マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

第71回・東京優駿(日本ダービー)観戦記 - 2004年05月30日(日)

 今日のダービーは、僕にとってはいいレースだった。
 とりあえず強い馬が強い競馬をしたのだし、馬券も当たった。
それも、馬券を買う直前に日刊スポーツの見出しでハーツクライの名前を見つけ、お母さん(ちなみに、ハーツクライの父親はサンデーサイレンス)のアイリッシュダンスの父親がトニービンだったので、「やっぱり府中はトニービンだよな」と買い足した馬券が当たってくれたのだから、気分が悪いはずもないのだが(しかも、イキオイでけっこうな金額をハーツクライからキングカメハメハとハイヤーゲームに流していたので)。

 それにしても、競馬というのは残酷なものだと思う。先週はダンスインザムードの「無敗のオークス馬」という夢が破れたわけだし、今週はコスモバルクの「初の地方馬のダービー制覇」という夢が破れた。
 冷静に考えれば、先週のダンスインザムードの一番人気は当然としても、桜花賞から一気に800mも距離が伸びることや3歳牝馬の調整の難しさを考えれば、あれだけ一本被りになるのは「実力以上に偏ったオッズ」であり、賭ける対象としては「ハイリスク・ローリターン」ではあったのだ。
 それを理解しながら、ダンスインザムードを買ってしまった僕は「負け組」だったわけだが。
 コスモバルクについては、皐月賞の時点で「この馬にチャンスがあるとすれば、2000mの皐月賞だろう」と思っていた。行きたがるところのある馬だし、プリンスリーギフトのクロスと母父トウショウボーイからすれば、早い時期で距離が短いほうが有利なのではないか、と感じていたし。
 しかしながら、皐月賞でスローペースのなかみんな最後は脚色が同じになってしまっているのに1頭だけ猛然と追い上げてきたバルクの脚は、「ダービーこそ!」というようなイメージを増幅してしまった面もある。
 そして、あの皐月賞の結果からすると「要するに最後の直線での位置取りの差だけで、着順は必ずしも能力を反映していない」ということも言えたのだと思う。
 それにしても、今日はあんなにマイネルマクロスがキッチリ逃げてくれるとは意外だった。皐月賞は逃げられず、おかげで超スローになって前残りの競馬になってしまったわけだが、僕は今回もあんな感じでまともには逃げないと思っていたのだ。ひょっとしたら、小牧のグレイトジャーニーとかがハナを切るのではないか、とも。
 マイネル・コスモの岡田オーナーが今回の皐月賞・ダービーで勝たせたがっているのはいろいろなインタビューなどから考えると明らかに「道営の星」ことコスモバルクで、バルクはもともと府中の2400mだと距離不安のある先行馬だから、作戦としては、マイネルマクロスがスローに落として逃げて、バルクが早目に抜け出す、というものだと思っていた。道中スローで直線だけの競馬にでもなれば、差し・追い込み勢には出番はない。
 しかしながら、実際のレースは後藤がちゃんと(?)逃げて、パドックからイライラしていたバルクは引っかかってしまった。北海道との気温差や長距離輸送、ダービーというレースのプレッシャーなど、考えてみれば「人気にするにはリスクが高すぎる馬」だったのだと思う。五十嵐騎手は「自分のミス」だと言ったらしいが、あの状況ではムリに抑えることもできなかっただろうし、少々丸め込んでみたところで、掲示板もなかっただろう。そもそも、掲示板には先行馬は全然載っていなかったわけだし。
 しかしながら、最後の直線でバテバテになりながらも、必死に前の馬に喰らいついていこうとするバルクの姿を見て、僕はこの馬のことが好きになった。人間の思惑はさておき、この馬は勝ちたかったんだな、と思ったのだ。
 それにしても後藤、空気の読めないオトコ…

 もっとも、勝ったキングカメハメハのアンカツだって、「馬に勝たせてもらったレース」だと言えなくもない。今日のキングカメハメハの直線入口で先頭に並びかけるというレースは、明らかに仕掛けが早かった。ハードなレースで、最後はみんなバテバテになってしまったのと馬の能力で押し切れたが、ゆったり乗れていれば、もっとラクに勝てたような気もする。
 それでも、「勝った」という事実にかわりはないし、勝負の世界は結果がすべてなのだけど。
 勝って戻ってきたアンカツの表情があまりに満面の笑顔で、久々にこんなに嬉しそうな顔の人を見たな、なんて思ったり。

