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昨日連句の会があり、おおよそ30人ぐらいで、五つの席に分かれて、それぞれ付け合いを愉しんだ。 この会は、ずっと、江戸川区にある庭園内の施設で行われていたが、最近は、都心に場所を移し、それに伴って、参加者が増え、賑やかになってきた。 女性が大半、男の人は、多くて7,8人である。 平日の昼間ということもあって、仕事を持つ人には、参加しにくいからであろう。 しっかりした女性が仕切っている会というのは、比較的公平で、明朗である。 そして、その中に参加する男の人は、ヘンに男っぽくなく、女性の中であまり、違和感のない人がいい。 昨日、来ていた男性は、みなそのような人たちであった。 会が終わって、いつも一緒に行く2次会に、男3人、女4人が飲み屋に繰り出し、大いに呑み、食べ、しゃべって帰ってきた。 大体飲み屋に行く人たちというのは、男の人は、いろいろだが、女は、独身、あるいは不良奥さんを自認している人で、貞淑な主婦というのは、あまり参加しないのである。 特に、ある年代以上の女性たちは、飲み屋に行くなどということが、あまり普通でないし、そのためにお金を使うということにも、抵抗があるのかも知れない。 私は、その中での唯一普通の主婦だが、「不良」を自他共に認めているので、飲み会には、進んで参加する。 なんと言っても、話していて愉しいことが一番で、「オールド」などと言う冠詞を付けられても仕方のない年になっていれば、男女の隔たりを超えて、気取りなく付き合える。 話の肴は、連句はもちろん、森羅万象に及び、ときに「ワル口」も入る。 会の中には、皆が「わけありカップル」と噂している人たちがいるが、そんなことをサカナにするわけである。 つまり、サカナにする連中は、みな異性にもてないことを自認しているので、ひとの恋路をテーマにして愉しんでいるわけで、内心羨ましく、悪意があるわけでなく、いい話題を提供してくれていると、感謝しているのである。 好ましきボーイフレンドたち。 男性群はどう思っているのか知らないが、イヤなら一緒に呑んだりしないのだから、向こうも、愉しんでいるのであろう。 2時間ばかり経って、払ったお金は3000円くらい、外に出たらまだ7時であった。
自分のホームページの更新などで疲れたあと、気分転換にあちこちのサイトを訪問する。 関心のあるコンテンツを扱っているものは、直接そこに行き、参加型のものなら書き込んだりもする。 必ず行くのは、やはり私と同じ連句、俳句に短歌、詩などのサイト。 ほかには、同世代の人たちのものが共感できるところが多いので、そこに行く。 いくつかはブックマークに入れて、すぐアクセスできるようにしてある。 ときに、面白いことを発見する。 掲示板を見ていると、そこに書き込んだ人とサイトの主の遣り取りを通じて、運営者の人間性が垣間見られ、ネットでの交流の有様までうかがい知れて、なかなか興味深い。 時々眺めている、ある人気サイト。 運営者は男性だが、女性に人気があると見えて、掲示板を訪れるのは、女性が多い。 その中でも、「私が一番よ」という感じの女性がいて、ほかの女性がそこに書き込むと、ちょっとした焼き餅を焼くのである。 サイトの主は、まめに返事をする人なので、書き込まれた記事に対して、返信また返信で、二人の遣り取りがしばらく続くことがある。 すると、「一番」の女性は、それを中断するかのごとく、違う話題を出して、遣り取りを遮断するのである。 掲示板は、最終記事が出たものが上に行くようになっているので、「一番」が書き込んだところで、それまでの遣り取りは、下に行ってしまう。 すると、サイトの主は、「一番」の記事に返信することになるので、自然、遣り取りは、主と「一番」のものに移っていく。 はじめ、そのあたりのことがよく分からず、新規投稿したが、主と「一番」の会話を結果的に中断してしまったことに気づき、あとでシマッタと思ったのであった。 たかがネット、たかが掲示板というなかれ。 目には見えなくとも、案外と微妙なものが潜んでいるようである。
さいたま芸術劇場に「ペリクリーズ」という芝居を見に行った。 シェイクスピア原作だが、これは読んだことがない。 運命に翻弄されるヒーロー、ヒロインのちょっとギリシャ悲劇風の展開だが、最後は大団円になるもの。 内野聖陽と田中裕子、それに芸達者な白石加代子と市村正親が狂言回し、嵯川哲郎も加わって、豪華な舞台だった。 終わってバスがないので、25分の早足歩きで帰宅。 この芝居は、3月に、ロンドンのナショナルシアターで公演することになっているらしい。 一昔前、かの地に在住中にも、蜷川演出の「近松心中物語がかかり、見に行った。 やはり田中裕子が出て、なかなか良くできていたが、惜しむらくは、日本語の字幕がなかったこと。 開幕前と幕間に、芝居の筋をアナウンスしていたが、やはりセリフを逐一追っての字幕は、必要ではなかったか。 イギリス人にとって、セリフの意味の分からない芝居は、さぞ歯がゆかったろうし、不親切な感は免れない。 今度のロンドン公演は、是非字幕を付けてほしいと思う。 