沢の螢

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炊き込みご飯
2003年05月30日(金)

昼前母から電話。
「いつ来るの?」と訊いている。
ゴールデンウイークに、我が家に来て、6日間ほど滞在したが、その後、私も顔を見ていなかった。
予定がたて込んでいて、忙しかったせいもある。
先週の金曜日、行こうかと思って電話したら、ちょうどは医者に行くところで、「来週ゆっくり来て頂戴」というので、やめた。
母がこんな返事をした時は、あまり来て欲しくない時なのである。
多分、妹でも行っているのだろうと察し、じゃあと電話を切ったのであった。
両親が、今のところに行くまでには、私と妹たちとの間で、いろいろ確執があり、この数年、ほとんど顔を合わせないような状態になっている。
それについては、簡単な話ではないので、いずれまとめてなにかに書くつもりである。
とにかく、母は、私たち姉妹が、顔を合わせないように、いろいろ気遣いするのである。
90歳という年になって、母にそんな気を遣わせているのは、子どもの立場として、まことに恥ずかしいことなのであるが、無理に修復しようとして出来るものでもないので、そのままにしてある。
一つ言えることは、私も妹たちも、誰ひとり悪意はないのである。
それぞれ、年老いた親を思い、庇い、そのために起こったひずみなのであった。
ともかく、先週は出鼻をくじかれたので、今週になって昨日か今日のうちに、顔を出そうと思っていたところへ、母からの電話なのである。
「じゃ、昼過ぎに行くから」と返事をし、急いで、干してあった洗濯物を取り込んだ。
「タッパーウエアがいくつかそっちに行ってるでしょう。持ってきて」というので、母の処から持ってきたままになっていた入れ物を、まとめて家を出た。
母のところに行くと、いつも、煮物などを作っていて、持たせてくれるので、容器が溜まっていたのである。
母たちは、西武新宿線沿線の駅からすぐの、ケアハウスに住んでいる。
父の誕生日が27日だったことを思い出し、遅まきながら、夏用のメッシュのチョッキを買い、持っていった。
父も母も、私の家から帰ってから、特に変わりなく、元気にしていたとのこと。
「届きものがあったからちょうどよかった」と母はいい、九州の親戚から届いた枇杷を二箱、紙袋に入れてくれた。
そして、やはり、手作りの煮昆布、それに、筍ご飯を作ってあった。
しばらく、話をし、お茶を飲んで、帰ってきた。
紙袋の中の、まだ温かい炊き込みご飯のぬくみを感じながら、バスに乗り、いつまでたっても、母親であり続けようとする九十歳の母を、偉いとも哀しいとも思ったのであった。


お人好し
2003年05月23日(金)

時々訪問するサイトで、前の投稿記事から題を選んで、文章などを繋げていくコーナーがある。
今日は、「お人好し」という題で、書いてみた。
少し、手直しして、こちらに載せる。

外目にはどう見えるか知らないが私はお人好しである
ひとを騙したり裏切ったりはしないが
騙されたり恩を仇で返されるような目にはよく遭う
親きょうだいみな似たり寄ったりであるところを見ると
こういうことは家庭教育というのか
生まれた時の環境が影響しているのかも知れない
ある一つの事実を前にして
それをどう考えどう見るか
親の姿勢が知らず知らず子どもの体にしみこんでいく
三つ子の魂百までとはよく言った
学校に行ってから受けた教育はもう遅い
すでに人格が出来上がっている
世の中には結構すごいひとがいる
黙って人の話をきいていて
いつの間にか自分のアイデアにすり替えてしまう
陽の当たるところに出たがり
力のある人には熱心に近づくが
そうでないひとには洟も引っかけない
評価の対象にならない仕事は引き受けない
人を利用しようという時だけなれなれしく寄ってきて
用が済むと感謝もしない
こちらはひとがいいもんだから
頼まれるとつい損な役回りを引き受けてしまう
そんなことが何度か続いて
我ながらお人好しさ加減に呆れている
本管理職で今でも教育講話を頼まれる女性は
私の話をネタにして講演会で喋り
ちゃんと講演料はもらったそうな
「あなたの話はおもしろいわ」とおだてられて
ただでネタを提供していたわけである
今度一件幾らと決めて高く売ってやろうか
でも多分電話がかかってくれば
訊かれるままにあれこれ喋るのだろう


