沢の螢

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春愁
2003年03月31日(月)

若い頃、春というのは、憂鬱な季節だった。
一種のアレルギーなのか、いまで言う花粉症だったのか、よくわからないが、目が腫れぼったくなり、肌に湿疹が出来、いつも不快だったからである。
それが、17年ほど前に、大病してから、薬やなにかのせいで体質が変わってしまったのか、そうした症状は出なくなった。
それはいいのだが、私は、人がぞろぞろ集まっている環境がキライなので、冬の間鳴りをひそめていた虫が出てくるのと同じく、人間たちが外に出始めると、あまり愉快でなくなるのである。
好きなのは、11月半ばから2月終わり頃までの、(ただし年末年始は除き)寒いが静謐な季節だ。
1人で、静かに何かするのが好きな私にとって、この時期は、ほかに代え難い。
それが、3月も半ばを過ぎて、日が長くなり、人々が街に繰り出すようになると、なにやら落ち着かない気分になり、どこか、静かなところに行きたくなる。
春愁というのは、まさにぴったりである。
そんな話を人にすると、たいていヘンな顔をされてしまう。
「暖かくなったら会いましょうね」というのが、友達と電話して切る前の挨拶になっている。
確かに、風邪を引いたりする心配はなくなり、着ているものが軽くなる分、気持ちも軽やかになるのは違いない。
それと共に、主婦の私にとっては、冬の間怠けていた家の中の雑用をかたづけるストレスもあるわけで、春が来たと喜んでばかりはいられないのである。
一番憂鬱なのが、衣類の入れ替え。
考えただけで気が重くなる。
明日から4月。
しばらくネットに付き合う時間を削って、家の中を片づけねば。
いままで参加していた「百韻連歌」が昨日で満尾。
私の持っている連句ボードの歌仙も今日満尾した。
独吟も昨日で終わった。
新しい付け合いも始めたいが、今週いっぱいは、とりあえず、休むことにした。


弥生尽
2003年03月30日(日)

もうほとんど暖房しなくてもよいくらいになった。
日脚も延びてきている。
私の持っている連句ボードのうち、ひとつは、今日名残の花の句が決まり、あとは挙げ句を待つばかりである。
もうひとつのボードは、捌きを頼んでやっているので、時間がかかり、2月はじめから始まって、まだやっと半分過ぎたところである。
捌き役が、まだ現役のひとなので、3月は決算期にあたり、忙しく、なかなかプライベートのパソコンを開ける暇がなかったようだ。
独吟歌仙は、2月16日からはじめ、今日満尾した。
こちらは、自分の好きなとき、気の向いた時にやっているので、気晴らしにもなり、愉しかった。
こうした連作の場は、私の、ホームページ開設のきっかけでもあったので、これからも続けていきたいと思っている。
難点は、どうも連句という、マイナーな文芸のせいか、参加者が限られてしまうことである。
昨年1人、今年になっても1人、面識のない人が参加してくれているが、主力は、私と同じ連句結社の人たちである。
なんと言っても、説明なしに、すぐ入れるところが便利なので、つい、メンバーに誘ってしまう。
5人のうち、1人は新人を入れたいと思っているところである。
4月から、どんな風にやるか、ちょっと思案している。

午後、散歩を兼ねて、2キロほど離れた本屋に行った。
本は置くスペースが、これ以上ないので、買わずに、図書館で間に合わせているが、新しい本は、手に入りにくいので、時々リサーチに本屋へ行く。
いまどんな本が出ているか、どんなものが売れているか、本屋に行くと、世の中の動きまでわかって面白い。
4月始まりの手帳を買ったついでに、文庫本3冊、やはり買ってしまった。
山本夏彦「完本文語文」、斉藤明美「高峰秀子捨てられない荷物」、会津八一「自註鹿鳴集」。
まずは肩の凝らない斉藤明美から。
大女優デコちゃんの知られざる素顔を、身近にいた女性が書いていて、なかなか興味をそそられる。


日のうつろい
2003年03月27日(木)

