ネコヤシキ日笑
日記モドキ ↑目次|←昨日|明日→
合宿が終わる。
ひるさがり、バスで金沢駅まで戻って解散。それから夜のヒコーキの時刻まで、地元の仲間たちがあそんでくれることになった。
こんどは、東山の川沿い。ふるい茶屋町を保存した界隈を案内していただいて歩く。
まったり半日くらい過ごしたいような店たち。そしてこれも半日くらいぼーっとすわっていたいような河畔。このあたりだけであと数日はほしい。
見晴らしのいい寺社まで登る。
おしゃべりをしながら、さくさくと登れた。うれしかった。筋トレの成果かな。すこし前までは、このくらいの坂道も、登るのに息がきれて脚があがらなかった。愉しみたいことが愉しめるためにも、体力がいるのね。
とおくに新しい建物たち、近くには路地と低い建物たちを眺める。泣き出しそうな曇り空。ほどよく冷たい空気。昨日のことや、今日のことが、いったりきたり。「泣かないで笑っておくれ」と歌のモンクがぐるぐる。
駅近くで、小宴。地元のごちそうなど。この土地は、食べるものもことごとく美味しい。美味しいものに出会わせてくれる人たちの居るおかげか。時間が来て途中で抜ける。空港へ。泣きそう。ヒコーキはすいていて、3人掛けにひとり。着陸前の消灯。はばからずに泣ける。
帰着すると、久しぶりの激しい雨。少し前には突風が吹いたという。
さあゲンジツですぞ。
心理劇の合宿。
台詞のほんのひとことを変えるだけで、あとの「シナリオ」が書き換えられることが現にある。演じる「役者」はみな、ふつうのわれわれ。というより、ふつうのわれわれはみな役者、なのかな。
おもしろい。そしてキビシイ。
お題目ではなくて人の目の前に顕わにされるもの。
わかっちゃいるけどのはずが、わかってなかったこと。
セッションのあとも、真夜中まで、各地から来ている仲間たちとしゃべって盛り上がる。就寝は午前3時。
◆
昨晩は急にエスペラントで話しかけられて、単語が出てこずに、お返事がしどろもどろになった。エスペラントは初心者だからね、と言い訳もできるが、今日は、日本語で話をしても私はしどろもどろだ、とわかった。
ニンゲン界の初心者であるかもしれない。あああ何年やってるんだか。
金沢。合宿のため。
朝イチの飛行機に乗る。10時前には金沢の繁華街に着く。
昨秋に合宿への道すがらに訪れるまでは、はるか遠い町のように感じられていたのに、今回はこんなに近いんだ。時間距離も、親しさも。
集合時間まで、エスペラントの友、Vさんを訪ねる。昨秋以来だ。
そして、絵や陶像を創っておられるMさん。ホームページを開設したての1996年頃からオンラインでは(作品やことばになのだけれど)お目にかかっていて。そうだ、じっさいに会うのははじめてなのだ。
犀川のほとり近く。Vさんの古書店+住居である、奥に細長いたてものの屋上にのぼる。3人でパイプ椅子にすわって、薔薇の紅茶と南瓜のケーキをいただく。木々のわかいみどり、のどかな空、ちょうどいい温度の風。烏たち、黒光りする瓦屋根たち。久しぶりの晴天だそうだ。ゆったりおしゃべりをして、ひととき。
金沢は佳いところだ、という思いこみが増大する。
じとじとしたり雪に閉じこもったり嫌な人たちに出会ったりもあるに違いないのだが。それにしても。
きょうのばんごはんは、近所の「おむすび屋」にて。大分一村一品・吉野の鶏めしを中心に売っている店。このごろ、お気に入りです。
私はきょうは、鶏めしのおにぎりと五穀米のおにぎり、おかずには、ふきと鶏の炊いたのと、たまごやき。こういうのが好き。ついリピーター化している私である。
食べていると、店のおばあちゃんが、お茶を入れて「苦くないですかねぇ」と持ってくる。別のおばあちゃんが、高菜と煮干しの小鉢ものを「じぶんで作ったんですぅ」と持ってくる。
そこに、広告業界のセールスマンらしき人がやってきた。
何かに載せる広告を依頼していたらしく、おばあちゃんたちが「店長〜」と呼ぶ。呼ばれた人は、かっぽう着を着た、この店でいちばん若いおねえさん。たぶん40代か。どちらかというときついかんじで、素っ気ないふうの人。