「冬のソナタ」
2003年05月22日(木)

4月からNHK衛星放送で放映している韓国ドラマ。
オーソドックスなメロドラマだが、とても美しく素晴らしい。
高校生の時、お互いに惹かれ合った少年と少女。
真面目で気だてのいい少女には、優等生タイプのボーイフレンドがいた。
しかし、転校してきたちょっと翳りのある少年に、次第に心が動いていく。
この少年役の俳優が、とてもいいのである。
待ち合わせ場所に待っている少女、しかし少年は、車にひかれて死んでしまう。
このあたりは、古典的ラブストーリイの定石を踏んでいる。
正攻法で、まっすぐに若い二人の動きをとらえていて、好感が持てる。
10年後、恋人を失った少女は成長し、昔から自分を愛してくれていた青年と婚約する。
ところが、死んだ恋人と瓜二つの青年が現れて、ドラマは、また波乱を含んでいく。
前回は、昔の恋人に似た青年が、彼女に恋心を打ち明けるところで終わった。
婚約者と、新しく現れた青年。
死んだ恋人の想い出をまだ引きずっている彼女。
それぞれに恋敵がいて、気になる。
20年近く前、シナリオを志していたことがあって、こんなメロドラマを一度書きたいと思っていた。
「君の名は」、映画の「めぐりあい」、みな、話の運びは、定石通りで、そこに人は、永遠に変わらない人の心を見るのである。
今の若い人のテレビドラマ、奇をてらったり、殺伐とした性愛シーンなどが多くて、見ちゃいられない。
「冬のソナタ」は、婚約した男女が、手も握らないのである。
儒教の影響がいまだに強いお国柄なのだろうが、私の若い頃の純愛ものは、みなそうであった。
メロドラマは、「水戸黄門」である。
間に山あり谷あり、波乱の渦に巻き込まれつつ、純愛を貫いて、やがてハッピーエンドに終わる。
そうした古典中の古典がメロドラマである。
美男美女を配し、美しい風景も織り込んで、ゆっくりと展開する。
木曜夜10時、「冬のソナタ」が楽しみである。


五月闇
2003年05月17日(土)