少し風はあるが、暖かい一日だった。
郊外の植物園内で、恒例の集まりがあった。
年に一回、花見時に開かれる。
私の家から近いところなので、早めに着いた。
主催者の人が、会場作りを手伝って欲しいというので、そこに居合わせた5人ほどで、先に会場に行った。
開会には、1時間以上ある。
人数分のテーブル、椅子を並べ、弁当や菓子を配り、魔法瓶にお湯を入れたりの支度もして、私は、受付を引き受けることになった。
来た人から会費を集め、座席表を渡す。
そこに、思いがけない人が現れた。
昨年7月以来、交流が途絶えてしまったS氏であった。
彼は、会場に入ったとたん、受付にいる私と、真正面から出会わせることになり、何とも言えない顔をした。
予期してなかったところに、私がいたという感じであった。
「お久しぶりです」と私は言ったが、返事はなかった。
それは、返事をしたくないからと言うよりも、咄嗟のことでことばが出なかったと言った方がいいかも知れない。
このところ、連日イラク攻撃反対のデモや活動に身を投じているらしいと、人づてに聞いていたが、そのためなのか、表情には、疲労の色が濃く表れていた。
「会費を頂けますか」と私は言い、2000円をもらって、引き替えに座席表を渡した。
「どこかなあ」と言いながら、彼は、自分の席を探すべく、離れていった。
この会には、彼も、ずっとメンバーとして参加してきたのである。
でも、今日は欠席するらしいと、昨日ある人から聞いていたので、私にとっても突然のことだった。
私が主催者から預かった出席者名簿には、彼の名が、入っていたが、後から変更したのだろうと思い、その理由を忖度することもせず、受付を手伝っていたのだった。
8ヶ月ぶりの、顔合わせだった。
あることで、訣別して以来、私は、こんな場面を想像してみたことがある。
想像するだけで、私の胸に、じわっと悲しみが押し寄せて、涙が溢れてくることがあった。
その時には、どんなことばが出てくるだろう、そして彼は、どんな顔をするのだろう・・。
でも、月日が経つにつれ、そうした思い入れのようなものは、どこかに沈潜してしまったらしく、予期しないときに迎えた「邂逅」の場面は、実に事務的かつ、感情のこもらないものだった。
やがて時間が経ち、それぞれの席でのプログラムが始まった。
彼の席は、偶然私と背中合わせの、隣の席だった。
背中越しに、時々聞こえてくる彼の声に、耳をそばだてるでもなく、私は自分の席の連句に集中し、うまく雰囲気をつかんで、ひとより多くの句を採ってもらうことが出来た。
後ろを向けば、すぐ小声で話が出来るところに彼がいる。
しかし、どちらからも、互いに顔を向けることも、話しかけることもなく、時間が流れた。
30人以上の人たちが集まっての会は、話し声が絶え間なく聞こえ、華やいだ雰囲気に包まれていた。
しかし、その合間に、彼のことばが、ふっと耳に入ってくることがあった。
控えめではあったが、席にいるメンバーに、戦争の悲惨さを訴えているのだった。
その席での様子はどうだったのか、知る由もないが、終わると彼は、周囲の誘いを断って、すぐに帰っていった。
私は、いつもの仲間と一緒に、近くのそば屋に入り、1時間ばかり談笑して店を出た。
日が長くなり、6時近くになっていたが、まだ明るかった。
園内の桜は、まだうっすらとピンク色に染まるくらいで、昨年より開花が遅れていた。
2年ほど前、この会で、違う席にいた彼が、先に予定が済み、私のほうが終わるのを、それとなく待っていたことがあった。
出口まで一緒に歩いているとき、私は誰かから、そば屋に誘われた。
「行きますか」と彼に言うと、「イヤ、私は飲まないから」と言って、そのままバス停に歩いていった。
酒を飲まない彼は、そうしたつきあいは、あまり好まないようであった。
話したいことがあり、コーヒーにでも誘えばよかったなと思いながら、私はそのまま、誘われたそば屋に、みんなと行ったのである。
その前後の半年ばかりの彼とのつきあいが、私にとっては、最も充実して、愉しいときだった。
文芸に造詣が深く、詩的感性のすぐれた彼から、私は、それまでにない、さまざまなことを教えてもらった。
ひとつの開眼と言っていいかも知れない。
それが、望まぬ形で、断ち切られたのだった。
バスに揺られながら、去る者は日々に疎しというのは、本当だなあと思った。
一時は、心の中にいつも深く位置を占めていたひとが、時の流れと共に、紙のような存在になっていたのだった。
彼のことば、彼の心の有り様を、いつも気にしていた私の心は、別離の悲しみを和らげるために、押し込められ、石のようになってしまったらしい。
これでいいのだ、それを乗り越えたところに、いまの私の詩心があるのだと、自分に言い聞かせながら、八ヶ月という時間の流れを思ったのだった。


ノンポリ
2003年03月25日(火)

私はいわゆる活動家ではない。
若いときは、ハシカのように、左翼思想に走ったり、学生運動に明け暮れたりする人の多い中で、私はどちらかというと、無関心だった。
大学に入ってすぐ、原水爆禁止のデモに行ったことがあるが、上級生の強引な指図ぶりに嫌気がさして、すぐやめた。
女子大では、あまり過激な人はいなかったのだが、ほかの大学から、男子学生がやってきて、運動に勧誘するのである。
その手下のようになって、私たち新入生を、あごで使おうというところが、カチンと来たからである。
左翼社会では、思想と別に、結構な男女差別があって、女は人間と見なされず、もっぱら男どもの走り使いや、彼らの汚れ物の洗濯、炊事に使われたりする例も聞いた。
プロレタリア文学の中にも、そうした描写が出てくる。
私は、普通のサラリーマンの娘で過ごしてきて、生活の中に、左翼の匂いはなく、必然性も感じていなかった。
ただ、何でも見てみたい若さの好奇心のひとつに、高校生までは、禁止されていた、社会活動、その一つとしてのデモがあったのである。
典型的ノンポリ学生の私だったが、安保闘争が起こり、樺美智子さんがでデモの中で命を落としたときは、さすがに黙っていられなくなり、級友たちと、国会前に座り込んだ。
このときの一連の体験は、私の心に深く刻まれている。