昼は葬式、いったん帰って服を着替えての出直しで、忙しい一日となった。 告別式のあと、精進落としにと、たまたま居合わせた6人でパスタの店に入り、ちょっと一杯やった。 ところが、6人の中に私の嫌いな人がいて、案の定言葉の遣り取りにかちんと来たことがあり、すっかり不快になってしまった。 いい見送りが出来て良かったと思っていたのに、残念だった。 夜は芝居見物に出直すのだからと、思っていたのに、誘われてつい、付き合ってしまったのだった。まっすぐ帰れば良かったと、後悔した。 この人(私より10年ほど年下の女性だが)、頭の良さ、ある種の才能は認めるが、その自信の故か、ちょっと人を見下したものの言い方をするので、好きになれない。 同席すると、必ず一度はイヤな思いをする。 だから、なるべく一緒にならないようにしているが、今日は行きがかり上、一緒になってしまった。 無神経というのか、人を傷つけるようなことを、シラッと言う。 美人だから、異性には人気があるが、彼女を「天敵」と言った女性を知っている。私もそう呼びたい。 いささか不快な気持ちで、家に帰り、喪服を脱いで、明るいものに着替え、「ペリクリーズ」の会場へと向かったのであった。
連句のずっと先輩にあたるSさんが亡くなった。 食道ガンだったという。 2年ほど前、手術をして、それで大分体力が弱ったという話は聞いていた。 元々痩せて食の細い人だったので、病気で、ダメージも大きかったのかも知れない。 でも、一度は小康状態になって、ぼつぼつ連句の会にも出ていた。 私よりは一回りも年上で、近寄りがたい処があったので、個人的なおつき合いはなかったが、連句の座で一緒になると、いろいろなことを教えてもらった。 軽妙洒脱な句風が評判で、慕う人も多く、偉ぶらない人柄は、人気があった。 昨年の連句会に出席し、座で愉しんでいたようだが、私は当番だったので、言葉を交わす暇がなかった。 今になってみると、心残りである。 本業は画家、連句は趣味で愉しんでいて、そこでの俗な欲は、一切持たなかった。 男の美学のようなものを持っていた人と言える。 今夜は通夜、明日告別式である。
今日は寒い日。 いまの季節は文字通りの三寒四温、油断できない。 夫はスポーツクラブに行った。 私は、やはりパソコンの前に来る回数が多い。 「連歌百韻」は、一六句目まで行った。 このうち私の句は二回採られて、二度目は選句もすることになった。 普段やっている連句とまた違い、なかなか奥の深い世界である。 参加者は、そのサイトの「和歌連作の部屋」か「句会」に参加している人たちが大部分のようである。 投句された句を見れば、大体その人の実力のほどが解るが、当初23人いた連衆のうち、毎回投句する人の数は半分くらいである。 捌きの丹仙さんの好評や、連衆との質疑応答が、連句人としても参考になる。 連歌に関心のあるMさんを誘って、彼女もメンバー入りしたが、幸い気に入って投句もしているので、ホッとしている。 毎回一句でも、出すことに決め、今日も、2句投稿した。 連歌初体験、百句の先は長い。これからの展開が楽しみである。
私の連句サイトには、連句用のボードが4つ、それに連詩のボードも置いてある。 そのほかに、サイトの訪問者用にゲストブックを置いていたが、書き込みもないので、「独吟の部屋」という題を付けて、模様替えした。 連句ボードは、複数の人たちで巻くためのもので、それはもちろん愉しいことだが、たまにはひとりでいたいこともある。 今度のボードは、そんなときのためのもの。 思い立ったとき、思いついた句を書き込み、それに自分で付けていく。 発句によって、歌仙でも、三句だけで終わってもよい。 句を作る鍛錬になり、日記代わりの記録にもなる。 締め切りも、時間切れもない。全くの自由気ままな付け合いの旅である。 最近始めた連句の発句で、採用なされなかったが、自分で気に入っていて捨てかねていた発句があったので、それで一巻巻いて見ることにした。 庖丁の少し重たき夜寒かな 水菜壬生菜を売り歩く声 とりあえず脇句を付けた。
「子供の頃、「チ・ヨ・コ・レ・エ・ト」と号令を掛けて、歩を進める遊びをしてました。そのころ、チョコレートなんてなかったんです。 イヤ、あったのかも知れませんが、普通の家には、手の届かないものでした。 それが、いまや、2月になると、街の角々で、リボンなんか掛けて売っている。 そして、勤め先のおじさんたちに配るため、若い女性がいくつも買っていきます。 家のオジサンも現役の頃、そんなチョコをもらって、戸惑っていました。 私は、食べる役目を引き受けましたが、「ホワイトデー」なんかに協力したことはありません。 「アナタが返したかったらすれば」と冷ややかでしたので、オジサンは困って、まとめてご馳走したりしたらしいです。 そのうち、投資するほどの効果がないと思ったのか、女の子たちがチョコをくれなくなって、助かりました。 食べたいときは、ブッカキチョコのビターを買って、酒の肴にします。これが一番です。 つまらない風習はやめて、そのお金を、アフリカなどに寄付すればいいんです。」 あるサイトの掲示板に、こんな記事を投稿した。 