Tさん
まだ梅雨とは遠いのですが、しとしととした雨です。
こんな日は、昼間でも明かりを付けたいような、薄暗い場所があって、歳時記では、五月闇なんて言うそうです。
あれはいつのことでしたか、こんな雨の日、母から用事を頼まれて実家に行った時のことです。
「ただいま」と、玄関を開けると、いつもならすぐに迎えてくれる母が、出てきません。
かまわずに上がり込んで、茶の間にはいると、母が、誰かと話しています。
若い青年でした。
きちんと正座して、母と向かい合っていました。
誰だろうと顔を見ると、こちらを向いた青年の目と、まともにぶつかりました。
その目の鋭さに、一瞬私は、たじろぎました。
少しどぎまぎした私に、母は笑顔を向け、その青年を紹介しました。
それがあなたでした。
父の遠縁にあたる人の息子で、2,3年前から東京に住んでいること、でも、ここへ来たのは初めてで、母も初対面だったことが分かりました。
「ご両親から宜しくと言われてたのに、ちっとも来ないもんだから、今わけを訊いてたのよ」とは母は言いました。
世話好きな母は、よく人から、こうした頼まれごとをするのです。
ずいぶん前から、あなたのことはきいてたのに、本人が現れないので、親御さんに、何と言っていいか分からなかったと、母は、少しあなたに怒っているようでした。
あなたは、笑って、「親にも、手紙も書かないんですよ」と、言い訳してましたね。
25歳という年頃の男の人にとって、親の心配は、少し煩わしいものだと言うことは、想像が付きます。
「折角来たんだから、ウンとご馳走してあげる。夕飯まで待って頂戴」と母はいい、あとを私に託して、買い物に出かけました。
残された私たちが、どんな話をしたのか、あれからずいぶん時間が経った今、思い出すことが出来ません。
ただ、私にとって、初めて遭ったあなたがとても印象深かったこと、それまでに知っていたどの人とも、違っていたこと、そしてこれだけははっきり覚えているのですが、話をしている間、あなたは一度も、私の目を見ようとしませんでしたね。
「臆病なんですよ」と、あとになってあなたは言いました。
「最初に親から生まれた人間て、そういうところがあるらしいですね」とも言いましたね。
私もそうでしたから、同じ処があると、あなたは言いたかったのかも知れません。
表面は、気の強い人間に見えるようですが、私は、人一倍臆病で、人見知りします。
幾らも知らないうちに、私のそんなところを見抜いたのは、何か、共通するものを、あなたが感じたのかも知れません。
それからも、あなたは、時々、私の実家を訪れていたようでした。
「電話番号を訊いてもいいですか」とあなたはいい、時々電話を掛けてきました。
そう、あの頃は、インターネットもなかったのです。
生活環境が全く違って、共通の話題もなさそうなのに、あなたは私のおしゃべりが、面白いからだと言いました。
「自分より年の若い人は、気を使うからイヤなんです。あなたは、ありのままで付き合えるから・・」とも言いましたね。
私は、そういわれるのが悪い気はしないので、お姉さんぶって、遠慮のないことをずいぶん言いましたね。
でも、時々、話をしていて、つらくなることがありました。
だって、そのころの私は、確立した精神生活というものを、持っていなかったのですから。
電話口で私が黙り込んでいると、「あなたは、向かっていく強さがあるのに、受け手に回ると、もろいところがあるんですね」なんて、ちょっと残酷なことを言ったりしたのでした。
そんなことが、しばらく続いて、あなたは、東京の生活を打ち切り、国に帰っていきました。
海の近くに育ち、夏になると海に潜って、遊んでいたというあなたには、都会の生活は、合わなかったのかも知れません。
その後の消息は、母から時々訊きました。
でも、いつからか、便りも途絶え、この10年くらいは、全く分からないと言うことです。
雨の日に、よく電話を掛けてきたあなたは、今どこでどんな人生を送っているのでしょうか。
今日は、どうやら一日雨です。


走り梅雨
2003年05月15日(木)

気温の変動が激しい時期である。
厚い冬コートは、全部洗濯屋に出したが、まだ入れ替えのためらっている合い着が、結構あって、今日のような雨模様の日は、毛糸のカーディガンを羽織りたくなってしまう。
今日、洗濯屋さんが来たが、一旦は、出してしまおうと、のけてあったジャケット類を、また戻して、ワイシャツと羽毛のガウンだけ持っていってもらった。
まだ梅雨には間遠な、今日のような雨は、嫌いではない。
外出の用事もなく、朝はゆっくりと起き、静かに過ごしている。
最近、あちこちの連句座に出かける機会が増え、それはとても楽しいことだが、時に、疲れを覚えることもある。
連句が終わり、大体いつも決まったメンバーで、ちょっといっぱい飲みに行くのが通常になっており、そこでのおしゃべりを愉しむ。
しかし、「ちょっと喋りすぎたな」とか、「あんなこと言わなきゃよかったな」と、苦い思いをすることも、ほんのたまにある。
気心の分かった人たち、つい気を許して、たまたま出たうわさ話に乗ってしまうことがある。
「ここだけの話」と、お互い了解していても、自分が乗った話というのは、いずれ、形を変えて、自分に戻ってくる。
口から出た言葉は、消すわけに行かない。

昨日は、そんなことを感じながら、帰ってきた。




午後の紅茶
2003年05月08日(木)

至福のとき
それはひとりのティータイム
大ぶりのカップに熱いアールグレイをたっぷり注ぎ
冷たい牛乳を加えると
ちょうど飲み頃の温度になる
砂糖は入れず
添え物はソフトで甘みのあるクッキー
BGMは静かな室内楽
邪魔にならないものがいい
カップに2杯の紅茶を飲む間
夕べからの出来事や
読んだ本のことを反芻する
ロンドンの住まいには
窓から大きなプラタナスが見え
風がそよぐ時は
女が泣いているような音がした
こころの在処を探すひととき


風薫る
2003年05月07日(水)