今度のイラクに対する米英の攻撃、日本の若い人たちは、どう思っているのか気になる。
関連サイトを見ると、若い人たちが、戦争反対デモに多く参加し、真面目に考えている人が、多いのに、感心し、少しホッとする。
戦後の長い平和と、物質的豊かさの中で、いまの学生たちは、何を考えているのだろうと、時に、疑問がわいてくるような空気を感じていたからである。
捨てたもんじゃないなあと思う。
私たちの若い頃はこうだったなんていってみても始まらない。
どんなに悪い平和でも、偽りの平安であっても、戦争よりはましだといった人がいて、私もそう思う。
戦争は、破壊、憎しみ、悲惨さを生み出すだけで、何も残らない。
だから、ノンポリ主婦の私も、自分のサイトでは、戦争に反対する考えを表明しているのである。
連れ合いは、アメリカが戦争に至ったのは、仕方がないと言う。
理屈はともかく、戦争はイヤだという私と、意見を異にする。
テレビでは、捕虜になったアメリカ兵の不安そうな表情を映し出していた。
攻撃によって死んだイラクの人たちも、命令によって、戦いに赴いた兵隊も、決して心から望んでいない場面に立っているのである。
早く、戦争が終わって欲しい。
それを願うことしかできない。

私の持っている掲示板で、考えを表明し、サイトのトップでも、戦争反対の意思表示をしているが、そのせいかどうか、掲示板の書き込みもなくなってしまった。
人さまざま。それもやむなきことである。
サイトは、私自身のためにあるのだから。


桶屋の風
2003年03月24日(月)

「桃李歌壇」というサイトの「百韻連歌」に参加している。
初めのうちはゆっくりした進み方で、日に一度、それまで投句された句の中で、主宰が吟味して捌き、次の句を募集するというやり方で進んだ。
初折の裏に入るところから、句を採られた人が次の付けを一回休み、その代わり、次の句の選句をするというやり方に変わった。
選句した句をさらに主宰が吟味して治定、次を募集するので、同じくゆっくりのペースで初折が終わった。
2の折に入り、膝送りが終わってから、出勝ちにになった。
速く出した人の句を採る。
採らない場合は、返句する。
それを見定めて、同じ人、あるいはほかの人が、違う句を出す。
このやり方で、付けはどんどん進んだ。
3の折に入り、はじめの6句は、決められた人たちの膝送り。
7句目から、競作と出勝ちをミックスしたやり方で、やはり、かなり進み方は速い。
いま、3の折の裏の、終わり2句目まで来ている。
パソコンを開けたとき、自分の感性に合った句を付けられそうなときに、ポット浮かんだ句を出し、思いがけず、採られたりする。
私の採られた句の中で、一番速かったのは、今日、主宰が募集を顕示して3分後に付けた句であった。
前の人が、遠いところで戦争を聞く、というような句を出して、治定されたので、思わず付けたのが、

柔東風吹いて転がった桶

というものであった。
そこで、パソコンを閉じて、郵便局に行き、帰ってくると、その句が採られていた。
「早技ですね」との主宰のことばだったが、これは、技というようなものでなく、たまたま前句と私の感覚が、うまく合ったと言うことに過ぎない。
戦争は、悲惨を生み出すものだが、他方では、そのことによって、儲かる人間がいるのである。
イラクに仕掛けた戦争が、果たしてアメリカ、イギリスの言うような、「正義のための戦い」だけであるかどうか。
石油の利権を巡る、戦後の動きが速くも水面下で行われている現実。
風が吹けば桶屋が儲かるという、言い慣らされたことばに、皮肉を込めたつもりであった。
日本では、平和でのどかな春の風だが、かの地では、激しい戦争の嵐が吹きまくっている。
そんな思いも込めた。


君死に給ふことなかれ
2003年03月22日(土)

先日テレビで、リバイバルのドラマ「おしん」を見ていたら、山中に隠れ住む脱走兵が、おしんに、「君死にたまふことなかれ」を、暗唱して聞かせる場面があった。
与謝野晶子の詩。
日露戦争に従軍した弟に宛てて詠んだものである。

旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて   与謝野晶子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