 ハイアーゲームは、本当に惜しかった。でも、蛯名は徹底してキングカメハメハをマークしていたし、鬼気迫る騎乗だったと思う。勝ちにいった分だけ、最後脚が上がってハーツクライにも差されたわけだが(馬券的には腹が立たないこともないけど)、「ダービーに勝ちたい!」という気持ちはすごく伝わってきた。内容的には、「負けて強し」と言えるだろう。カメハメハを意識しすぎなければ、2着はあったような気はするけど。
 対照的にハーツクライは、自分の競馬に徹して2着に突っ込んできた。まあ、横山典とツルマルボーイでおなじみの「勝負が終わった後の豪脚」だったわけだが。でも、さすがトニービンの孫、府中は走るよこの馬。
 ただし、こういう競馬しかできないと、菊花賞とかは危険な人気馬になりそうだ。

 2着から7着までがサンデー産駒だったり、久々に追い込み馬の出番があったりで、なかなか興味深く面白いダービーだったのだが、残念なこともあった。
 マイネルブルックの予後不良とコスモサンビームの骨折。マイネルブルックは、きさらぎ賞の最後の脚が使えれば、ダービーでも面白いと思って馬券も買っていただけに(そして、あの映像を見てしまったために)、非常に残念だし、コスモサンビームも朝日杯、マイルカップとお世話になっていただけに悲しい。岡田代表にとっては、悪夢のようなダービーだっただろうと思う。
 もちろん「タイムが出すぎる馬場」というのは問題なのだろうけど、ダービーというのは、それだけみんなが必死になるレースなのだ。

 繰り返すが、競馬というのは残酷だ。地方馬の夢は打ち砕かれ、NHKマイル優勝馬は来ないとかいうジンクスは破られた。この間まで「地方騎手」として中央の騎手たちに目の敵にされていたはずの騎手が、地方馬・地方騎手の挑戦を退けて、「中央競馬の牙城」を守ってみせた。去年デムーロが勝った時点で、「牙城」なんて無くなっていたのかもしれないけれど。

 そして、「叩き上げの馬」がサンデーサイレンス(もしくはキングマンボ)の良血に勝つ姿を夢見た人々の夢は、またも無惨に散った。
 でも、そういうふうに残酷だからこそ、競馬は人生に例えられるのだし、そんな中でごく稀に具現化されるドラマに、人は酔うのだろう。

 寺山修司は、「さらば、ハイセイコー」でこんなふうに書いている。

【ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても 全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には 次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが 
朝焼けの中で追い切りをしている地響きが聞こえてくる】

 さて、あと何回ダービーを観られるかな。



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WEB日記の世界の中心で - 2004年05月27日(木)

たくさんのWEB日記を読みながら、いろんなことを考える。

僕はこんなに何かに対して夢中になれないなあ。
僕はそんな適当な生き方はできないなあ。

僕はそんなに自分に自信を持てないよ。
この人ももっと自信を持てばいいのに。

このくらい、僕も女性と自然に接することができればいいのに。
そんな、童貞童貞って、大声出すようなことかよ。

どうしてそんなに誰かを誹謗中傷できるんだ?
そんなの、あなたが謝る必要はないに決まってるじゃないか!

いいよね、愛とかそういうことばっかり語ってて、ヒマでさ。
理屈は正しいかもしれないけど「理論こそが正義」なら、今頃教科書は「資本論」だろ?


結局、どこにも行き場が無くて、世界の中心の真空地帯に、僕はひとりで佇んでいる。



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なぜ、『ドラえもん』が好きだったのか? - 2004年05月26日(水)

よしもとばななさんの「デッドエンドの思い出」を読んでいて、僕は一つのことに気がついた。
それは、「僕はなぜ『ドラえもん』が好きだったのか?」という理由。
今まではね、ひみつ道具が欲しいなあ、というのが僕の『ドラえもん』好きの理由だと思っていたんだけど、どうもそれは違っていたみたい。
僕はきっと、「ドラえもんのような友達が欲しかった」ただ、それだけなのだと思う。ひみつ道具なんかは二の次で。
ドラえもんはいつも部屋にいて、ちょっと困ったような顔をしながら、ときどき、どら焼きをおいしそうに食べたり、マンガを読んで面白そうに大笑いしたりする。
頼みごとをすると面白そうに引き受けてくれることもあれば、あきれて説教をはじめることもある。
でも、ふたりはすぐに元にもどる。
ドラえもんは、いつもそこにいるのだ。