Uさん
東京は、緑の風が、さやかに肌を撫でていくような、良い季節です。
すっかり新緑になりました。
京都の今頃は、もう少し暑いのでしょうか。
遙か昔、大学の修学旅行で、4月半ばの京都の暑さに閉口した経験があるのですが、昔からご当地に住んでおられる方は、きっと、上手に暑さを凌いでいらっしゃるのでしょうね。
「京都に来たら知らせてください。いつでも案内します」といってくださったのに、まだ、その機会が訪れていません。
新幹線に乗って、数時間で着く距離なのに、なぜか、私には、少し遠いのです。
あれは、大学2年の時でした。
叶わぬ恋をして、傷つき、ちょうど春休みでしたので、急に京都に行ってみたくなりました。
そのころは、新幹線なんてありません。
鈍行の夜行で行くことになり、私は、「友達と一緒だから」と、親に嘘をついて、夜行列車に乗り込みました。
岡山に帰省する後輩と一緒でした。
ですから「友達と一緒」というのも、あながち嘘ではなかったのですが、京都では、誰も連れはいなかったのです。
偶然、私の家に電話して、私の京都行きを知ったあなたは、東京駅に駆けつけてくださいましたね。
生まれて初めてのひとり旅、不安と、どこか期待感もあって、どきどきしていた私に向かって、「ちゃんと帰ってくるんだよ。いいね」と、少しこわい顔で言いましたね。
あなたは、私の恋のいきさつを知っていた、ただ1人の人でした。
事情を知らない後輩が、怪訝な顔をするのもかまわず、あなたは、まっすぐに私の目を見ていました。
その時、私は、一瞬、列車から降りてしまいたい気持ちに駆られたのです。
悲しみが、ワッと胸に押し寄せてきて、口を開くと、嗚咽が漏れそうでした。
あなたは、そんな私の表情を見て、今度は明るい声で、「いいさ。ゆっくりしてお出でよ。
修学旅行も終わって、静かだから、ゆっくり見物出来るよ」といい、「車中で食べて」と、果物やお菓子の入った袋を、手渡してくれました。
時間が来て、ゴトンと走り出した列車と並んで、ホームを歩きながら、手を振ってくれたことが、昨日のように思い出されます。
それから長い年月が流れました。
人生の節目に、時折、Uさんだったらこんな時、なんと言うだろう、また、Uさんがいたら、解ってくれるのに、ということがありました。
別々の人生を歩んでいながら、私にとってのUさんは、夜汽車を見送ってくれたあのときのUさんなのです。
いつか、同窓会で偶然お目にかかった時、京都のことは一言もいわないので、私は、あなたが、だいぶん前から京都に住んでおられることは、ずっと知らずにいました。
人伝に聞いて、手紙を差し上げた時、「京都に来ることがあったら・・」と、初めて言ってくださったのですね。
いつかそんな時がくるでしょうか。
窓を少しふるわせて、風の音がしています。


夏の色
2003年05月05日(月)

Rさん
いかがお過ごしでしょうか。
今日はこどもの日、歳時記では、春と夏の境目、体感的には夏と言っていい気候です。
風薫るという季語にぴったりの、気持ちの良い日です。
昨日から、老父母が来ています。
昨年に比べると、二人は、やはり確実に、体力が衰えています。
父は、玄関の上がり框から上に上がるのに、手を貸さねばなりませんし、母も、腕を組んで歩みを揃えてやらないと、不安気です。
年を考えると無理もありません。
寝たきりにならずにいると言うことを持って、幸いとしなければならないでしょう。
私自身が、昔ならとうに老人の仲間入りしているはずなのに、まだ親の世話が出来るというのは、幸せなことかも知れません。
「有り余る仕事ありて、人幸せを得る」という言葉があります。
誰が言ったことかわかりませんが、亡くなった裏千家先代の奥方である千登三子さんが、座右の銘にしていたとか。
含蓄のある言葉ですね。
私は、まだそう言えるほど、修行が出来ていませんが、時折この言葉が心の奥深く過ぎることがあるのです。