以上は私の心覚えなので、原詩とは違うところがあるかも知れぬ。
この詩は少女時代に読み、暗唱したので、いまでも、この冒頭は、口から出てくる。
当時は、いまとは比較にならないくらい言論が抑圧されていた時代、しかも女がこのように、明瞭な反戦とも言えることばを発することなど、思いもよらないことだったと想像する。
ことに驚くのは

すめらみことは、争ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

とある一節である。
天皇は、自分からは戦いに赴かないのだから、妻を持ち、親の待つ弟に、あなたが戦争で死ぬことはない、といっているのである。
不敬罪などのあった時代、どんなに勇気のあることだったかと思う。
いまの日本は、言論の自由が保障されている。
もちろん、社会のあるところで、あるいは、何かと引き替えに、暗黙のうちに言論がセーブされているところがあるかも知れないが、表向きは、憲法で守られていることになっている。
私が、自分のホームページで、政府を批判し、戦争反対のキャンペーンを張ったとしても、特定個人の名誉を破るようなルール違反をしない限り、そのことで、罪に問われるようなことはないであろう。
しかし、国によっては、言論が自由でないどころか、正確な情報さえ与えられないところもあるのだ。
独裁者が強力な権力で、国を制圧しているところでは、言論の自由はないであろう。
しかし、それを排除し、その国民の自由を確保するためという「正義」の旗印を掲げて、よその国に攻撃を仕掛けることが、理にかなうのだろうか。
イギリスの首相の、国民に理解を求める率直かつ説得性あるスピーチに、半ば感動を覚えつつも、なおかつ私は、イラクの人たちを戦火にさらすことは、どうしても賛成できないのである。

ネット上で知っている、関係サイトに、常時アクセスして、イラク関係の情報は得ている。
若い人たちのデモ参加も多い。
腰痛肩こりも、大分良くなった。
意思表示の、実際行動に参加したい気持ちにかられながら、ニュースを見ている。


戦争の行方
2003年03月20日(木)

ブッシュが警告した時間が過ぎて、45分経ったいま、テレビを付けたままで、これを書いている。
砂漠の砂嵐の中で、待機しているアメリカ軍、若い兵士が「待たされるのは、もうイヤだ、早く決着を付けて、妻と子の元に帰りたい」と言っていた。
彼の言う「決着」は、アメリカが早々と、勝利して、戦争が終わることを意味する。
彼の言う「妻と子」は、銃口の先にあるイラクの兵士にもいるはずだが、そのことが、頭にあるかどうか。
あったとしても、それは考えずに、兵士としての任務を果たさねばならない。
それが、彼の仕事であり、生きて帰る道なのだから。
どちらが勝っても負けても、後々まで禍根を残す戦争。
なにひとつ、いいことはないのに、なぜ、戦争はなくならないのか。
日本が、アメリカの傘の下で、平和が守られてきた面は、否定できない。
しかし、間違いは間違いという勇気は、国として必要ではないのか。
アメリカのおごり、イラクの独裁者の傲慢、それらが、罪なき人たちを、戦火にさらすことになる。
そして、本当の犠牲者は、力のない貧しい人たちである。
イラク攻撃が、実行されないことを祈るばかりである。

このあと1時間後に、イラク攻撃が始まった。
腰痛で外に出られない私は、ホームページの中で、せっせと平和を訴えている。

夜、友人の携帯からメール。
アメリカ大使館前で集まって、抗議行動をしているという。
「気を付けて、私の分も」と返信。
関係サイトでは、連日集会やらデモを呼びかけている。

明日は夫の誕生日。
息子夫婦が来ることになっていたが、私が動けないので、また後日集まることにした。


Sさんへ
2003年03月19日(水)

現実の交流は途絶えてしまいましたが、私はあなたのホームページは、いつも見ています。
昨年秋3ヶ月ほど、更新も表示もされず、止まったままでしたね。
その中にいくつかある、参加型の俳句掲示板も、一部表示されませんでした。
どうしたのかな、サイトを閉じてしまったのかなと思っていたら、アドレスを変えていたことを知りました。
そして、今年になって、ホームページが一部復活しました。
でも、新しいコンテンツはなく、前の内容も、かなり削除してしまったようですね。
私が、あなたの目から閉ざすために、サイトごとアドレスを引っ越してしまったように、あなたも、私の目から、消してしまったのでしょうか。
いえ、それは、たぶん私の思い上がり、あなたはそんな思惑など全くなく、単純に、中身を変更しただけなのでしょう。
もしかしたら、本当に大事なものは、別の処に移し、いま、私の目に見えているのは、形骸だけかも知れませんね。
今年になって、あなたの本領発揮と思える掲示板の催しに、私は、新規参加者として、別名で参加していますが、お互い知っていて、知らぬ顔の、暗黙の了解の上でのことは、以前と同じです。
私たちは、以前そんなことを、お互いに愉しんでもいたのでした。
戦争とそれに繋がる悲惨を、何より憎み、反戦の行動にも、参加していたあなたは、いま、予断を許さない国際情勢の中で、毎日何らかの行動に参加しているはずです。
掲示板の催しを、ここしばらく閉じてしまっているのが、何よりの証ですね。
先日、出所はたぶんあなただろうと思われる、戦争に抗議するためのデモの呼びかけビラを、手にしました。
そして、その後、やはりそれに繋がる戦争反対の署名用紙が回ってきて、そこの一行に、私の名前を加えました。
肩を並べて、行動することは出来ませんが、あなたのいま考えていることは、わかるような気がします。
そのように、大きな目的のためには、それ程真摯になれるあなたが、1人の人間の気持ちに対しては、どうして、あれほど冷轍で無関心でいられるのか、不思議に思っています。
それが、活動家の論理というものなのでしょう。
デモの疲れで、体をこわさないように、祈っています。