打ち合わせの話が聞くともなく聞こえてきて、イメージがどうとか、文字が多いとごちゃごちゃするとか、(内容について)そのへんは考えてもらえるのかとか、載せる写真のこととか、店長のおねえさんが話をしている。「おかあさん、○○のファイル持ってきて、△△のあたりにあるから」といっているところをみると、店のおばあちゃんのひとりは、店長の母親であるらしい。
やっぱりねえ、素朴なおばあちゃんだけではお店はやれないでしょう。この店、はじめは大丈夫かなあ…と思っていたのだけれど、しばらくの間にメニューも増えたし、ロゴなどもちょっと洒落ている。この店長、なかなかやりてであるかもだ。
ねむたい一日だった。夕方、眠ってしまって、それから夜は会議。
深夜に食事、一膳飯屋。こういうところで食べるのがけっこう好きだ。
新しくできた店。壁に鏡が張ってある。じぶんの顔が見える。
◆
一昨日、実家で、子どものころのアルバムを眺めた。
幼稚園にも行かないころから、口を「へ」の字に結んでいる顔が多いんだ、と見つけた。
それから、4つめの小学校で修学旅行に行った先で、3つめの小学校の人たちと偶然出会って、むかしのクラスメイトたちと写っている写真とか、2つめの中学校に転校してから、そこの制服を着ないで、むかしの中学校の校庭で写っている写真なんていうのも、見つけた。
どちらも笑って写っているのだが、今見ると、心から笑ってはいないような、がんばった笑顔。
◆
子どものころから、あいもかわらずの表情をしつづけて生きてきてるんだなあ。でも、子どものころの写真よりはむしろ、いまのほうがやわらかい顔で、わるくないな。
一膳飯屋の鏡にうつったじぶんの顔を見て、つらつらとそんなことを思った。
来るときには来るもので、いちにちに複数のしごとがやって来る。
夜の講座に出かける。すこし寄り道になるバスに乗る。
城趾の公園のきわを走るバス。ゆうぐれどき。
もう、たわわに藤。花みずきの白と紅。つつじ。まだ若いみどり。
走り過ぎる。目に留めて。
昨晩帰省。いつもだと、妹が山の温泉地までドライブに連れて行ってくれることが多いが、きょうは雨。漫画喫茶に連れていってくれた。
漫画喫茶って、初めて行った。みんな、もくもくと漫画を読んでいる。下を向いて黙っている。独りの人も、家族連れも、カップルらしきふたりづれも。誰も、まったくといっていいほど会話などせず、うつむいてもくもく。ふつうの「喫茶店」からすると、異様ではある。
さいしょ、びっくりしたが、しばらく居て観察してみると、ここが流行っているのもわかる気がした。他ではできない時間の過ごし方が許される場所だ。だれにもお愛想が要らない(みんな愛想なし)。だまっていても暗いとも思われない(みんな暗い)。連れと来ていても堂々と(?)独りの世界に閉じこもれる。
この居心地は、私にはわるくない。楽ちん。
ランチを食べたが、それも意外とまともな料理だった。
漫画は、『ホットマン』というのを5巻まで読んだ。
これも、意外とよかった。あと10巻ある。
『弘法大師空海』なんてのもあった。
また行きたいな。
それから、温泉。マッサージ機100円とコーヒー牛乳120円も堪能。
妹からお下がり(お上がり?)のVAIOを引き取り。
先日、眉の描き方を教えてくれた方に、きょうもメイクアップを教えてもらう。50代かな、ひょうひょうとしたおばさまなのだけれど、この方に会うのはちょっと楽しみ。
これまで私は、メイクアップなんか(なんかと言っては失礼だけれど)まったく縁がないと思い、化粧なんかしないでナチュラルでいくのよー、と思っていたのだが、この方に会って考えが変わった。
たとえば、きょうも、ファウンデーションの説明をしながら、「素肌よりも素肌らしい」のような仕上がりの形容をされていたとき、また、つぎつぎにいろいろな小物をとりだして見せてくれるとき、そのようすがうれしそうでさえあって、私はそんなものなら試してみてもいいなあ、と思った次第。
眉の描き方をまたおしえてもらい、またカットされた。
練習、練習、と。