Rさんは、相変わらず読書に専念しておられるのでしょうか。
ベストセラーは読まないと仰ったけど、あの頃話題になった「マジソン群の橋」について、お便りを下さいましたね。
ヒロインの描写の一部に赤で傍線が引いてあって、それについて何のコメントも付けていませんでした。
私は、なぜそんなお便りを戴いたのか、よく考えもせずに、読み過ごしてしまいましたが、今になると、理解できます。
想い出を持つことの意味を、示唆なさったのですね。
それからしばらく経って、ちょうど、こんな初夏の日、みんなで、喫茶店に入ってお茶を飲んでいた時、テーブルにあった紙のコースターに、さらさらと何か書いて、私にくれたことがありました。

君に濃し我にも濃きや緑蔭

隣にいた人が覗き込み、「何、これ恋句じゃない」と言って、茶化したら、あなたは何も言わずに、笑っていましたね。
「返句をしなくちゃいけないかしら」と私はいい、その場で何か考えようとしましたが、周囲の喧噪と、次々変わる話題に紛れて、結局作らずじまいでした。
口に出さずにいるから、保っていられることもあると、いつか仰いましたね。
その証のように、コースターは、7,8年経っても、返句のないまま、ひっそりと、かすかなコーヒーのシミと共に、私の手元に残っています。


新緑
2003年05月04日(日)

私の両親が、この新緑の季節に、数日を我が家で過ごすためにやってきた。
「昼頃迎えに行くから」と言っておいたが、12時少し前に、向こうに着くと、母はすでに、着替えなどの荷物を作り、外出着で、待っていた。
二人とも、楽しみにしていたらしい。
すぐに、そのまま、ケアハウスのスタッフに挨拶し、両親を車に乗せて出た。
渋滞もなく、30分ほどで家に着いた。
父は、昨年の今頃に比べると、大分足が弱り、道路から一段上がった門の中に入ったり、玄関の上がり框で、靴を脱いだりする時も、時間がかかるようになっていた。
無理もない。
ハウスでは、自分の部屋と、食堂との間を行き来するくらいで、あまり外にも出ないのだから。
スタッフも、介護度の高い人に、どうしても手を取られるので、曲がりなりにも、自力で歩ける父は、あまりかまってもらえないのである。
散歩が好きで、家にいた頃は、時々行方不明になったものだった。
その辺までと思っていたら、道がわからなくなったらしく、どこまで行ったのか、夜中の12時近くになって、親切な人から電話があり、迎えに行ったこともあった。
ずいぶん、パトカーのお世話にもなった。
それも大変だったが、歩けなくなった父を見る方が寂しい。
「明日は、散歩しましょう」と夫が言うと、「そうだねえ」と父は答えた。
耳の遠い母と二人でいると、コミュニケーションもうまくいかないのか、父は口数が少なくなった。
3年前、家にいた時は、週に2回、デイサービスを受けていて、短歌やパズル、社交ダンスを楽しんでいた。
今の父は、そういう場所がない。
自分の置かれた環境に対して、不平、不満を一切言わない父、心の内を察するのが難しい。
母は、よく喋る。今日も、夕食の食卓では、1人で話題を独占していた。
しかし、また父とは別の意味で、耐えていることがある。
若い頃、看護婦をしていた母は、人に対して献身的に尽くすところがある。
90歳になってもなお、父の世話は自分の仕事と、決めているところがある。
少しばかり、つらくても、なるべく人の手を借りずに、父の世話をしようとする。
その結果、時々、パニックになるのである。
ハウスのスタッフに全部まかせればいいのだが、一緒に住んでいるので、気持ちから逃れられないのである。
こういう両親を持つと、子どもとしては、不甲斐なさばかり感じられて、つらいものがある。
「親孝行出来ることは、幸せよ」と、友人に言われた。
そう思うことがせめてものことと、考えることにしている。


花曇り
2003年05月02日(金)

Kさん
水源を名に持つ街や花曇 

こんな句を作ったことがあります。
連句の発句として、投句したものでした。
互選の結果、惜しくも次点になり、ほかの人の句で、連句の付け合いが始まりましたが、この句を押してくれたのは、東京に生まれ育った人たちでした。
井の頭、大泉、井草、高井戸、神泉、中井、石神井、小金井と、井の付く地名が多いのです。
川の付くところも結構あります。
川が交通や流通の大事な手段であり、また人の生活には水が欠かせないので、水源のあるところを求めて人が町を作っていたことに依るのでしょう。
俳句の専門家であるSさんには、「こんなヘボ句」といわれそうですが、私はボツになったこの句が気に入っています。
機会があったら、これを発句にして連句を巻いてみたいと思っています。