「鶴は翔んでゆく」
2003年03月16日(日)

ふた昔も前に見た映画。
当時ソビエトだった時代のロシア映画である。
昭和30年代に一度公開され、その時は「戦争と貞操」という題だったらしい。
題名が悪かったのかどうか、あまりヒットせず、消えた。私も見ていない。
2度目の公開は、原作に添って、「鶴は翔んでいく」というタイトルで、六本木の「シネヴィヴァン」で、上映された。
その時初めて、この映画を見た。
戦争に行った夫の帰りを待つ女性が、夫の兄弟や、友人たちに、性的は誘惑を受けながら、必死に身を守り、経済的な苦労もしながら、銃後を生きていく。
そして、待っていた彼女にもたらされたのは夫の死だった。
映画のストーリイや、細かな描写は忘れてしまったが、女が銃後を生きていくつらさ、最後に、花束を持って夫の帰りを迎えに行った彼女が、その死を聞かされ、涙をこらえながら、帰ってきた他の女性の夫に向かって、花束を投げかけるシーンがわすれられない。
下界の喜び悲しみを俯瞰しながら、鶴が飛び立っていくところも、心に残った。
戦争は、多くの悲しみをもたらすが、同時に、こうした素晴らしい映画も生み出している。
それが、映像だけのことであるように、祈りたい。




女と戦争
2003年03月15日(土)

連句仲間の間で、今回のイラク攻撃について、反対の署名をホワイトハウスに送ろうという紙が回ってきた。
500人単位で、集まった段階で送るのだという。
戦争をしたがっているアメリカ、いろいろな思惑が絡んで、必ずしも同調できないヨーロッパ諸国、国連の足並みも乱れていて、難航している。
その中で、態度をはっきりさせ得ないでいる日本。
女たちは、どこであれ、戦争はイヤだと思っている。
誰も死なず、殺さずに、平和的解決は図れないものだろうか。
武器を持つことは出来ないし、何の力もないが、なお、女は、夫や息子や、子どもを戦場に送りたくないと思っているのである。
名前を書いて、ワシントンに送る。
それがどのくらい効果があるか知らない。
でも、何かをせずにいられない。
連句が終わって、飲み屋の席で、私は署名した。



女だけの連句会
2003年03月14日(金)

今日は、新宿近辺まで、連句の会へ。
この会は、実力ある女性だけ5人ほどで仕切っている会である。
月に一度、その都度会の当番が好みのゲストを呼び、いままでに私も4回ほど、声を掛けてもらった。
はじめは、躊躇するものがあったが、このごろは、呼ばれれば、何をおいても行くことにしている。
今日は、12人で2席。
女性だけであった。
そのせいかどうか、みな、リラックスして、本音で、句を出し、恋句は、かなり濃厚な付け句も出たりして、面白かった。
なめらかな指のエロスの惑乱に
というのは、私の句である。
結果は、採られなかったが、自分では満足な句なので、持って帰ってきた。
終わって、近くの喫茶店でお茶を飲み、さらにそのうちの4人が一杯飲み屋に流れ、話と酒を愉しんで散会。


近くて遠きは・・
2003年03月12日(水)

都心での連句会に参加。
11人が3席に分かれて、付け合いを愉しんだ。
この会には、昨年11月から参加させてもらっている。
夏に、それまで入っていた連句のグループをやめることになり、行き場を失っていたときに、教えてくれる人があって、入れてもらった。
この会もしっかりした宗匠が仕切っているので、少人数ながら、中身の濃い連句をやっていて、マジメである。
今日は男性1人だけ。
女性の中にいても、違和感のないタイプで、自然にとけ込める人なので、とても良い。
女性の多い会に、少数の男が加わるときは、あまり男のにおいを感じさせるタイプは、合わない。
魅力があれば、女性の中に波紋を呼び、力のある人は、周りにハーレムを作ろうとして、女性の輪を乱すからである。
女の中には、男が入ると、とたんに媚びを売る人が出てくるので、同性としては、不愉快きわまりない。
今日、連句が早めに終わって、飲みに行った席で、そんなことが話題になった。
飲み会のメンバーは、このごろ大体いつも一緒の顔ぶれ、それに、ちょっと先輩格の人が入って5人。
「連句もいいけど、終わってこれが愉しいのよねえ」と云いながら、無責任なおしゃべりを愉しんで散会。




