ネコヤシキ日笑
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2003年06月30日(月) |
天の時 地の利 人の和 |
ここに標語というのがある。たまに見にゆく。6月の標語は、
天の時 地の利 人の和
Tempo Oportuna,
Situo Konvena,
Kunlaboro Harmonia
となっていた。
「人の和」って、調和して協働する ということなのか。
この標語、出典があるはずだけれど、何なんだろう。
協働にとって、役に立つどころか、妨害になっているのは、他ならぬ私なのだろう。俯いて疲れて、それから、可笑しくて笑って。
温泉のまちまで、列車に2時間半ばかり乗って出かけた。
芝居小屋のような桟敷の会場で、講演会がある。
高い天井にファンが回っていて、周囲の戸は開け放ってあって、
雨上がりのみどりのかぜが吹き渡る。
そんな気持ちのいい場所で、熱心に聴く人たちのなかに居て、
展望の見晴るかせるような講演を聴く。
炊き出しのようなひるごはん。みどりの景色を眺めながら。
古い知り合い、新しい知り合い、顔だけ知っている人、
それらのなかに居て。
聴いたことのうちで、ほんのすこしのことを抱えて。
このごろ行きつけとなった、近所の「おむすび屋」で夕ご飯。
お惣菜を選ぼうとしていると、女主人さんが出てきて、「定食もありますよ」と。
これまではパック入りのお弁当を店内でも食べられる、というしつらいだったのが、おむすび2種類を選んで、それにおかずのお皿と汁物のついた定食となって、500円で登場している。近く、煮魚定食のようなものも出す予定で準備中という。これはますます私好みである。うれしい。
ちょっと顔見知りになった店のおばさん(おばあさん)たちが、このおかずはどうこうとか、こっちも食べてみてとか、話しかけてくれる。朴訥なかんじで、こういうのもわるくない。
◆
来月の集まりのために、会場探し。
こういうとき、けっこうわくわくしている。
さらに、おむすび定食を食べながら、来年の企てが思い浮かんで、そしてその交渉など思い浮かんで、それもまた、わくわくしている。
そんなことをやって、10年近くになった。
なにか、違うことに精力を注ぐときなのではないかな、と思うことがある。
具体的に思うことも。方向転換。試みる。
夜、勉強会。
6名。名前も内容も未だ定まらない集まり。
それゆえに楽しみと言ってくださる意見もあって。
きょうは主にロールプレイ。
こんな対応でいいのかな、こんな反応がかえってきて…と気になる場面をやってみる。
演じるのは慣れないけれど、興味深い。
台詞や身体の動きで相手の反応や観察者の感想があきらかに変わる。
なにが起こっているか(起こしているか)、見てみると、やってみると、ようくわかる(…のに…)。
演劇経験のある方が、声を出すおけいこをつけてくれることになった。
2週間ほどで変えられるものがあるという。
2次会はそんな話で盛り上がった。
7月は3回集まることになりそう。
楽しみ。
雨。
団地の通路に紫陽花。花盛り。
けれどもここの花、いつも色がいまひとつ。
青くでも赤くでもしっかりと発色したらば美しかろうのに。
土にアルカリでも酸でも加えてやろうかなど思う、毎年のこの季節。
それは私の欲。この花はこう咲く花。
出かける予定はやめにした。
じっと家にいた。一歩も出なかった。隣のコンビニにさえも。
借りてきたCD「地上の星」がぐるぐる。
お片づけもやめにした。
怠惰にすごして、トレーニングをすこしと、妄想だらけの瞑想。
昼、牛乳、ヨーグルト、天然酵母パン 冷凍していたもの
おやつ、果物のゼリー
夜、和風ハンバーグ、けんちん汁、金時豆 糖尿病食レトルト
家のなかに、いつでも食べつなげるだけの保存食はある。
昨日の、竹内氏の合宿レッスンを見つけて、申し込んだ。
いちど、やってみたい。会ってみたい。
動けるときに動いておきたい。
また夏の予定が埋まってゆく。
8月は半分以上、家に居ないことになる。
竹内敏晴『日本語のレッスン』(講談社現代新書)。
この方、かなりの年齢まで聞こえず話せずにいたらしいことを知った。演出をする人だし、からだやことばのレッスンで知られている人なので、かなり意外。
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(略)それらのために、レッスンの場とは、
安らぎ、集中する、と同時に、あるいはそのために、
笑う、場であること、が大切らしい。
日常生活で固まったペルソナとしての身ぶりやことば遣いが、突然問いただされ、がらがらと崩れる時に湧き起こる、ベルクソンが分析したような笑いがある。だが、深い集中からからだとことばがいきいきと立ち上がって来て、なにかを一気に突破する瞬間にはじける哄笑もある。