今日は、ケアハウスにいる両親のところに行ってきました。
昨年の連休に、二人を呼んで、5日間ほどいてもらったことがありました。
以前住んでいたのですから、懐かしかったようです。
父は、記憶がかなり薄れてしまっていますが、「ここは来たことがある」といって、自然に家にとけ込んで、場所が変わったことの混乱はありませんでした。
母は、何もかも、自分たちが出ていった時のままになっている部屋を見回して、感慨深そうでした。
5日間の間に、いらないものを片づけたり、置いていったものを、今の住まいに持って行くべく包んだりして、過ごしていました。
二人とも高齢ですから、来年もまたと言ってはいても、揃って、また呼ぶ日が来るかどうかは、予想しませんでした。
でも、いつの間にか1年経ち、90歳を過ぎた両親を、また呼ぼうとしています。
そこで、二人の様子を見るため、行ってきたというわけです。
父は、時々意識の混濁があったりするようですが、年なりに元気です。
私の顔を見て、名前が出ては来ないのですが、知らない人を見る表情ではありません。
テーブルを囲んで、お茶を飲みながら、いつもそばにいる人のように、私に対する緊張感はありません。
「元気?」と訊くと、「ああ」と答えます。
私の持っていったどら焼きとシュークリームを見比べて、「どっちにする?と訊くと、「どら焼きがいいなあ」と言い、おいしそうに食べました。
母は、時々血圧が不安定になったりすると言いながら、まだ台所で料理を作ったり、カレンダーの余白に、日記のようなことを書いたりして、頭はしっかりしています。
でも、かなりの難聴なので、意思疎通を図るのが大変ですが、自分のことは自分でしますし、お金の管理も、しっかりやっています。
家に来ても、大丈夫だと判断し、あさって迎えに来る約束をして、帰ってきました。
両親は、かつて、私たち夫婦と3年間暮らし、その後、妹と暮らすようになり、1年経って、今のところに移りました。
その間、一口では言えない思いをしましたが、詳しく語るのは止めておきます。
地域の介護問題にも関わっておられるKさんですから、いつか聞いていただく時もあるでしょう。
句会のほう、ご盛況だと聞きました。
ご健吟を祈ります。
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暖かい一日。
ケアハウスにいる両親のところに行く。
前回行ったのはいつだったか。
3年前に、なくしたものが、玄関先の納戸から出てきたので、届けに行ったのだった。
そこは、両親がいた当時、雑貨を入れる場所にしていて、親たちの不要不急のものや、デパートの紙袋、まとめ買いのトイレットペーパーなどで、一杯になっていて、気になりながら、億劫で、片づけていなかった。
先月、掃除機を使っている時に、誤って、床に落ちていたブラウスのボウを吸い込んでしまった。
家の掃除機は、納戸の床下にあるダストパックに、ゴミが集まる集中集塵方式である。
太い大きなホースを、家のあちこちに開けてある穴に差し込み、電源を入れると、モーターが回り、吸い取られたゴミは、納戸の床下のボックスに行く仕掛けである。
年に一回ダストパックを取り替えればいい。
吸塵力抜群でいいが、困るのは、間違ってゴミでないものを吸い込んだ場合、戻すのが大変なのである。
床下を開け、ダストパックを取り出し、その中から目的のものを取り出すのだが、普段は、床下を開けておるわけでなく、ついいろいろなものが上に積んであったりするので、簡単に取り出せないのである。
日が経てばゴミの中に埋もれてしまって、取り出してもゴミまみれで、汚れてしまって、結局捨ててしまうことになる。
いつか、ダストパックの中からゴミを全部取りだしてみたら、ネクタイ、靴下、ゼムクリップ、輪ゴム、ハンカチ、短いエンピツ、ボタン、1円玉まで、ぞろぞろゴミと一緒に固まっていた。
靴下もネクタイも使い物にはならなくなっていた。
ブラウスのボウの時は、そのままにするのは惜しいので、すぐに床下を開けることにしたのである。
開けるには、上に積んであるものを、まずどけねばならない。
廊下に出し、床下を開け、ダストパックから無事、ボウを取り出したが、廊下に出したものを元に戻すのが、大変だった。
ちょっとデザインがいいので捨てかねていたデパートやブティックなどの紙袋を、思い切って、全部捨てることにし、紐で縛って、まとめた。
それだけでも、かなりスペースが空いた。
そうやって、片端から片づけていたら、最後に埃にまみれたビニールの小袋がある。
不燃物にいったん分けて、よく見たら、半透明のビニール越しに、名前のような字が見える。
開けてみると、父の名義の預金通帳、母の名義の郵便貯金通帳、ハンコ、キャッシュカード、それに現金30万円ほどが、入っていたのである。
ビックリした。
そこで思い出したことがあった。
3年前の3月、母は急に思い立って、妹の家に1人で出かけ、翌日帰ってきたが、その時、「大変なことをしちゃった」と言って、話してくれたのが、持っていった通帳とお金をどうも落としたか、すられたらしいということだった。
妹のところで、なぜすぐに言わなかったかというと、持って出たか、置いて出たかが、判然とせず、帰ってから心当たりを探してみようと思ったらしかった。
そして、帰宅後すぐに探したが見つからないので、私に打ち明けたのである。
それは大変と、すぐに、銀行、郵便局などに、手続きをし、どこからもお金が引き出されていないことがわかってホッとした。
現金だけは、あきらめるしかなかったが、キャッシュカードもハンコも作り直して、一応解決した。
その時のものが、3年ぶりに見つかったというわけである。
母はきっと、いつもしまってあるところと違う場所に、置いたために、思い出せずにいたのだろう。
次の日、すぐに母の処に届けた。
「どうしてあんな処にあったのかしら」というと、出がけに、トイレにでも行った時、何気なく納戸の中に置き、そのまま忘れてしまったのかも知れないと言う。
部屋の中を隅々まで探したのに、なかったのは、意識しないところに置いたからで、私にも、そういう経験はある。
3年ぶりに出てきた大金を、母は半分ずつ分けようと言ったが、断って帰ってきた。
その失せものの件については、当時、私たち夫婦は、ずいぶんイヤな思いをしたのである。
「もし、お母さんがくれようとしても、びた一文もらうな」と、連れ合いから言われていた。
その後、母たちは、私の処を去って、妹の家に行き、さらに今のケアハウスに移ることになったが、いろいろなことの発端になった「事件」だったのである。