彼らはお互いに、自慢したりあきれたり、頼ったり頼られたりしながら、「しょうがないなあ」なんて腐れ縁を続けていて、どちらかがピンチに陥ったら、全力で相手を助けようとする。
「高めあう人間関係」なんてプレッシャーは二人のあいだには存在しないし、たぶん、日頃は「暇だねえ」なんてときどき言い合いながら散らかった部屋に寝転がって、読み飽きたマンガを読んでいるのだ。

いつまでも、いつまでも変わらずに続いていく日常。

僕はたぶん、何かを競い合ったり、自分の意見を声高に主張するより、そういう生き方が好きなのだと思う。
にもかかわらず、僕にドラえもんはいないし、そういう生き方が好きな自分を「認める」ことができないのだ。

ああ、でもこうやって何かを文章にすることが、今の僕にとっての「ドラえもん」なのかもしれない。


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「正しさ」と「正しさ」の衝突の果てに - 2004年05月25日(火)

ひとつだけ言えることがあるとするならば、「悪いことをやろうと思ってやっている人は、世界中にほとんどいない」ということだ。オウム信者が地下鉄でサリンを撒いたのは、彼らなりの「理想社会」という強迫観念に基づいたもので、テロリストが飛行機で世界貿易センターに突っ込んだのだって、「アメリカ帝国主義に一矢を報いる」という彼らなりの正義に基づいたものなのだ。
世界は「ロード・オブ・ザ・リング」の冥王サウロンのような「絶対悪」は存在しない。もしそうであれば、それほどラクなことはないのだが。
そのかわり、「ロード・オブ・ザ・リング」の旅の仲間のあいだに起こったような「疑心暗鬼」は、常に身の回りにうずまいている。
ボロミアが指輪に心を囚われたのは、彼の国の現状をなんとかしたいという「正義」からであり、フロドが仲間から離れたのも、「指輪を野心から守る」という「正義」に基づいた行動なのだ。
「正義と悪」というような、ブッシュ大統領が得意な観念なんてのは世界にはたぶん存在せず(世の中には、ごく一部だけ「悪いことをしたい」という人も確かにいる。でも、それはごく一部だ)、大概の争いは「正義対正義」によって起こる。北朝鮮の拉致事件について、あの国はそんなに罪の意識を持っていないのではないか、なんて僕は思っている。「だって、日本は太平洋戦争でわが国を侵略して、多くの犠牲者を出し、民族のアイデンティティをぶち壊したじゃないか。それに比べたら、拉致被害者の数なんて微々たるものだろう?」そういう「彼らの正義」と「拉致は悪いことだ。同胞をすぐに返せ!」という「僕たちの正義」がぶつかり合っている。
お互いの間違っていたところを認め合って改善の方向にすすめばいいのだが、残念なことに大概の争いはそうはならない。
だって、「自分たちは正しい」のだから。
そして、そのことがまた、悲劇を深めていくのだ。

譲り合って、お互いの正義を尊重しあえたら、なんて思う。
でも、その一方で、拉致問題を解決するもっとも手っ取り早い方法は、アメリカ風に「正義」と言う名のミサイルの雨を降らせることなのではないか、という考えが浮かんできて仕方が無い。
要するに「より強いほうが正義」なのではないかという、シンプルかつ暗澹たる結論。
「より正しいから勝った」のではなく「より強かったから自分たちを正当化できた」という、歴史の冷酷。



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悲しき「温度差」 - 2004年05月23日(日)