(略)
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きょうは、さいしょのほうの「自分の声に出会う」のあたりまで。
◆
講座を受けている仲間たちと、ちょっと楽しく共同作業。
オレンジ系の口紅を一本買った。
しばらく探していた、ほどよい色味。見つけた。うれしいな。
深夜、ジムでトレーニングしたあとバスに乗ると、美しい女性が立っていた。その隣に立って、さりげなく彼女を観察した。
20代後半といったところか。バレエでもやっているのだろうか、独特のたたずまい。どう美しいかというと、面立ちや服装、からだつき全体、とくに、姿勢が美しい。背筋が伸びているのはもちろんなのだがそれだけではなくて、腕とか首とか胸とかの姿が、緊張しているのではなくそれでいてだらけてもいない、絶妙のバランスにあるのだ。と私は感じた。
たまたま私と同じバス停で彼女も降りた。
反対方向に行く彼女の後ろをさりげなく目で追った。
素材が違うのだから、私は彼女のようにはなれない。
けれど、この素材なりに、美しく行きたい・生きたい、と
今めざしているところ。
こういうと漠然としているけれど、具体的に、私にとって
「美しい」像を探しているところ。
台風。
雨のなかタクシーで出勤したのだが、休講になっていて、職員も午前中に帰宅となった。ひるすぎにかけて激しい雨風。ベランダに積んであった箱が飛ばされているのが見えるけれど、窓を開けて外に出ることができない。鉄の窓枠から積年のゴミが部屋に降りそそぐ。
そうして、夕方には、あっけなく静かな野分けのあと。
◆
この嵐で、久しぶりに明るいうちから家に居た。というか、閉じこめられていた。久しぶりに、たまっていた新聞や郵便物の整理。久しぶりに、瞑想。
人生7年周期説(?)だと、新しい周期の始まりだ。
思い起こしてみると、なるほど7年ごとにひとつの期間があったような
これまでだった。しかし、渦中にあるときはそうとは気づかず、
振り返るとそうなっていたことがわかる、そんなふうだった気がする。
きっといま、新しい周期が始まっているのだ。
そう確信してしばらく暮らす。
誕生日だ。もう、喜ぶような歳ではないのだが。
朝、起きがけに、妹から、メール。
午後、別の部署の同僚から、メールと、プレゼント。
夜、仲間から、メール。
ありがとう。祝ってもらえる。うれしい。
午後、まちなかの中洲の川端のカフェで、M氏と。
なんというのだろう、私にとって、年長の友だち…先輩…、「メンター」にあたる人だと思う。在米の一線の研究者で、かつて、もう10年以上前、日本に居られたときに、研究者向けのネットワークで知りあって、以来、ひとかたならぬお世話になっている方。ご家族、ネコたちとも知り合い。1,2年に一度、学会などの用で日本に帰るときに、会ってくださる。
お互いに、歳をとり、状況の変わったことと、
変わらないライフスタイルと。
夕刻、駅で見送る。
感謝。
美容師の先生が、自分でブローするやり方を手取り足取り指導してくれる。
「丁寧にやっていればちゃんと結果が出ます。いい加減にやっていればそれなりの結果しか出ません」と。そうです。そうですね。「顔の周りの髪は、お洋服の衿と同じです。よれよれの衿の服を着ていては、顔もひきたたないし、気分も元気にならないでしょう」と。
で、ブローについては、朝、髪のねもとまでしっかりぬらしなおして、ブロックごとにブラシにとり、その上からドライヤーをあてて何度も何度も「アイロンをあてる」のだ。丁寧にやるのはけっこう体育会系のしごとだ。それでも、できあがりはてきめんに違うから、やってみるかなー。
◆
眉がうまく描けないので、化粧品やの店先で、ペンシルタイプの眉墨を探していたら、美容部員のオバサンに声をかけられた。顔じゅうの化粧をやり直してみてくれる。ちょっとじぶんでは慣れない顔になる。しかし、目がはっきりして、「目力」が増すかんじがする。目の周りのもの(アイブロー、アイライン、マスカラ)を購入。小物類もいくつか購入。
化粧なんかに関心をもつ女性たちのことがこれまで全然理解できなかったが、このごろ少しわからんでもないきがする。たかが顔の外見とはいえ、されど、人に与えるイメージ、それに自分が自分についてもつイメージも、それで変えることができるんだ。
午前。トイレで手を洗っていると、研究室の新人スタッフさんが入ってくる。
私を見つけるなり、「もうっ。頭に来ますっ、ああいうの!」と。
いつも笑顔のその人が、ほんとうに口をへの字にして怒っている。
「ど、どうしたんですか?」と訊くと、