それから3年。
一緒に住んでいない方が、親子は良い関係でいられることを感じる。
昨年の今頃、両親を家に呼んで、5日間ほど滞在してもらった。
当時に比べると、父は、かなり記憶が曖昧になっているので、居場所が変わって混乱するかと心配したが、車から降りて、我が家にはいると、自然に家にとけ込んで、場所が変わったことの混乱はなかった。
「ここは、前に来たことがあるなあ」と言った。
そして、以前使っていた自分の椅子に、自然に腰掛けた。
母は、何もかも、自分たちが出ていった時のままになっている部屋を見回して、感慨深げであった。
5日間いた間に、いらないものを片づけたり、置いていったものを、今の住まいに持って行くべく包んだりして、過ごしていた。
二人とも高齢だから、来年もまたと言ってはいても、揃って、また呼ぶ日が来るかどうかは、予想していなかった。
でも、いつの間にか1年経ち、90歳を過ぎた両親を、また呼ぼうと計画して、前回母に話してあった。
昨日母から電話があり「やっぱり行ってみたい」というので、二人の様子を見るため、行ってきたというわけである。
父は、時々意識の混濁があったりするらしいが、年なりに元気である。
私の顔を見て、名前が出ては来ないのだが、知らない人を見る表情ではない。
テーブルを囲んで、お茶を飲みながら、いつもそばにいる人のように、私を見ている。
「元気?」と訊くと、「ああ」と答える。
私の持っていったどら焼きとシュークリームを見比べて、「どっちにする?と訊くと、「どら焼きがいいなあ」と言い、おいしそうに食べた。
母は、時々血圧が不安定になったりすると言いながら、まだ台所で料理を作ったり、カレンダーの余白に、日記のようなことを書いたりして、頭はしっかりしている。
でも、かなりの難聴なので、意思疎通を図るのが大変だが、自分のことは自分でするし、お金の管理も、しっかりやっているようだ。
家に来ても、大丈夫だと判断し、あさって迎えに来る約束をして、帰ってきたのであった。