 蓮池さんと地村さんの子供たちが日本へやってきて、曽我さんの夫と子供たちは、北朝鮮に残った。昨日の夜の家族会の会見は、僕にはとても痛々しく感じられるもので、彼らが小泉首相を「あなたにはプライドがあるんですか!」という光景には、正直なところ嫌悪感を覚えずにいられなかった。「予想されたなかで、最低の結果だった」確かに、そうなのかもしれない。多額の支援と5人の子供たちの帰国。拉致被害者の再調査については、調査そのものは約束させたものの、期限も決められず。平壌宣言が遵守されれば、経済制裁は行わない、という言質まで与えてしまった、というような結果は、彼らに失望をもたらしたのだろう。
 彼らが言っていることは正しい。あれは確かに「屈辱外交」と言われても仕方がないものだし、拉致した側に援助を与えて被害者の家族を日本に連れてくるなんていうのは、理不尽極まりない。まさに「盗人に追い銭」だ。
 でも、実際にそういう「正しさ」を振りかざして小泉首相を罵倒する家族会の一部の人たちを見て、僕は首相はかわいそうだな、と思った。
 家族会の人たちが望むような「最高の結末」というのが現状で急に得られるとは考えにくいし、何より小泉首相や日本政府が彼らを拉致させたわけではない。それなのに、どうして「あなたにはプライドというものが無いのか!」なんて罵倒されなければならないのか。
もちろん、拉致された人たちには何の罪もない。普通の生活をしている人が、プロの工作員の手にかかれば抵抗なんてできるわけがないし。
家族だって「どうして自分たちがこんな目に…」という気持ちがあるだろうし、長い間何もしてくれなかった日本という国に不満があるのは当たり前のことだろう。彼らだって、きっと疲れているのだ。
 しかし、正直なところ「家族を取り返すために経済制裁を発動しろ!」とか「日本も核武装すべきだ!」という家族の一部の発言内容については、僕は「巻き込まないでくれ…」と辟易してしまうのだ。彼らがそう言う心情はわかるが、その通りにする必要はない、と感じてしまう。
 僕自身だって拉致されていた可能性がないわけでもない。それでも、今ヘタなことをして日本と北朝鮮のあいだに決定的な決裂が起こる(そして、ノドンとかテポドンが降ってくる)よりは、「まあ、多少屈辱的でも、少しずつ関係改善したほうがいいんじゃないかなあ」なんて思う。「それは日本国民として無責任だ」という向きもあるだろうが、実感として、あんな国と戦争するなんてバカバカしいし、それに自分が巻き込まれたくない。
 たぶん僕は「事なかれ主義者」なのだと思うし、「拉致された人たちの家族の気持ちをわかっていない」のだろう。そういう「当事者意識の欠如」というのが、歴史を不幸な方向に導いたことも多かったはずだ。
 でも、やっぱり「同じ感情」にはなれない。

 そこには、決定的な「温度差」というものが存在していて、結局それは、僕がどんなに相手の気持ちになっているつもりでも、ずっとずっと埋まることがない性質のものなのだろう。
 そして、そういう「温度差」がなければ、生きていくのは本当に難しい。
 拉致被害者のことで世間の目がテレビに向けられている間にも、病院ではごく日常的に多くの人が命を落としているし、アフリカでは餓死している人たちもたくさんいる。それをすべて「自分のこと」として受け止めて生きていくのは辛すぎる。僕だって、自分のことで必死なのだ。

 それでも、「自分が冷たい人間である」ということを実感するのは、悲しいことではあるんだよなあ。



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人はなぜWEB上の「日常日記」を読むのか? - 2004年05月21日(金)

 このあいだ、『Love Story』というドラマの再放送を観ていたら、その中で人気恋愛小説家役のトヨエツが、中山美穂演じる担当編集者に、こんなことを言っていた。
 「読者はどうして僕の小説を読むと思う?あたりまえの人生を送っている人は、そんなドラマチックな恋愛体験なんてありはしない。だから、僕の小説を読んで、そういう恋愛を『体験』するんだ。それが、僕の小説の役割なんだよ」
 まあ、これは脚本を書いた人の気持ちを代弁しているものだと僕は感じたのだけれど。
 文章を読むという行為には、ひとそれぞれの「理由」がある。「知識を得たい」とか「物語を愉しみたい」とか「この作者のことを知りたい」とか。

 でも、そう考えると、「人はなぜWEB上の『日常日記』を読むのか?」という疑問に突き当たる。もちろん、若い女性の日記とかは、「女性心理を知りたい」とか「萌え〜」みたいなので人が来るのはわかるのだけれど。
 タダだし、文学作品より親しみやすいからなのだろうか?
 もちろん、「他人の生活を覗いてみたい」なんて興味もあるだろうし…
 しかし、そういうのって、はたして「知識欲」や「笑いたいという切望」を上回るだけのモチベーションになりうるのかどうか…

 ただね、僕は最近つくづく思うのだが、いくら面白くても、WEBにだけ頼ってはいけないよ。ごく一部の奇特な人を除けば、人間はみんな「お金になるものはお金にしようとする生き物」なのだ。所詮、お金が要らないものにはそれだけの価値しかないか、もしくは、必要な情報を得るのにものすごく手間がかかるかのどちらかのことがほとんど。
 だから、ときどきはお金を払って、プロの作家が書いた本を読んだほうがいいと思うよ。もちろんそれも玉石混合だけど、平均的なレベルはやっぱり「タダのものより高い」はずだからさ。

