。 この2年ほどの間に、私に大変非礼なことを言った男、私の人間性を貶めることを言った女、私を正当な理由なくグループから閉め出す策略をした女、その3人を「天敵」として位置づけている。 男のほうは、私だけでなく、特定の女性をターゲットにして、非礼なことを言う癖があり、だんだん顰蹙を買って、みんなから爪弾きされているので、この頃は、「天敵」のカテゴリーから外している。 弱い立場になった人を攻撃するのは、私の望むところではない。 しかし、残りの二人の女性は別である。 いずれも、庇護する男が沢山いて、強気だし、私より、優位にある。 何かをカサにきてものを言う人は、私の最も嫌いとするところであり、同性より、異性を大事にする人は、あまり信用出来ない。 私が「赦す」理由はないのである。 そんなことを私に「忠告」した人は、どんな事実を差して言っているのか判然としないが、どこでも誰とでもうまく付き合いたいタイプなので、どこかで、私に対する悪口でも、耳に挟んだのであろう。 呑み仲間であり、私に悪意がないことはわかるが、それだけの人と思うことにした。 もうひとり、「トゲ」の話をした人は、年上の男性だが、私を批判すると言うより、日ごろから兄貴意識でものを言う人なので、それも好意の表れと解釈した。 それはいいとしても、私と仲のよい人が言った「人と深く付き合おうとするから相手に負担になる」といった言葉が、心に残った。 二晩考えて、月曜日の朝、彼女に電話した。 「私は、あなたを友達だと思ってるし、今後もそのように付き合いたいと思ってるから、土曜日にあなたが私に言ったことに付いて、ちゃんと話しをしたいんだけど」といった。 彼女は、ちょっとビックリしたようだった。 社交的で、誰とでも付き合い、人気のある彼女は、私とは正反対、誰とでも仲良くするが、逆に誰とも仲良くないのである。 そんな風に、突き詰めて言われたことはあまりないのかも知れない。 でも、私の気迫に押されるように、その日、共通に出ている講座のあとで、時間を取って、話しをすることを約束してくれた。 そして、講座の終わったあとに向かい合った喫茶店で、彼女と、小一時間に渡って、話しをした。 「人の人格に関わることを言う以上は、具体的なことじゃないとダメよ。私が誰と、深く付き合っていて、誰が負担に思っているの」と聞いた。 彼女が答えた言葉から、ひとつのことが浮かび上がったが、それはかなり第三者の憶測の範囲を出ないものだった。 「勝手に、想像して、言ってもらっては困るわ」と私はいい、それに関して、事実だけを話した。 ほんのわずかな事実から、憶測が生まれ、話だけが一人歩きしていることがわかった。 「私は、浅く広く人と付き合うタイプだから、傷つかない代わりに、それだけのものしか得られないけど、あなたは、その逆だから、傷も深いのよね」と彼女は言った。 「それは生き方の違い、人との関わり方の差だから、お互いの生き方を認めるのが、友達じゃないの。私が、どんな付き合い方をして、どんなに傷つこうが、それは私が負うことであって、人から心配してもらうことではないでしょう」と私は言った。 店を出て、途中まで帰ってきたが、もうその話には触れなかった。 彼女が、私に善意で接してくれていることは確かだから、小さな裏切りはあったとしても、それを解った上で、付き合っていこうと思った。 何よりも、私は彼女の、天性の詩的感覚や、頭の良さを認めている。 昨日の会でも一緒だった。 終わってまた八人ほどで呑み、いい気分で帰ってきた。
メインのサイトに、「歓迎すべからざる客」がちょくちょく来ていることは、前に書いた。 私のホームページと知って、愉しみに来ているとは思えない。 「有害図書」と決めつけたものを、敢えて見に来る理由というのが、私には理解出来ないのだが、例えてみればコワイもの見たさであろうか。 子どもに、「あんなもの見てはいけません」と禁止しておいて、自分はこっそり見に行く母親の心理に似ている。 こちらも、そんな人に覗いて欲しくないので、コンテンツの大部分を非表示設定にしたら、いつも訪れてくれているネットのゲストの方々から、「そんな人のことは気にしないで、愉しく過ごしなさい」という忠告をいただいた。 ありがたいことに、このささやかなホームページを、愉しみに来ていますという言葉もいただいたのである。 「歓迎すべからざる客」のために、他の大事なお客さんを閉め出すことはない。 