ことわざ、慣用句
2003年03月08日(土)

風吹きすさぶ中、新宿の連句会へ。

私はネットでの「連歌百韻」に参加していて、夕べ、私の句が治定されたところだった。
治定された句の作者は、次の句の選句にあたることになっていて、今日午後3時の投句締め切りを待たねばならぬ処であったが、やはり連句会には参加したいので、「百韻」主宰の人にわけを云って、午前中の投句の範囲で、選句させてもらうことにした。
いつも、大体10人くらいの人が投句するが、すでに9人が付けてあったし、選びたい句も何句かあったので、あとは、主宰に任せた。
感想と選句の次第をまとめてメールで主宰に送り、それから出かけた。
そのために、1時間遅れての参加となった。

今日のテーマは「ことわざ賦し物」である。
ことわざ、慣用句、4文字熟語などを句に詠み込んで連句を巻くもの。
この会は、2ヶ月に一度、毎回テーマを変えて「賦し物」連句をやる。
1月は、百人一首であった。
今日は、参加者、捌きを入れて14人。
何冊かの参考書を誰かが館内の図書館で借りて来たので、みんなで廻し読みしながら、付けていったが、おかげで知らないことばや慣用句をずいぶん覚え、愉しかった。
やはり年の功というのか、年配者は、よく知っている。
自然話題も多く、おしゃべりも弾んで、終わったのが8時。
10人ほどがそのまま飲み屋に流れ、1時間半ほどさらにおしゃべりしながら、呑み、かつ食べ、散会。
活気に満ちた連句会だった。
昨日に続いての外出で、少し疲れたが、愉しいことの疲れは心地よい。


アメリカの悲劇
2003年03月07日(金)

いまNHKの衛星放送で、1950年代あたりの映画を毎日放映している。
50年代半ばは、映画の黄金時代、日本映画はもとより、アメリカ、ヨーロッパの名作が、ぞくぞく入ってきた時代だった。
私は中学から高校にかけての時期、ほかに娯楽もないので、読書と共に、映画を見ることが、最大の楽しみだった。
このころ読んだ本は、しっかり心に残っているが、映画もそれに劣らず、記憶に刻まれている。
2,3日前のテレビは「陽の当たる場所」だった。
原作はセオドア・ドライザー「アメリカの悲劇」。
貧しい青年が、富豪の叔父を訪ねるところから、物語が始まるが、少し影のある青年を、モンゴメリイ・クリフトが演じている。
工場で働くうち、同僚の女性と恋仲になる。しかし、金持ちの娘と知り合って、その美貌と、将来に横たわる地位と栄誉にこころを奪われてしまう。
妊娠した恋人から結婚を迫られ、また、金持ちの娘との結婚話も持ち上がって、悩んだ挙げ句、弾みで、恋人を水死させてしまう。
罪に問われた彼は、殺意のないことを主張するが、裁判の結果、死刑になる。
獄中に会いに来た金持ちの娘と顔を合わせた瞬間、彼は自分が罪を背負うべきであることを悟る。
恋人の水死は、直接手を出したのでないにしろ、心の中にその死を願い、もう1人の女性が、大きく心に位置を占めていたことは、事実だからだ。
中学生の時、この映画を見たとき、青年の苦悩というものが、よく理解できなかった。
しかし、今回これを見て、アメリカという、自由平等を唱っている社会の、光と影、成功すれば素晴らしい道が開けるが、それだけの力と運のない人間には、実に冷酷、かつチャンスの少ない社会であり、おそらく、それが、今日まで続いているひとつの「悲劇」かも知れないと、思った。
アメリカの栄光は、たくさんのジョージ・イーストマンによって、支えられているのかも知れない。


サイトの引っ越し
2003年03月04日(火)