 まあ、日常日記を読む理由というのは、「書いている人への興味」、コレに尽きるというのはわかっているんだけどねえ。
 こればっかりは、自分ではどうしようもないんだよなあ…


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「2004年本屋大賞」受賞作『博士の愛した数式』の感想 - 2004年05月17日(月)

 この本の魅力を言葉にするのは非常に難しい。
 むしろ「あえて言葉にしていない」というのが、この作品の魅力のような気がするから。

交通事故で記憶が80分しかもたなくなってしまった、(元)天才数学者である『博士』と、家事のエキスパートではあるけれど、その他にはとくに「何のとりえもない」『私』。『私』の息子『ルート』。

僕がこの物語について感じたのは、なんともいえない「居心地のよさ」と「時間というものの残酷」だった。読み終えてパタンと本を閉じたあと、ひとつの人生を読み終えた感慨とともに、それがあまりに淡々と描写されていたことに、食い足りない印象も持ったものだ。

主な登場人物である3人は、それぞれ「欠落したもの」を抱えて生きてきた人々なのだが、彼らはその「自分に欠けてしまったもの」(それは「記憶する能力」であり、「配偶者」であり、「父親」)を他人に対して押し付けることはなく(今流行の「幼少時のトラウマだから!」なんて言い訳はしない)、むしろ他人の「欠けているもの」に対してものすごく寛容で、どうすればその「心の傷」に触れずに相手に接していけるだろうか?ということを常に考え、行動しているようなのだ。「私」と「ルート」に関していえば、「博士」という「欠けていることろを晒して生きていかなくてはならない人間」と接することによって、お互いに自分の「欠けているもの」を自覚するようになった面もあるような気もする。
 彼らは、お互いの心の傷を癒そうとはしないし、その努力も強要しない。それは誰かに癒せる種類のものではないからだ。ただ、その傷口に触れないように、お互いに配慮しあって生きている。
 そんな「お互いの距離のとりかた」がこの作品の魅力なのだと思う。

 人というのは、他人の欠けているところは責めて優越感を感じたくなるものだし、自分の欠けているところは人目に触れないように覆い隠したくなるものだ。でも、博士はそれを覆い隠すことができない。自分の記憶が80分しか持たないことすら、自分の体に貼りつけたメモを見ないとわからないのだ。
 ただしそれは、人間関係においては、どんなトラブルもすぐリセットされるというメリットもあるのだけれど。
 博士にには「偉大な数学者」という一面もあれば、生活破綻者という一面もある。美しい数学の世界への愛情を語る一方で、誰かに頼らないと生きてはいけない。
 この物語の「美しさ」というのは、本当に微妙なバランスの上に成り立っている。「何も起こらない小説」というのに魅力があるのか?と問われるかもしれないが、実際のところ、人生というのは、こんなふうにあっけないほど淡々と過ぎていくものだし、だからこそ人は生きていける。
 物語中の「老い」や「死」ですら、川の流れの一部であり、神の数式で定められていたような静けさが感じられる。
 これは、リアルに「現実というもののリアリティの無さ」を描いた物語なのかもしれない。

 あえて不満を挙げるとすれば、僕はカープファンなので、物語中でタイガースにやられているチームがいつもカープだった、というのと、「博士」と「義姉」の関係が、思わせぶりなわりにはあまり意味をなしていないような感じがしたことくらいかな。でも、そういうところに踏みこまないのが、「流儀」なのだろう。

 そうそう、ちょっと雑談なのだけど(最初から雑談?)、興味深かったのが、この作品が「本屋さんがいちばん売りたい本」として『本屋大賞』に選ばれたということだ。「クライマーズ・ハイ」や「アヒルと鴨のコインロッカー」を従えての受賞。
 この結果から「博士の愛した数式」は、「プロの隠し玉」的な見方をされるのかもしれないが、僕が思うに、この作品は「本屋ではたらく人々」というような「知識」と「静寂」を好むインテリに受け入れられやすい作品なのではないかなあ、と思う。「本屋さんという職種」というよりは、「本屋ではたらきたいと思うような人々」の心に響く作品なのではないか?読書に、興奮よりもやすらぎを求めたい人間たちに、あるいは、過激な描写を競い合う現代社会に疲れた人々に。

 「君子の交わりは、水に似たり」なんて言葉を、なんとなく思い出した。
 そういうのは、きっと現代的ではないのだろうけど。



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最近思ったことなど徒然に。 - 2004年05月14日(金)