しばらく考えて、コンテンツを、徐々にもとのように表示することにした。 その後、件の客がばったり来なくなったので、喜んでいたら、またこのところ見に来ている。 その客の喜びそうなものは何も置いてないのに、何のために来るのだろう。 向こうには、何も見せるものはないから、一方的な話なのだが、案外と、こちらが見破っていることに気づかないのかも知れない。 知っていて、来ているとしたら、相当な神経の持ち主である。 その人にはいずれ「厚顔無恥賞」でも差し上げるとしよう。 きょうは暑い一日だった。 梅雨はまだまだ続く。 家の中が何となく湿っぽい。 梅雨の晴れ間を縫って、洗濯物を干したり、道路を掃いたりする。 やまももの葉が、毎日落ちる。 あるじが、朝晩掃いているが、かなりの量になる。 ひとつ嬉しいことがあった。 15日の日曜日、結社の同人会があり、私は捌きを仰せつかった。 私より先輩の巧者を連衆にして、歌仙一巻を挙げた。 校合して、送ったら、そのうち最も先輩の人から、「良くできてます。申し分ありません」との返事が、ファックスで入った。 あれこれ、欠陥を指摘されるだろうと思っていたので、ホッとした。 連句歴、足かけ10年になる。 でも結社の例会では、滅多に捌きは回ってこない。 昨年、「捌きを」と言われたのに、ためらった末、辞退してしまった。 今回は、ベテランの人たちの会で歌仙をやることがわかっていたので、話があった時、素直に引き受けた。 うるさ型のベテラン達が揃っている会での捌き。 しんどいが、進行はやりやすいし、勉強にもなると思ったのである。 これもこわいもの見たさであろうか。 結果は、大変愉しくうまく運んだ。 自分で言うのはおかしいが、それ程物怖じせずに捌けたと思う。 この1年、インターネット連句を運営してきた。 それも、原因のひとつにあるかも知れない。 またボード連句を再開することにした。 長く使っていたボードを閉鎖、新たに別のボードを設定してのスタートである。 メンバー構成も少し変えた。 「感動と詩情に満ちた」愉しい付け合いになるだろう。
6月19日は桜桃忌。 私は、太宰の墓のある街に住んでいながら、墓に行ってみたのはこの30年の間に3回くらい。 桜桃忌にも一度も行ったことがない。 太宰は、父親が著書を沢山持っていた影響で、子どもの頃から読んでいるが、「太宰ファン」といわれる人たちとは、一線を画しておきたいのである。 太宰が死んだ時、私はまだ子どもだった。 父親の本箱から「駆け込み訴え」や「ヴィヨンの妻」なんかを盗み読みしていたのは、当時、子どもの本が不足していたし、新しい本は買ってもらえなかったからである。 食べるものもないような時代に、父の本箱は、健在であった。 ある時、出張先から帰ってきた父が、靴を脱ぐのももどかしそうに、「太宰が死んだ、新聞はどこだ」と、母に言った。 そして、食事も取らずに、むさぼるように新聞を読んでいた。 太宰とほぼ同世代であった父にとって、大変なショックだったらしい。 太宰は、女の人と川に入って死んだ、というのが、子どもの私が聞いたことだった。 きっと悪い人に違いないと思った。 昭和40年代終わり近く、私は、太宰の墓のある街に住むことになった。 「あそこには、太宰の墓があるね」と父が言った。 そして、家に来ると、必ず散歩を兼ねて、太宰の墓に行っていた。 太宰の墓のそばには、森鴎外の墓もあり、目立たず、地味な墓らしかった。 10年ほど前、地元の太宰愛好家達の案内で、改めて、わずかに残る太宰の仕事場や、ゆかりの場所を訪れた。 山崎富栄が働いていたという美容院のあとも、まだ残っていた。 彼女は、太宰を死に誘ったということで、誰からも同情されず、悪女の汚名を被っているが、本当は、結核にむしばまれていた太宰の面倒を見、何かと尽くしていたそうである。 彼女は、美容界では、大変優秀な人材で、生きていればその道で成功者になったに違いないと、案内の人は言った。 「本当は死にたくなかったと思うんです。ひとりでは死ねなかった太宰に、同情したんでしょうね、残念です」という話であった。 太宰の旧居あとは、今や面影はないが、庭にあったサルスベリが、真向かいの家に移植されて残っている。 文豪の生と死。文学の毒と魅力。 その蔭にあって、不当に忘れられた山崎富栄のことも、考えてみた。