電源工事の立ち会いのために来ている某事務方のおじさんが、彼女の仕事しているそばで、研究室の荷物がどうこうと苦言を言い募っているとのこと。それも、わざと聞こえるように、しかし彼女に向かっては言わずに。
「言いたいことがあるなら、面と向かってはっきり言えばいいのに。聞こえてるのがわかってて言うんですよ。もうっ!」と。
ああキモチイイ。こんなにストレートにアタマに来て、アタマに来たことを表現するんだ。
◆
夜に集まりごと。
非言語的表現が興味深かった。と書いておこう。
深夜、同じ方向に帰る3人で話ながら歩く。湖のある公園を抜けて、それからモスバーガーで午前2時まで話。今日は主に私の相談事。おそくまでつきあってくださる。一人で考えていたら煮詰まりそうな今日だった。ありがたい。
しかし。夜更かしはほどほどにしなくちゃ。ぼちぼちと長続きしたいから。
実験実習の授業の日。
終わってから、ティーチングアシスタントの院生さんとちょっとシェアリング。きょうは、わりとわかりやすく進められたようだ。前回の経験が活きて、時間配分が向上したと思う。それと、昨日読んだ本の、声の共鳴というのであそんでみて、たぶん、声が楽に出ていたかな。
◆
10年前に近くに勤めていらした知人が、職場に訪ねて来てくれる。
「痩せたね」と言われる。このごろ、あちこちで言われる。
「疲れてる?」とも言われる。暗い顔になっていたかな。
今その瞬間には暗いことなんかなにもないのに。
昨日聞いたことで、今日になって悲しい気持ちになっている。
事実無根、濡れ衣、誤解、曲解。保身、要領よく立ち回る人たち。
言いたい人には言わせとけば、と笑ってみたものの、挫けている私。
じぶんにできることを工夫するだけ。
けど、ちょっとひと休みしたい。弱音を吐いてひと休み。
誹謗中傷、罵詈雑言、讒言
あらまあ、悪口って、どれもちょー難しい字だわ。
可笑しい。
2003年06月04日(水) |
教養/晴れやかに下を向く |
続々と本。きょうは3冊届いた。
Amazonってうまくしたもので、興味のある本ひとつを探すと関連したものがリンクしていて、食指が動く。いま興味のあることのひとつは、身体のトレーニングに関するもの。体力や体型はもちろん、声とか表情とかの非言語的表現というものも含めてのトレーニング。これまで手落ちだったと思うので、どう鍛えていいかが知りたい。やってみたい。
きょうの一冊、鴻上尚史『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』。夕方から読み始めて、ほぼ2/3を一気に読んだ。ベタなタイトルだけれど、内容は佳作。
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教養とは、「モノを知って」いて、「それを、有効に創造的に使える」ということにしておきましょうか。
(略)
そして、感情にも、教養があります。
正確に言えば、感情に、教養のある人とない人がいるのです。
教養の定義を感情に当てはめれば、「感情を知っていて、それを有効に創造的に使える」ということになります。
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…と、抽象的な話もある。感情にまきこまれたり、使われたりではなく、アタマで考えてクールでいようというのでもなく。知って、使うのです。ほんとにね。
主眼は具体的にやってみることのできるヒント。しばらくやってみるつもり。身体のものなので、アタマでわかるだけでは身につかないものね。
◆
仲間が電話やメイルをくれていて、きょうやっとそれに折り返し電話をする。
周囲の情報や提案。率直に言ってくれて、よかった。
バカな私である。学習しないヤツである。
そんなもんな私でありながら、ちょっとでもマシにといっこいっこトレーニングしてゆくしかないなあと思っているこのごろだったのだが。
いまは、穴掘って埋まりたくもなし、下を向く気分でもなし。
晴れやかな気持ちのまま下を向いておく、という選択肢もあることを示唆してくださる。
それが貢献することである(かもしれない)ことも、それが効果的であることも、あるのだな。
ショック。
いい気になってるんじゃないよ。
ちょっと何だよその暮らしぶり。
と、言われているような、しかし慇懃な事務的なことば。
しばらくショックのままに居よう。
ちょっと、本気でどうにかしなくてはいかん。
両親と、山間の温泉まで。
石橋を見て、国民宿舎で昼ご飯を食べて、それから、近くの滝まで、登ったり降りたりする。
父は、やせぎすで、足もとがよろけそう。
母はといえば、太りすぎで息がきれている。
歳をとったふたり。
合わせて私もゆっくりゆっくり歩く。