出来の悪い生徒に補習でおしえてもらっているような時間。
こんなのも新鮮で、悪くないな。
書店をひやかしていて、『着物の時間』というムックが気になって購入。
女優さんやエッセイスト、デザイナーさんたちが着物を着た写真と、インタビュー中心の記事がたくさん載っている。
着物は好きだ。滅多に着る機会もないけれど、昨年は、母親からもらった大島紬を一度着た。つい先週も、古着の着物を売る店で、ひとつ試着をした。迷ったが買わずにきた。おカネや場所をくうので、そうそうは買えないけれど、あとひとそろい、紬かアンティークものの、ちょっと気軽な外出着になるくらいのものが持てたらと思っているところだ。
このムックに載っている人たちの着あわせやたたずまいはなかなか粋で、こんなかんじで着ることができたらいいなあと眺めた。縞や格子のもの、アジアの布を着物や帯に仕立てたものも、いい風情だ。
そして、着物姿だけでなく。
今の私には距離があるが、10年20年と生きていって、こんなおばあさんになれたらいいな、と思われる人たちが載っている。
---------
青木玉(幸田文の娘、幸田露伴の孫)
(ヘアスタイルは)「…さっさと自分でまとめてますけど、後ろに目がないから、果たしてどうなっているか、あれこれ忖度している間がない。それより、遅れないで、来てくださった方に、ちゃんと向き合えるようにしておくことのほうが大事だと思いましてね」
…「母の気性で着たものはだめ。母は強いの、私の気性のほうが、はるかに緩い。…いま、考えずに着て、着物や帯が私から浮き上がるのを、むざむざ見たくない思いです」
---------
「忖度している間」「気性で着る」「気性が緩い」「むざむざ見たくない」のようなことばづかいも、このひとらしい。母親の着物を着ると肩が凝る、と書いてあるのだが、写真では、なで肩の、力の抜けた、着物が身体に沿った風情だ。あこがれる。
2003年04月17日(木) |
体力勝負/愛らしい言語 |
1時間半かけて、遠くの勉強会に参加しに行く。
どうも、「世間話」の「勉強会」は、私は苦手だ。
深夜、別の場所(ハンバーガーショップ)で、もうひとりの参加者と話。
本の話から、エスペラントの話になる。ちょうど、『エスペラント単語練習帳』の本を持ち歩いていたので。
興味を示してくださったので、久しぶりにエスペラントの例文を読んだ。この言語は、声にだしてみると音が愛らしい。すこし西欧のことばを習った人なら単語の意味の類推もできるので、そんなところも面白く思われたみたい。しばらくごぶさたしたのだが、それでも読めばわかるところが、エスペラントのすごいところだわ。勉強を再開して、もっと追究してみようかな。なんて、何度目かの決心。とほほ。
店を出たのは深夜2時。さすがに疲れている。
それなのに、性懲りもなく、来週も勉強会をすることにした。
こんどはテキスト輪読。
体力勝負だぜ。
夜、某公設施設の利用者会議に出席。
ボランティア活動団体をやっているような人たちが集まる。
みな、ある種、熱意のある人たちなので(だからかな)、一家言のある人がおおくて、この前の会議はもう、コトが決まらず、紛糾した。
今回は、委員会に参加する人たちだけの会議だ。
私も、半ば志願のかたちで、これに参加することになった。
人数がしぼられて、話はしやすくなったが、なかに1,2名、強硬に発言する方々がおられて、その方々のペースで議事は進んでいく。
むむむ。
しかしまあ、何かコトを動かすのには、だれかがすこし強引にひっぱるほうが、カンタンにいくこともあるなあ、とこのごろ思う。今回のプロジェクトはこの進め方に任せてみて、そのなかで私自身としての実験をしてみるかなあ、と思っているところ。
まあ、とにかく、当分、毎週会議。
やっかいだが、前向きにコトが進むのは、いいなあ。
それにくらべて…会議をやることひとつ、なかなか決まらない集団とかかわっていて…あああ、この部分は愚痴です。はい。