私よりは一世代若いと思われる男の人のサイトである。 「今日の問題」という題で、時々時事問題を書いていて、ちょうどバレンタインデーのテーマが載ったところであった。 「読みましたよ」という挨拶代わりに、書いたのである。 すると、「アフリカに寄付」のところで、「厳しいですね」と、返事があった。 そこでまた投稿し、「真に受けないで下さい。そんなことを言いつつ、私もネットのお友達に、チョコをばらまきました。中には本物のチョコが届くと思った人もいるようです」と書いた。 するとまた返事があって、「本気にした人はかわいそうだなあ。」とため息をつくような記事が載った。 私は、ユーモアのつもりだったが、男の人は案外、こんなチョコひと津のようなことも、気に掛けるのかと、意外だった。 連句のボードにも、「殿方にはチョコ進呈」と書いたが、本気にしているのだろうか。 ちょっと心配になった。
インターネットの楽しみは、やはり動きのあるものを見たり、それに自分も参加することにある。 動きのあるものというのは、別にアニメのような画面のことを言っているのではない。 運営者がしじゅうコンテンツを更新し、参加型の掲示板などを置いて、生き生きとした遣り取りのあるものを言う。 過去の作品を年代順に並べるのもいいが、現在の自分が、いまどんなことに興味を持ち、関わっているかと言うことが、見る人の関心を呼ぶのである。 掲示板は、その一つ。 主催者の考えや行き方がよく解ると同時に、そこに来て書き込んだり意見交換する人たちの考えが分かり、サイトの性格、主旨が伝わるのである。 だから、インターネットサイトの命は、ひとつには、参加型の掲示板の運営がうまくいくかどうかも、大きな要因であろう。 私は、連作用の掲示板をいくつか持っているが、この一年の間に、ネット連句はほぼ定着して、常時、興行を行っているし、常連の参加者も、15人ほどになった。 ありがたいことである。 そして、書き込みも、いままで不快な思いをするようなものは、ひとつもなかった。 ただ一度だけ、第三者の実名を話題の中に出した記事があって、投稿者の了解を得て、削除したことがあっただけである。 ネットによく見られる、擬態語、擬声語を多用したたぐいの記事も、見かけなかった。 投稿には、まめに返信するようにしているし、それなりの配慮をしている。 アクセス数は少なくても、いいお客さんのあることが、私には大事なことだからである。 数日前、あるサイトで、主催者を誹謗中傷に近いいい方で、非難する投稿記事を見かけた。 もちろん、参加者の中で、それをたしなめたり反論する人もいて、最終的には、その発言者は、出入り禁止となったようだが、主催者としては、不愉快きわまりないものだったろう。 対応が悪ければ、発言はどんどんエスカレートして、発言者が何を言い出すか解らない感じがあったが、「無理に投稿頂かなくて結構です」との、主催者の弁で、とりあえずは収まった。 ネットというのは、実名も身元も分からずに、付き合うので、時として、言葉が言葉を読んで、トラブルになる可能性もある。 幸い、私の処に来る人たちは、みな礼儀を心得て、思いやりのある人たちなので、ありがたいことである。 我が身に引き比べて、そのサイトの主催者に同情してしまった。
ここ数日暖かい日が続いていたが、今日は、寒い北風の吹く一日だった。 朝10時、夫に駅まで車で送ってもらって、池袋の連句の会へ。 13人が集まり、三席に分かれて巻いた。 くじで引き当てた席は、私より先輩の人たちばかり。 捌きも、上手、座がうまく運んで愉しかった。 終わって、夕方からのパーティーに出るため、青山へ。 もう15年以上になってしまったが、ロンドンにいたときの日本人在住者の会。 年一回の会で、大体夫婦で出ている。 みな、それぞれ当時よりは年を取ったが、合えば、昔の気持ちになり、あちこちで、話に花が咲いていた。 最近あまり履かなくなってしまった細いハイヒールのせいで、少し足が痛い。
ひと月以上日記を書かなかった。 昨年までは、何かあるとせっせと書いていた。 しかし、参加型の連句ボードなどの管理が増え、サイトを分散させたために、日記などは、いくつもかき分けられるものではないので、しばらく遠ざかっていた。 私の本当に書きたいことは、本来ネットなどに公開すべきではないのである。 面識のない人が見るぶんには、ただの読み物だが、万一知っている人の目に触れた場合、「これは私の事かしら」などと、思わないとも限らない。 もちろん、個人を特定して書くわけでないが、人間というのは、自分を中心に考えるので、思わぬ誤解が生じる場合がある。 それを意識して書くと、どこかサビの効かないものになってしまう。 そんなことから、インターネット上に書く日記のあり方について試行錯誤していたわけである。 しかし、不特定の読者に向かって、発信したいことは、折にふれて持っている。 そこで、原則として、知っている人は見ていないことを前提に、またこの日記を再開することにした。
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