先週初め、連れ合いの友人から行けなくなったオペラのチケットがあるので、良かったら行ってほしいと、夫に電話があった。 夫婦で行くつもりで2枚買ったけど、飼い犬が重病で、目が離せないからという。 新国立劇場で、「オテロ」だという。 私たちも、行きたいと思って、買い損なったので、譲って欲しいと言ったが、「あまり良い席でないので、もらって欲しい」というので、好意を受けることにした。 その人と夫は、同窓生で、同じ職場にいて、同じ市内に住んでおり、仕事を離れても、よい友人関係を続けている。 夫婦で、食事を共にしたことも何度かある。 最近は、パソコンについて、わからないことがあると、電話を掛けてきて、夫は、何度か自宅に行ったりしてサポートしていた。 私たちが、よくオペラに行くことを知っているので、そんなことも理由のうちだったのかもしれない。 友人は、しばらくしてから、チケットを届けに来た。 「本当にいい席ではないんですよ。」と念を押して帰っていった。 あとで確かめると、D席3階の右端、舞台が、少し切れるかも知れないところ、6000円ほどとある。 オペラの通は、天井桟敷のようなところで見るのが本当なので、愉しみに、出かけることにした。 6月17日夜開演。 ところが、夫も私も、すっかり忘れてしまったのである。 パソコンのそばにあるカレンダーに、私はいつも予定を書き込んでおくのだが、その件については、書いていなかった。 夫が受けた話なので、どこかに自分のことではないという頭があったのかも知れない。 また夫のほうも、急に入った予定なので、メモしておかなかったらしい。 チケットは夫が、引き出しに入れていて、日にちが迫っているので、わざわざ予定を書き込んでおくほどではないと思ったのかも知れない。 それに、私の予定を確かめての上で、オペラに行くことを返事しているので、私に話したことで安心していたのかも知れない。 昨日の当日、二人とも、いつもの日常を送り、夫は、夕食時に巨人戦を見て、終わると自室に入った。 私は、夕食の後片づけをしながら、ふと、虫の知らせというとヘンだが、引っかかるものがあり、食堂に掛けてあるカレンダーを見ると「オペラ」と書いてあるではないか。 さっと血が引く思いだった。 私は、先週受けた骨粗鬆症の検査結果を訊きに午後から保健所に行き、その帰りに買い物をして帰ってきた。 オペラは6時半開演だから、それから支度して家を出れば、十分間に合ったはずだった。 それなのに、私の頭からは、すっかりオペラのことが抜け落ちていたのであった。 また夫のほうも、パソコンのスケジュール表に入れていなかったので、やはり意識から欠落していたのだった。 気が付いたのは、9時近く。 オペラがそろそろ終わる頃である。 「どうしよう」と、二人とも呆然とした。 オペラを見損なったと言うことより、せっかくの友人の厚意を無にしたということが、ショックだった。 わざわざチケットを届けに来た友人がそれを知ったら、どんなにがっかりするだろう。 夫は、見たことにしてお礼を言うという。 調べてみたら、オペラは昨日が最終日ではなく、きょうの公演が最後である。 「助かった」と思った。 夫は知人の通夜と重なってダメだが、私は予定がない。 1枚ぐらい空席があるだろうから、何とかして見に行く。 そうすれば、友人の好意も全くの無駄とはならない。 何かで話題が出た時に、オペラの感想も、実感を持って話すことが出来る。 オペラが終わって家に帰ったくらいの時間に、夫は、友人にお礼のメールを入れた。 私は、きょう、ボックスオフィスが開いた時間に早速電話した。 幸い空席があるようだった。 友人からもらった席に近い距離で、2階席を1枚確保した。 B席、13000円くらい。 本当のことは言わずにおいた方がいい場合もある。 いずれその友人には、お詫びとお返しを兼ねて、こちらからオペラに招待することにした。 今夜の「オテロ」、友人からもらったチケットのつもりで、愉しみに行くことにする。 物忘れは、よくあることだが、夫婦の二人三脚も当てにならなくなってきた。 朝起きたら、きょう何があるか必ず見るようにしているのに、見ることも忘れてしまっては、もうダメである。 「口頭で聞いた話しは、ダメだねえ」と夫はしょんぼりしている。 昨日は、朝から夫は、私のパソコンの設定をあれこれいじっていて、忙しかったので、他のことは忘れても仕方がない。 私は、昨年やはり芝居の切符を一枚無駄にしている。 そのうち、家に帰ることも忘れるのかも知れない。