私はホームページを3つ持っている。
はじめはジオシティーズにあるものだけだった。
それを1ページずつ作り、更新し、コンテンツを少しずつ増やして、かなりの量になった。
原則、実在の私を知っているひとには、公開していなかったが、連句のボードを運営するようになってから、その参加者には、見せていた。
連句作品は参加者の共同作品だから、それを載せるのに、その人たちに内緒というわけには行かなかったからである。
しかし、日記や、連句以外のコンテンツも同時に見せることになり、私の、「ホームページは、日常と違う別の世界」という行き方に合わない面が出てきたので、昨年夏、サイトの中を分けて、連句部門だけ、別のパッケージにした。
そして、私の属する連句グループの人たちに、見てもらおうと、グループのホームページ担当者に、リンクを申し入れた。
ところが、拒否されたのである。
理由はよく分からないが、「あなたのホームページは、プライベートなものだから、俳句、連句を目的とするグループの趣旨に合わないから、リンクすることはお断りします」というのである。
「連句の処だけ別立てにしたので、問題ないと思いますが」といったが、見に来た人が、いずれはほかの部分も見ることになるので、困るという返事だった。
私のホームページのどこが、そんなに困るのか、よく分からなかったが、要するに、その人は、何か別の思惑があって、私のページを、リンクさせたくなかったのである。
リンク欄には、俳句、連句に関するいくつかのサイトがリンクされており、もちろんグループの人のページもあって、私のページだけ拒否されるような理由は、ないように思えた。
「じゃ、グループの名前でなく、あなた個人のホームページになさったら如何ですか」と私は言って、リンクの件はこちらから取り下げた。
個人のホームページなら、リンクするもしないも、そのひとの自由だからである。
グループのホームページなら、決定権は、グループにある。
でも、事実上は、その人がホームページの管理をしていて、ページのデザインを作ることから、グループの作品、活動行事などの公開に関することを、ほぼ一手に引き受けていたので、リンクなども、自分の意のままと思っていたのかも知れない。
私はその人に、自分のホームページのアドレスを教えていなかったが、どこで知ったか、いつの間にか、覗いていたのだった。
連句ボード参加者のために、一時的にボードから、ホームページへアクセスできる設定をしていたことがあり、そんなとき、見つけたのかも知れない。
そのことがきっかけで、私はそのグループをやめることになった。
相談を持ちかけたひとが、その担当者の言うことだけを、一方的に聴き、私をトラブルの元と決めつけたからである。
その人には、私は信頼を寄せていて、ホームページアドレスも、その人だけには、教えてあったのだった。
「ほかの人には、教えないで下さい」と言っていたのに、あるいはその人が、グループのサイト担当者には、教えていたのかも知れない。
その二人の間柄が、どれほど緊密なのか、わたしにはわからないし、関係ないことだが、いずれにせよ、公平を欠く対応の仕方だった。
そのいきさつは、九ヶ月も経った今、もう思い出したくもないので、繰り返さない。
そんな人たちにとって、私のホームページなど、目にしたくもないだろうし、こちらも見てほしくないから、それからしばらくして、私は別のサーバーにサイトを作り、主なコンテンツを、そちらに移した。
10月には、ジオシティーのサイトを、一旦削除した。
ファイルだけは、ディスクに保存しておき、しばらく経って、またジオシティーに、新しくスペースを申し込んだ。
わたしの連句ボード参加者を、いつまでも閉ざしておくわけに行かないからである。
前とは、全く違うコミュニティだった。
でも、内容とコミュニティが合わないので、さらにブックエンドの空き家を探して、アドレスを移した。
そこには、連句関係のコンテンツと、写真だけを置き、前からのお客さんに、公開した。
そして3ヶ月、そのサイトを、今回また引っ越した。
これは、件のグループで、私を切り捨てたひとのアドレスと、番号違いだからである。
今度のアドレスは、私の好きなイギリスの女流ミステリー作家の名なので、嬉しい。
引っ越し先は、向こう4週間元のアドレスに表示されるので、連句関係者には、いずれ判るだろうが、問題の人たちの目には、あまり触れずに済むだろう。
アドレスが変わったために、そこから取り込んだボード類の画像が、消えてしまい、午前中かかって、それらを復旧した。

あとの二つのサイトは、そのままである。
友人知己には、非公開にしてある。
ネットに詳しいひとには、簡単に見つかるだろうが、表向きは、誰も知らない事になっているから、それを前提に、いろいろなものを公開している。
ホームページ作りは、私にとって、いわば「千と千尋」に出てきた顔なしのようなもの。
他人には、ほとんど価値のないものだし、これで、世の中が変わるような力があるわけではない。
これからも、何より自分のために、ページ作りをしていきたい。


ながらえば
2003年03月03日(月)