(1)たぶん「知らないこと」そのものより、「知らないのに知ったかぶりをしてやってしまうこと」のほうが、はるかに危険なのだ。
 それでも、「知らない」と誰かに言うのはけっこう勇気が必要。

(2)ギャンブルとか不倫とかって、誰の身にも降りかかる可能性があるリスクだ。ただし、本当に危険なのは「そういう不幸な自分に酔ってしまうこと」ではないか。

(3)漫画「ブラックジャック」の患者の多くは、「金はいくらでも出す!」と言いながら、「3千万円!」とか言われると、やっぱり「それは高すぎる…」とかゴネはじめる。「金には替えられない」と口にしながら、なんとなく「このくらいの値段まで」というようなイメージというのは存在しているのかもしれない。

(4)「誰にだって訴えられるようなミス」もあれば、「誰にも訴えようのないような完璧な仕事」だってあるだろう。しかしながら最初から「何があっても訴える!」という姿勢の人だって世間にはいるのだ。

(5)女子バレーを観ていると、「めでたいなあ」とか「一生懸命がんばっている姿はいいなあ」とか思うけど、その一方で「公正な状況での勝負」なんていうのはありえないんだな、とも感じる。

(6)どうしてレスピレーター外したんだろうなあ…そんなことやっても本人には何の得にもならないのに。


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「愛」からいちばん遠いところ - 2004年05月10日(月)

昨日出席した結婚式で、神父さんが、聖書のこんな一節を紹介していた。

<コリント第一の手紙 第13章>

【愛は寛容であり 愛は情け深い また ねたむことをしない
 愛は高ぶらない 誇らない 不作法をしない
 自分の利益を求めない いらだたない 恨みをいだかない
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ そして すべてを忍び
 すべてを信じ すべてを望み すべてを耐える
 愛は いつまでも絶えることがない】

僕は幸せそうな新郎新婦の姿を見ながら、この言葉を聞いていた。
聖書が説くところの「愛」から、僕はものすごく遠いところにいるのだな、と思いながら。
ここで説かれている「愛」が、いわゆる「アガペー」であり、日頃僕がイメージする「愛」が「エロス」であるとしても、「真実の愛」なんて、実際はどこにもないんじゃないか、なんて考えてみたりもするのだ。

僕は特定の信仰を持たないが、生きるために何かを信じたいという人々を全否定できるほど強くもないし、彼らが伝えてきたこの言葉には、おそらく人間の「善きもの」がたくさん詰まっているのだろうと思う。

でも、その一方で、この<コリント第一の手紙>に記されている「愛」が唯一存在しうるところがあるとすれば、そこは「死の世界」だ、などと感じてもいるのだ。
これを全て満たすような状況というのは、人間にとっては「無」だけなのではないだろうか。

「愛情」という言葉があるけれど「愛」と「情」というのは、本来の意味においては、対義語なのかもしれない。
もし、「愛」というのが、人の心を動かすことがないものならば。

ただ、目の前の新しい夫婦は、愛に満ちた人生を送ってもらいたい。
せめて彼らの命が尽きるまでは。

なんとなく、そんなことを考えていた。



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「はじまりの瞬間」 - 2004年05月07日(金)

夜空を見上げていたら、彼女が言った。

「ねえ、今日は満月なんだって。月ってさ、やっぱりウサギが餅つきしているように見えるよねえ。昔の人は、よくそんなこと考えついたもんだよねえ」

僕も「確かにそうだな」と思いながら月を観ていた。
それは、「古くから言い伝えられていること」なのだけれど。

人類の歴史のうちのある一点で、どこかの誰かが最初に
「月って、ウサギが餅つきしているみたいに見えるね」と言ったのだ。
もちろん、現代の日本語とは違う言葉で、だろう。
その発想にたくさんの人々が「なるほど」と感じて、「月のウサギ」の伝承ができた。
「あたりまえのように、ここにあるもの」だと僕たちが感じているものだって、すべてには「はじまり」があった。
そしてきっと「終わり」もあるのだろう。
今こうしている瞬間にも、いろんなものがはじまっていて、そして終わっているはずだ。

僕は、そんな「はじまりの瞬間」に少しでも関わっていたい、そんなふうに思っている。それはたぶん、人間にとっての永遠の命にいちばん近いもののような気がするから。

「月でウサギが餅つきしている」というのを最初に言い出した人間は、まさか自分の思いつきが、こうして未来に言い伝えられていくなんて、夢にも思っていなかったんだろうけどね。




