ネコヤシキ日笑
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スマナサーラ長老という方の法話と冥想会へ。
スリランカ上座仏教の方で、日本語での本がいくつかある。
ヴィパッサナーという、ただただ観察する瞑想。「実況中継」とこの方は言われる。
こわい方だ、すごい方だ、と感じた。ものすごく澄明で、言い逃れや言い繕いを見透かされている、かんじがした。それもまた妄想なのだろう。
新幹線で帰るのは長老と私のふたりだけで、会場から新大阪の駅まで、電車を乗り継いでいく間、随行させていただくことになった。私は、おそれおおい方の隣にいるだけで、浮き足だったり緊張したりしていた。
切符売り場が混雑するんだ、とか、インターネットの予約が、とか、乗換が、とか、みもふたもない話をしていた。感想をたずねられて、よくわからないが、とにかく実際にお会いできて、やってみることができて、よかった、というようなことを言った。
本は、読んだだけではわからないように、ただ興味だけは持ってもらえる程度に書いている、と長老はおっしゃった。そして、気楽に暮らせるようになる、くよくよしてもすぐ笑えるようになる、と。あらあら、私がくよくよと妄想をふくらませていたのを見透かされていたかのようだった。
とにかく、実践、実験、してみよう。
アドラー心理学に出会ったころ、やっぱり、まず本を読んで興味を持ち、それから野田先生という方の話を聴きに出かけた。
こわい方だ、すごい方だ、と感じた。
講演会の会場から帰るバスで、ふたりだけになり、随行させていただいたことがあった。そのときもやはり、私は、おそれおおい方の隣にいるだけで、浮き足だったり緊張したりしていた。やはり、長距離バスが、とか、脚が、とか、みもふたもない話をした。
それから10年近くになる。
みんなでみかん(日向夏)をむいて、ひとふさずつにむいたり、ふさにわけずにナイフで切り分けたりして、ああするのがいいとか、これもいいとか、おいしいとか、かしましく食べていたら、そこに居た、はじめて会う若い人が、すごくおもしろそうに、たのしそうに、破顔というかんじで 、なんども笑った。
私は、かしましくみかんを食べる側に居て、その若い人がそんなふうに笑っているのを見て、じぶんがすごくおもしろくてたのしいことをしているような気がして、なんだかうれしくなった。
あとでわかったことに、その若い人は、いま調子をわるくして、入院するかどうかとかいっているかただそうで、とてもそうは思えないほど、安定して、しあわせそうに、その場に居らした。
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言おう言おうと何ヶ月も思っているひとことが言えずに(言わずに)、また今日も言えずに(言わずに)終わった。まだ機が熟していないのだろうか。言うときではないということなのかな。
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「出かけるのはいやじゃないけど、ひとりで宿の部屋に入るとき、ひどく耐え難い感じがして、それがもうとてもダメなの」とおっしゃるかたがいた。
私は、ひとり旅は、すっかりおなじみで、たいていはぜんぜん平気だけれど、ときどき、全身の奥のほうで泣いてしまうようなことが、ある。
夜道をひとりであるいて、ビジネスホテルの部屋にひとり帰るとき、奥のほうで泣くようなかんじが、した。
大阪へ出かける。
みんなで食事をしているとき、私について、「(前は 妖気 がただよっていたが)このごろ 陽気 がただよっている」と言われる。
ふうん。陽気? 陽気!
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なんでお遍路? なんで心理学? と問うてくれるおたよりをもらって、そういえば何と答えられるのだろうかと改めて考えていたりする。
あああ。間違っているなあ。
ひどく何かが間違っている。
こういうときは、ひとりで考えていても、どうどうめぐりだ。