先月27日は、母の誕生日だったが、その日は都合が悪いというので、今日、行くことになった。
「お昼に何か持っていくからそのつもりでいて」と言ってあった。
母はケアハウスの昼ご飯を断って、父と一緒に待っていた。
デパートに寄り、母の好物の「京観世」と最中、それに雛祭りの仕様で作ってある五目寿司を買っていった。
ハウスの近くのスーパーで、紫の花も少し添えた。
何でも、嵩張るものは、かえって邪魔なのである。
寄り道した分、12時を半時ほど過ぎてしまったが、母はサラダなど作って用意していた。
父は、ベッドでうつらうつらしていたが、私が声を掛けると起きてきて、3人で食卓を囲んだ。
母は満90歳を迎えたのである。
耳がかなり遠くて、補聴器を付けているものの、微妙な話は伝わりにくい。
でもまだまだしっかりしていて、時々料理もしている。
食堂へ行けば、三食の面倒はいらないが、母は、一週間毎に配られるメニューを点検して、野菜不足を自分で補うのだそうだ。
決まった日に、買い物もしてくれるし、洗濯や、父の入浴の世話も、ハウスでしてくれる。
日に何度か様子を見に来て、夜中も、見回ってくれるという。
「ここにいれば、安心よ」と、言う。
ハウスの住人たちとも、当たらずさわらずで付き合っていて、社会勉強もしたらしかった。
父は、よそのおばあさんたちに、人気があり、親切にしてもらっているらしい。
「私が死んでも、大丈夫だわ」と母が言うので、笑ってしまった。
3時間ほど談笑して、帰ってきた。
5月には父が93歳になる。


弥生の空
2003年03月02日(日)

年があらたまって、寒い日が続いた。
インフルエンザが猛威をふるい、私の周りでも、次々病に倒れる人が出てきたが、私は不思議に、風邪らしい風邪も引かず、過ごしてしまった。
みな冬はキライだと言うが、私は、好きな季節だ。
特に、年末年始の慌ただしい時期が終わって、1月半ばから2月いっぱいまでの、静謐な時が好きだ。
寒さを言い訳にして、気に染まぬ事は省き、行きたくないところや、会いたくない人に会わずに済ませるのもいいし、そのくせ、好きなところには出かけるので、結構忙しいのである。
この二月ばかりの間に、連句の座だけで、10回。
終わっての飲み会にも、大体出ているので、交際費も、バカにならないが、人生も残り時間が少なくなるにつれ、楽しみのために、お金を使うことも、気にならなくなった。
ひとり息子には、財産らしいものは何も残してやれないが、家一軒だけは残るから、それで勘弁してもらう。
夫がリタイヤして、完全に年金生活に入ったので、当然、収入は減ったが、その分出費も減ったので、トントンと言うところ。
今のところは、二人とも病気もせず、それぞれの生活と、一緒に過ごす時間とが、自然にバランスよく行っている。
ロンドンから帰ってきて、15年経った。
これからの15年もたちまち過ぎるだろう。
もしかしたら、15年経たないうちに、夫婦のどちらか、あるいは二人とも、この世にいないかも知れない。
そして、次第にあちらの方に知り合いが増え、顔なじみが集まって連句を愉しむことだろう。

昼からの深川連句会に行く。
少し遅れていったので、席がもう設定されていた。
どこに入っていいかまごまごしていたら、会を仕切っているひとが、指示してくれたので、そこに行った。
私には、相性のいいT宗匠の席でホッとした。
Tさんは、歌仙擬きという新しい形式を考案して、それをよくやるので、期待していたが、今日は、国民文化祭の募吟のためということで、半歌仙になった。
「早く終わったら誰か捌きをしますか」と訊かれ、ほかの2人が希望しなかったので、私がさせてもらうことになった。
私の出した発句は
啓蟄や足裏にやはき遊歩道
というのだが、これは私の連句サイトで、没になったものなので、選ばれると困ると思ったが、幸か不幸かTさんの句に決まった。
捌きに連衆3人なので、たっぷり時間がかかり、私の捌きまで回ってこなかったが、むしろ良かったと思った。
Tさんの丁寧な捌きで、ゆっくり進行し、良い一巻になった。
ほかの席は、半歌仙を2回やっていたようなので、私たちの席が終わっても、まだやっていた。
一足先に会場を辞した。
この会は、主宰が常時来ていたときは、いつも25人ぐらいは集まっていた。
今日は、少し寂しく18人。
新しい会長が、終わり頃にあらためて挨拶して、この会を結社直営にするということを言っていたが、そんなお墨付きを付けずとも、人が集まるのは、気持ちよく連句が出来るかどうかにある。
会を運営する人たちが、参加者に対して「よく来ましたね」「またいらっしゃい」という態度があれば、次も何とか行こうとするものである。
今日、少なくとも、私は、会長と事務方の女性から、そういう態度では迎えられなかった。
連句そのものは、とても良かったので、気は済んだが、この次は行くのをやめようと思った。
ほかに二つの会に顔を出しているが、両方とも、「よく来たわね」という顔で、迎えてくれる。
二つとも、しっかりした女性が運営している。
主宰が、だんだん公式行事から退くにつれ、それらの会が、いつも30人前後の参加者で活気が出てきたのは、低きに水が流れるごとき、自然のことである。
「来たくなきゃ、来なくていい」というような顔をされて、誰がそんな会に行く気になるだろうか。



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