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「異性の友達は成立するか?」に関する各論。 - 2004年05月06日(木)

鷺沢萠さんの「失恋」を読んだあとに。


(1)たぶん「スポーツでストレス発散!」というタイプの人間には、あんまり「異性の友達」は必要ないんじゃないかな。

(2)同性には言えない愚痴だってあるし、彼女にだって見せたくない弱みだってあるのだ。

(3)「口説く」のには勇気もいれば、体力も要る。

(4)正直、たくさんの異性を同時に愛せる人間というのは、基本的にバイタリティの容量が多いのだと思う。それはひとつの才能だ。

(5)異性の友達というのは、ひょっとしたらお互いにとって、車のトランクにあるスペアタイヤみたいなものじゃないか、と考えるとうんざりする。
 いつもは「ただそこにあるもの」でも、パンクしたときには役に立つ、とかね。

(6)だいたい、「異性の友達」っていうのは、いろんなことを自分が記憶しているほどには「覚えてない」よね。

(7)しかしながら、同性の友達というのは、年をとるとなかなかできないものなのだ。ずっとゴルフとオンナの話しかしないオッサンなんてウンザリだったけど、それはそれで共通項があるのなら羨ましくなくもない。

(8)ひょっとしたら、「好きな人」よりも「ずっと友達でいられる人」のほうが、結婚したらうまくいったりするのかもしれない。

(9)結局、僕は保守的な人間なので「セックスしても友達」というのは認められないなあ。

(10)なんか、最近すべてがメンドクサイなあ、なんて思うのですよ。



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映画「CASSHERN〜キャシャーン」感想(激ネタバレ) - 2004年05月01日(土)

以下は、映画「CASSHERN」の感想です。
例のごとく激しくネタバレしておりますので、未見かつこれから観に行く予定の方は、読まないでくださいね。


本当に、ネタバレですよ!

〜〜〜〜〜〜〜

というわけで映画の感想。

『たったひとつの命を捨てて 生まれ変わった不死身の体
鉄の悪魔を叩いて砕く キャシャーンがやらねば誰がやる』

…って、決め台詞はやらないんですかっ!
予告編ではあったのに!
というような点では不満がないと言えば嘘になるんですけどね。
僕はけっこう面白かったです、この映画。
ツッコミどころ満載、という点も含めて。

ストーリーは、もうどうしようもないくらい破綻しています。
あんな学会ありえないし、新造細胞というのは、骨髄幹細胞みたいなものを意識しているのかもしれませんが、問題はそれをどうやって目的の組織に分化させるかってことで、それはそれで誰かの組織であるかぎり拒絶反応だって出るだろうし。それが培養液の中で何かの拍子に自分の意思を持ったかのようにくっついて再生するなんて信じられん。
(まあ、もとは人間だった、というオチがつくわけですが、元の体を認識してくっつくとしたらすごいなそれ)

それに、たった4人でどんなに頑張っても、あんな高度なプラントを管理・運営できるとも思えないし。いろいろ研究者をさらってきたにしても、4人だぞ4人。ただし、唐沢さんの
【我々はまぎれもなくここに生きている
しかし、人間はそれを認めようとはしなかった。そればかりか、目にもあまり残虐な手段を尽くして、われら同胞の命を排除した。あたかも裁きを下す者のごとく、あたかも彼らがその権利を有するかのごとくだ!

命に優劣があろうか。生きるという切実なる思いに優劣などあろうか。ただひとつの生を謳歌する命の重みに優劣などあろ
うか!あるはずがない!しかし、人類は目に見えぬ天秤の上に我々を載せた。それが仮に彼らの権利であるというのなら
その逆もしかり!我々がその権利を有することも可能なのだ!】

という演説は、なかなか格好よかったです。
聴衆が少ないのは残念でしたが。
世間的には、これが「イラクのテロリストへの共感」ととらえる向きもあるみたいだけど、そんなことは、小林よしのりだって言っていたし、多角的に検証しようとする人間なら、誰でも考えそうなことだからねえ。
ちなみに、僕もどちらかというと新造人間に肩入れしてしまいましたし、紀里谷さんも「新造人間に共感してもらいたい」というようなことを言われていたみたい。