春の嵐
2003年05月01日(木)

Nさん 
春も、終わりに近くなりました。
この2,3日強い風が吹いていますし、昨日も、雨混じりでした。
2日続いて、連句の会に出かけ、それぞれに愉しんできました。
身内のものが築地の聖路加に入院していて、今日お見舞いに行こうとしたら、もう明日は退院だというので、取りやめました。
穏やかないい日です。

先日は 会報有り難うございました。わざわざ増刷までしてくださって、本当に感謝しています。
このごろは月に一回の発行になったようですね。そのためか、例会での連句作品、ネットの付け合い、エッセイまでぎっしり詰まっていて、なかなか読みでがあります。
会のIT化は進んでいるようで、半分以上の人たちは、インターネットをやっておられるのでしょうか。
私のいた頃に比べて、ネットの占める割合が増えているようです。
それは大変結構なことですが、まだまだインターネットに縁のない人もいるので、情報が不公平にならないようにしなくてはいけませんね。
メールは便利なので、気軽に連絡が取りやすく、そうでない人と時間差が出来てしまいます。
小さなことですが、会を運営する人が、その辺を配慮する必要があります。
私が会を止めたのも、もとはといえばそんな情報の不公平さから来たことでした。

話は違いますが、2月3月、私は「桃李歌壇」主催の「連歌百韻」に参加して、大変面白い経験をしました。
インターネットでの興行ですが、サイト運営者である丹仙さんが捌き、それに24人の人が連衆として参加し、約2ヶ月で百韻が巻かれました。
伝統的な連歌に、俳諧を含めた独自のやり方で、膝送りと、競作治定を混合した進め方でした。
連歌の部分は、ちょっと手が出ませんでしたが、俳諧になってからは、何句か付けを出すことも出来ました。
出勝ちの処は、かなりホットな付け合いになり、大変臨場感があって面白かったです。
3月末に満尾、今ネット上に表示されてますので、気が向いたら見てください。
「桃李歌壇」で、検索すれば出てきます。
百韻など、実際の座では時間制限があって、なかなか機会がありませんが、インターネットでは、丁度いいと思いました。
私も、ネット連句の座をふたつ持っていて、常時稼働していますが、時に、面倒だと思うこともあります。
顔が見えない故の気遣い、対応の仕方がありますし、しじゅう、パソコンに向かい合っていなければなりません。
止めちゃおうかと思ったりしますが、参加した人が、愉しかったと言ってくれると、またそれで励みになって、始めたりします。やはり好きなんでしょうね。
数日前から、また付け合いを始め、常連のメンバーの他、今回1人、新しい参加者が加わり、また愉しく出来そうです。 

結社も、上に立つ人が代わり、それにつれて、目に見えないところで、いろいろな動きが出ています。
上昇志向の強い人は、力のある人に近づいて、自分の周りを固めようとしますし、人をけ落とすための策を講じたりします。
本来、こうしたことに無縁であるはずの女性の一部にも、妙な裏技を使う人があり、私は、そうしたこととは、一線を画しています。
当然、軋轢もありますし、可愛げがないので、疎外されるようなこともしばしばありますが、人に喰わせてもらってるわけじゃなし、風雅、風狂の道に遊ぶのに、おのれ以外の何に媚びる必要があるでしょう。
でも、圏外にいると、人がどんな動きをするかよく見えて、なかなか愉しいですよ。
ほんの少数ですが、理解してくれる人とは、仲良くしています。
当分、静観しながら、気持ちよく参加出来る場所だけ、出入りしています。
愉しく、生き生きした連句の出来る場があれば、それに越したことはありませんし、それ以上のことは、もはや望みません。
いつか、ご一緒に風雅の遊びが出来ることを望んでいます。
ところどころ、筆の滑ったところがありますが、お許し下さい。
お元気でご活躍下さい。



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