いい映画を見た。 フランス映画「約束」である。 小児ガンで入院中の少年がいる。元気に見えるが、実は、病状はあまりよくないらしい。 老人病棟には、脳梗塞で、体の自由が利かなくなった老人がいて、耳は聞こえるが、喋ることが出来ない。 目の動きで、かすかにイエスノーを伝えるくらいである。 映画では、心の声を音声で表していて、この老人が、まだ頭はしっかりしていることがわかる。 時々妻が見舞いに来て、そばで編み物をしたり、話しかけたりする。 10歳の少年は、病院内でもなかなか活発に動き回り、医者や看護婦の目を盗んで、患者の部屋から物をかすめたり、動けない老人に悪さを仕掛けたりする。 しかし大変利発で、病院内の子どもたちを集めてサッカーをしたり、すぐれたリーダーシップも発揮する。 この少年が、老人の部屋に忍び込んだのがきっかけで、二人の間に妙な交流が生まれる。 少年は老人の部屋に寝泊まりして、ゲームをしたり、車椅子を押してやったりする。 老人の妻が急病で亡くなり、残された老人の手をそっと撫でてやる。 絵に描いたようないい子ではないが、本当は、この少年が優しい心の持ち主であることがわかる。 そのうちに、少年の姿が急に病室から消える。 心配しながら、老人にはどうすることも出来ない。 それを察した看護婦が、老人を少年の処に連れて行く。 廊下から垣間見えたのは、白衣で、点滴を受けている少年の姿だった。 実は、少年の母は、医者から絶望的な宣告を受けていたのである。 それから何日かした日、元の元気な様子をした少年が現れる。 少年は、老人に外出の支度をさせて、車椅子に乗せ、病院から外に連れ出す。 行った先は、老人のかつての仕事仲間が、集まっている酒場だった。 海が見たいという老人の心を汲んで、砂浜に車椅子を押してやる少年。 その少年に向かって、老人は心の中で語りかける。 「いつまでも生きるんだよ。約束だよ」 日没の砂浜で、車椅子の老人と、それに寄り添う少年のシルエット。 映画はそこで終わっている。 暗くなりがちなテーマを、さらっと描き、老人の目の表情を、少年のよく動く表情と対比させて、丁寧な映像を作っている。 そして、ラストシーン。 しばらく席を立てなかった。
東京は梅雨に入った。 人から勧められたこともあり、雨の1日、京王線芦花公園の世田谷文学館に「寺山修司展」を見に行った。 俳句、短歌、詩、小説、劇作、評論などはもとより、映画制作や「天井桟敷」を率いての演劇活動など、多彩な才能を発揮して、47歳で亡くなった寺山の、短すぎる生涯を追っていた。 若い頃から、あまり健康でなかったと見え、その分、神経がとぎすまされていたのかも知れない。 18歳で、短歌新人賞を取った。 彼の才能を最初に開花させるきっかけを作ったのは、中井英夫である。 年表を見ると、すでに中学時代に俳句を作って、活字にもなっているし、早稲田在学中から演劇活動に入っている。 既存の殻の中にいることを潔しとせず、挑戦的な創作活動は、ややもすると、批判や反発の対象になったようだが、病魔と闘うことも含めて、彼は、燦々たる人生を駈け抜けていった。 こまかな字で、ビッシリと、友人、知人たちに書き送った手紙も多数展示されていた。 父親が戦死し、母の働きだけでの生活は、決して恵まれてはいなかったらしい。 米軍キャンプで働く母が、福岡に転職し、13歳の寺山は青森県に残されている。 永山則夫の事件の際、同郷である寺山が、犯罪に至った永山の心象風景に、理解をしめしたことばを述べていたのを覚えている。 貧しさ、孤独、劣等感、母への屈折した愛、そうしたものは、寺山にも共通するものがあったのかも知れない。 天才という名がふさわしい人だったと思う。しかし、長生きするひとではなかったのだろう。 今生きていれば、68歳の筈だが、想像しにくい。 枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや 暗室より水の音する母の情事 マッチ擦る束の間海に霧ふかし身を捨つるほどの祖国はありや ここでいう祖国を故郷と言い換えれば、寺山の心のうちが理解出来そうである。