これは「反戦映画」なのだろうか?ということを考えていたのですが、どう考えても「反戦」ではないような気がする。アンドロ軍団(って、唐沢さんが率いてたやつですよ。原作ファンは涙、でも作中では一度も名乗りませんが)がやっていることは「人類浄化作戦」だし、人間がやっていることも同様。で、キャシャーンも力づくでなんとかしようとしてしまうわけで。
「戦争によって戦争の無い社会を作り上げようとする矛盾」みたいなものが延々と語られているわけですよ。ラストシーンからは、むしろ「反戦」というよりは、「非戦」(つまり、俺たちは自分の世界で幸せになるから、お互いに干渉しないようにしようよ、という考え)を感じてしまいました。いや、それが悪いとも一概には言えんけど。

最後のシーンは、正直言って「無理矢理謎解きをしてみました」という感じだし、だいたい、「新造人間は本当は人間なんだ」という設定は、あんまり意味が無いような気がします。もうあの状況になったら、悩むようなことじゃないだろ、とか、むしろ「作りものの生命」のほうがテーマに合っているんじゃないか、とか。
それに寺尾聡のマッドサイエンティストっぷりもなんだかわけわかんないし、なんであそこでルナさんを撃ったりしたのかよくわからん。最後に生き返って爆発してしまうのもよくわからないし、キミたちの子供というのもよくわからん。とにかくわからないことだらけです。
「赦し合うことが大事なんだ」とか言いつつ、親子喧嘩してるし。
最初が冗長なわりには最後はドタバタして強引に結論に持っていこうとしてるし。無理矢理ラストで辻褄合わせるよりは、むしろ大爆発で宇多田の曲が流れて終わり、のほうが良かったような。まとめようとしてバラバラ、だものなあ。

しかしまあ、僕はけっこう楽しかったのですよ、この映画。
もちろん、その破綻っぷりを楽しむ、というのもあったのだけれど、この映画って、いわゆる「みんなが褒める名画の条件」というのをことごとく無視しまくっていて、それがすごく新鮮な感じがして。

「ストーリーは辻褄が合ってないとダメだ」
「細かい世界設定がなされていないとダメだ」
「リアルじゃないとダメだ」
「説明的なセリフ回しはダメだ」
「善悪がハッキリしていて、観る側のストレスが解消されなくてはダメだ」(これはハリウッド映画限定なのかもしれませんが)
など、いわゆる「お約束」みたいなものを全く超越しています。
 どうしてそうなったのかよくわからないストーリー展開に、「イノセンス」をチープにしたような東洋的背景。セリフは誰がなんという名前なのかすらよくわからないわりには、テーマみたいなことを延々と登場人物が演説しています。予算の関係なのか、アンドロ軍団とキャシャーン(というか、徹也が自分のことを「キャシャーン」だと言ったのは劇中で1回だけで、もし他人からそんなふうに呼ばれたらHNで呼ばれるオフ会の人くらいの違和感を本人も感じまくると思います)との闘いは、一対一か、キャシャーン対CGだし。おまけにキャシャーンの弱さは特筆もので、ロボット軍団を破壊しまくっていたシーンを除けば、吹っ飛ばされるシーンばっかりが印象に残っています。というか、そもそも何のために出てきたんだキャシャーン。キミの存在は大勢に影響なかったような気がするよ。

とはいえ、なんだかすごく新鮮なんだよこの作品。
僕のへそ曲がりのせいだと思うのですが、最近ずっと映画を観ていて「ハリウッド的なお約束」に飽きていたんだろうなあ、なんて観終わって考えてしまいました。
イメージビデオというか、ゲームの「ファイナルファンタジー」のようなCGの映像美(それだけに、ずっと観ているとかなり疲れるわけですが)、理不尽だけど訳ありげなカット。
そして、個人的には麻生久美子さんの美しさ!たぶん、この人の美しさって、テレビドラマでは表現しにくい性質のものだと思うのですが、どんな目にあっても化粧が落ちなかったり、あんな状況でヒールのまま逃げ惑っていたりするのも、なんとなく許せてしまいます。あの網ブーツもとっても良いです。最後の寺尾さんには殺意すら覚えましたが、とりあえず本人たちは満足みたいだったのでよかったかな、と。

ところで、僕がこの映画に感じた「魅力」というのは、むしろあまりにパターン化してしまった「良い映画を決める人たち」への反発心から出ているもかもしれないなあ、なんて思います。この映画、やたらと評論家の評判は悪いみたいだしねえ。
でも、お客さんは意外とみんな楽しそうでしたよ。

ただ、紀里谷さんの「次の映画」を観たいかと言われたら微妙ですけど。



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