一昨日、『やすらぎが見つかる心理学―5つの物語で読む心のコリのほぐし方』という本を買った(中川晶著/PHP)。買ったとき、著者が来ておられて、ひとりひとりに声をかけてくれながらサインをしていただけた。心療内科の先生だが、「漫画家になろうと思ってたんですよ〜」などと気さくな笑顔をなさる方で、この人の書いたものなら、きっとわるくないだろうな、と思った。
きょう、晩ごはんどきから読み始めた。
これはオススメだわ。
寓話のような物語と、それにことよせた解説部分とがあって、さらさらと読ませるけれども、内容はきっちりあって、しみじみと読み返したくなる。
さいしょの話は、みんながそれぞれ違った色の「こころの色めがね」をかけていて、現実には同じことが起こるのでも、不幸色のめがねをかけていれば不幸に、幸福色のめがねをかけていれば幸福だと思える。色めがねなしで真実を見ることなんてできない、という話。
で、そのなかに、何を幸せと感じるかは人それぞれ違う、というところがあった。
----------
ドイツの心理学者、シュプランガーは、何に価値を見いだすかによって、1)理論、2)経済、3)審美、4)社会、5)政治、6)宗教の六種類に性格を分類しています。そしてそれぞれの領域での成功が本人の幸せと結びついているというのです。…
----------
きのうの映画を観たあとだったせいか、私は何に価値をおいているのかなあ、とちょっと考えてしまった。2)経済 5)政治 には、あんまり価値をおいていないと思う。残りは、どれかなあ? ある種のうつくしさに意味を見いだしているようでもあるし、ある種の社会的位置づけかもしれない気もする。自己分析はあてにならない、という。私を知っていてくれる仲間たちだとなんというかなあ?
『小さな中国のお針子』を見に行った。
絵もお話もきわめてうつくしかった。思い入れをこめてすみずみまで丹念に、実直につくられた作品だと思う。堪能。それなのにまあ、観客は3人だけ。もったいない。私はまた観るかもしれない。
撮影地、キャスト、言語、すべて中国なんだけれど、中国映画というよりもシノワ映画とでもいいたいかんじ。つくりがどこか中国ばなれしていて、フランスからみた中国みたいなのだ(って私がいうのもヘンだけど)。
ロケ地の風景。こんな場所がほんとうに地上にあるのだなあ。この現場をみるためだけに中国の奥地に行ってみたい、と思った。物語については、言い尽くせない。割愛。
◆
つい昨日のことだが、数人でお茶をしていて、「(夫婦などで)同じ映画を見ても全然ちがうところを見ている、おもしろいねえ」といった話をしたところだった。
そのときは『初恋の来た道』という中国映画の話題になったのだけれど、感動して泣いたという人もいれば、あんなのは全然…という人もいた。それから、音楽がどうとか文化大革命がどうとかいう人もいるようだった。私はこれを観たとき、泣きはしなかったが、しばらくこころに残るものがあった。
同じく「感動した」といっても、その感動のなかみも、人によって違うんだなあ。ほんとうにおもしろい。私の場合は、まず、人の表情とか衣装、器や料理、風景などの、配し方の行き届いていることとか、映像や音でもって描き伝えることの巧みさとかに感動している部分があるみたい。
描かれている人のありよう、生きようもこころに残っているのだけれど、登場人物そのものに感動するというよりも、そのように描き出す制作者たちのこころもち、感性、意志のようなものに感動している、のかもしれない。物語も堪能しているのだけれど、なんというか、物語になりきって味わっているのではなくて、どこか人間のつくりあげた作品として味わっているというか。
このごろ、初対面の人たちの集まりで、お互いに自己紹介をする、という場面が続いている。先月と今月とで、今日が5回目くらいになるかな。
きょうは、3ヶ月だけいっしょに講座を受ける人たちの集まりだった。わりと若い人たちが多い。短く明瞭に話すひとたちに、みとれてしまった。ききほれた、というのかな。かくいう私は、とほほ…なのであった。でも、みとれるような人たちとまみえることができるのは、うれしい。