東京郊外の小さな連句会に行く。 午後1時からだが、きょうの場所は、家から少し時間がかかりそうなので、10時半過ぎに家を出た。 この会に私は遅刻しがちなので、たまには、早めに行こうと思ったのである。 一昨日、メンバーのひとりから電話があり、駅まで車で迎えに来てくれるというので、待たせてはいけないと思った。 初めて降りる駅なので、それもあった。 電車を乗り継ぎ、言われていたように、二つ目の電車に乗るところで、迎えの主に電話した。 「急行は止まりませんから鈍行に乗って下さい。25分くらいです」と言われて、その通りに着いた。 出口がひとつしかない駅に降り、2,3分待っていると車が来た。 私を乗せ、あと二人を途中で拾って、会場まで行く。 きょうは、メンバーのうち、二人が欠席で、4人の座になったが、久々に捌きをさせてもらって、愉しく巻き上げることが出来た。 この会は、昨年9月から月に一回の例会に出ている。 それまでは、別の人が、「連句の指導」ということで行っていたらしい。 その人が家庭の事情で行けなくなり、代わりに来てくれませんかと話があったのが、昨年7月。 私はちょうど、ある会を止めることになって、代わりに行くところが欲しかったし、自分の結社とは違う人たちと連句をしたかったので、入れてもらうことにした。 ただし、私は前の人と違い、「連句の指導」などということは出来ないので、一緒に連句を愉しむということで参加させて欲しいと話し、承知してもらった。 メンバーが6人くらいの会だということも私の好みに合っていた。 なぜ、そんな誘いがあったかというと、その会の中心になっている人は、私のインターネット連句のメンバーであり、半年くらい巻いている間柄だったからである。 ただ、面識はなく、ネット上でのお付き合いであった。 9月に初めて行った時、最寄り駅まで、車でむかえに来てくれて、それが初対面だったが、いつも連句ボードで遣り取りしているせいか、初めてのような気がせず、すぐにうち解けてしまった。 それから月に一度、先月だけは両親が来ていたので行けなかったが、あとは欠かさず参加している。 私を先生と呼ぶことだけは止めてもらったが、あとは、お仲間として、仲良く連句を巻いている。 私より年上の男性が3人、私より若い女性が2人、それがいつものメンバーである。 男の人たちは、みな教養が深く、物知りで、人生経験豊富、職歴はまちまちで、とても話題が面白い。 必ずなにかしら教わって帰ってくる。 女性は、元気で明るい人たち。はなやかに座を盛り上げてくれる。 今日は雨の日となったが、気分良く帰ってきた。
私のホームページに、最近、アクセス数が増え、しかも同じホストからなので、アクセス解析してみたら、私が一番来て欲しくない人であることが判明した。 この人は、昨年私のサイトを「有害図書」と決めつけ、そのことがきっかけになって、所属していたグループを、私が去ることになったのである。 リーダー格の人が、その問題を公平に処理することをせず、私をトラブルのもとと判断し、「良い戦争より悪い平和」という考え方で、表面上何もないことを良しとしたことも理由のひとつだった。 私はそこに、隠されていたリーダーの本心を見たのである。 理屈はどうあれ、リーダーにとってその人は、大事な存在であり、守らねばならぬ人であった。 それがわかったので、私は、自分から止めたのである。 人間、最終的には、物事を好き嫌いで決める。 理屈と感情は全く別である。 リーダーは、私にとって尊敬すべき人であり、恩義もあったが、自分が一方的に否定されたことで、もうそれ以上、共通の場に留まる必要はないと考えた。 その後、原因を作ったその人は、私の抜けたグループで、リーダーと共に、活躍している。 「有害」なものは、見ない自由があるはずなのに、それを敢えて見に来る神経が、私にはわからないが、そんな人たちに覗いて欲しくないので、昨年一旦サイトを閉じた。 ホームページなんか止めてしまおうかとさえ思った。 しかし、折角精魂込めて作ってきたものを、止めてしまうのもつまらない。 それに、連作掲示板も軌道に乗っていて、ネットの交流も増えていたし、見知らぬ人たちに発信したいことも沢山ある。 ちょうど別サーバーにスペースがあったので、そちらにサイトごと移し、もとのアドレスを削除した。 一旦失ったネットの客人たちも、また少しずつ増え、さらにページを重ねて、しばらくは安泰であった。 このサーバーは、グーグル検索拒否設定が出来ないため、検索に引っかかる可能性もあったが、サイト名、管理者名をどこにでもあるような平凡なものにしたので、簡単には、見つかるまいと思った。 ところが、件の人は、どこで知ったか、いつの間にか覗いていたのだった。 まさか、ここまで追いかけてくるとは思わなかった。 顔見知りには、私のほうからは教えていないアドレスである。 しかし、絞り込みで、検索していくと、いずれは出てくる。 そうやって、尋ねてきてくれた客人もいるので、少しインターネットに詳しい人なら、簡単な話であろう。 時々、連句の座で顔を合わせても、それ以来挨拶も交わしてないのに、素知らぬ顔で、黙って、私のホームページを覗いていたのかと思うと、ぞっとする。 すぐに、サイトのトップページから、すべてのページリンクを外し、訪問者用の掲示板では、しばらく運営を休止する旨のメッセージを入れた。 インターネットは、本来人に広く見て欲しいために公開するのだから、それを防ごうとする方がおかしいのかも知れない。 「そんなにいやなら、止めちゃえばいい」と、「秘書」によく言われる。 それはその通りである。 しかし、机の引き出しに仕舞って、ひとり黙って見ていたい反面、誰かに見て欲しいという気持ちも、あるのだ。 見て欲しい相手を、こちらが選べないところに、インターネットの難しさがある。 日記、エッセイのようなものは、どうしても、ナマの自分が出るし、実際に遭遇したことを題材にして書くのだから、事実そのままでないとしても、知っている人が見たら、現実の出来事と結びつけて、あれこれ、詮索しがちである。 現実を知らない人は、書いたものをそのまま先入観なしに、読んでもらえる。 書くことをショーバイにしているなら、開き直って何でも書けばいいが、私は、平凡な生活人、書くことで人を傷つけるのはイヤなのである。 だから、特定個人を彷彿とさせる書き方はしないし、題材にしたことも、設定を変えてある。 それでも、人によっては、「これは私のことかしら」と思うらしいのである。 「歓迎すべからざる客」が、私のホームページを見て、「有害図書」と言ったのは、そんなことらしかったが、私に言わせれば、ずれている。 映画を見て、ヒロインは自分だと思いこむのと似ている。 虚実の谷間。 それを理解しない人には、有害でしかないであろう。 だから顔見知りには、見て欲しくないのである。 そんなひとが覗いているとわかっただけで、不愉快なので、折角作った参加型連作用のボードも、稼働しないうちにと、二つ削除した。 私のサイトでは、アクセス数は少ないが、共通の価値観をもったいいお客さんが来てくれて、喜んでいたところであった。 そういう人たちに、サイトの中身を、半分非公開設定にしなければならないのは残念である。 7月にプロバイダーが変わるので、またサイトのURLも変わる。 ホームページというものを、見直す機会かも知れない。
五月の素晴らしさをあまり味わわないうちに、月が変わってしまった。 今日は、深川の連句会に行くつもりだったが、外出の支度をしている時に、電話がかかって、10分ほど消費した。 それからあらためて支度しているうちに、もう遅刻だなと思ったら、気乗りがしなくなり、行くのをやめてしまった。 電話がきっかけではあるが、それだけではない。 場所が遠くて、少し億劫だと言うことと、その連句会には、「天敵」がいて、時にイヤな思いをするのである。 クールビューティーなどといわれている女性。 利口で能力はあるが、私はこの人から、今までに何度も、不快な仕打ちを受けているので、一種のトラウマのようなものがあり、その人の行くところには、まず行きたくない気持ちが働くのである。 連句の座は、トランプの札などで、メンバーを決めるのだが、同じ席になったらイヤだなあと言うことが一つ、彼女がいると、会が終わってからの飲み会には、行かずに帰ることになるので、それも寂しい。 そんな会に初めから行かなければいいのだが、「天敵」は、どこの席にもいることが多いので、それを避けていると、連句の機会がなくなってしまう。 そこで、出かけるわけだが、今日のように行かない理由が出来ると、自分の心に言い訳をして、欠席する。 行きがけの電話は、連句仲間のひとで、行くかどうかを訊いてきたのだった。 彼女は、外出続きで疲れたので、今日は行かないと言う。 私は、しばらく深川に行ってないので、情報収集かたがた行くつもりだと、答えたのであった。 行かないことにして、また服を着替え、彼女に電話したら、留守だった。 もしや、向こうも、私が行くというので、気が変わって行ったのではないだろうか。 彼女は、私の「天敵」のことは知っている。 あとで、もう一度電話してみようと思った。
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